夕立燦々 無邪気に星に願えなくなったのは、いつの頃からだっただろうか。
あしたはAランチが食べれますように、だとか遠足の日は晴れますように、だとか他愛もないことを願わなくなったのはいつの頃からだっただろうか。例えそれらが叶ったとしても、自分が望むことは絶対的に叶わないと悟った頃だっただろうか。
覚えていないくらいの時間が、光雲の横を通り過ぎていった。万華鏡のように反射するその中には、決まった男の姿がいつもある。
もしも自分が幼かったら、きっと願われる神様の気持ちも考えず、軽々しく祈れていたのだろう。
絶対に叶わない。だから言わない。
この時間が永遠に続けばいいのに、だなんて。
滝の中みたい、と濡れた髪を拭きながら光雲は槍のように降りそそぐ白い雨を眺めて思った。
はたはたと屋根をつたって落ちていく大きな水滴は、石畳に弾かれてちりぢりになる。視線を参道へやると、苔むした石灯籠はずっしりとした色へと変わり、静かに佇んでいる。
生ぬるい空気がじんわりと広がっていた。
「ったく、ついてねえ」
かたちの良い眉をひそめた王子が、いまいましげに空を眺めながら呟いた。上を向く鼻筋は、きれいな稜線を描いている。こめかみに滲む汗が、耳の方に流れていった。
「なに言ってるの。雨宿りできるところがすぐ見つかって幸運だったでしょ」
誰のおかげ?と冗談ぽく首をかしげると、王子はふっと体の力を抜くように笑った。
「はいはい。光雲さまのコーウンのおかげですー」
「わ~、棒読み! もう王子なんて今後ずーっと夕立にあえばいいんだ」
「どんな悪口だよ」
苦笑まじりに、王子は自身の衣の裾を軽く絞る。それに倣うように、光雲も手拭いを絞った。染みこんだ水分はぽたぽたと、乾いた石段に斑点を描いた。
学園長先生に頼まれた、取るに足らないお使いの帰りである。
街へ出て頼まれ物の甘味を買い、あと数里で学園につくところであった。頬をなでる風に冷たさを覚え、見上げた青空には黒々と湧き立つ雲があった。
二人してまずいと悟った時には遅かった。ぽつりぽつりと、水を張った田には波紋ができ、唸るような雷鳴が近づいてくる。
慌てて走り出したすぐ先に、山道に続く小さな鳥居を見つけた。幸い、登ってすぐに社殿があったため、大降りになる前には屋根の下へと潜り込めた。それでも額と前髪がぴたりとくっつく程度には濡れてしまっていたが。
「しばらく誰も手をいれていないようだな」
王子が鈴緒に手をかけながら呟いた。
かろうじて神社としての体裁は保っていたが、土埃で浜縁は汚れ、鈴緒は本来の白さを失っている。変色した紙垂もいずれはどこかに飛んでいきそうな頼りなさで風に揺れていた。
一方、本殿の扉は固く閉ざされたままで、そこは荒らされてはいないようだった。
時代の混乱期によって管理者を失い、静かに朽ちていく社は少なくない。
これもきっとその一つだ。
「じゃあ僕たちが久しぶりの人間かもね」
「だなぁ」
ガラン、と頭上で鈴が鈍く鳴った。正しくは王子が鳴らした。ちょっと、と光雲は諌める。
こんな風にいたずらに呼んで、変な期待をさせてしまったらどうするんだ。
誰も訪れず、誰にも手入れされず、ひっそりと忘れられていく神様が顔を出したら、ただの雨宿りの二人組だったなんてきっとがっかりさせるに違いない。
社殿は沈黙したままだ。降りしきる雨が、屋根を激しく打ちつける。
そっと光雲は手を合わせた。きょとんした表情で、王子はそれを眺めた。
「ちゃんと挨拶しとこうよ」
少しの気恥ずかしさもあって、光雲は視線だけを向けた。王子は、得心したように破顔して「そうだな」とうなずいた。本殿に向き直り、二回大きく柏手を打つ。彼のこういう素直さが、光雲には時折ひどく眩しく見える。
この人はいつだって、自分の言葉を、自分の行動を、欲目なしに受け取ってくれる。
まぶたを落とす。生ぬるさをもった風が、光雲の頬を撫でる。ざあざあと地上を濡らし続ける雨の音だけが二人を包んでいる。
西園寺光雲は運の良い人間だと、昔から飽きるくらいに褒めそやされてきた。学園生活においては殊更だ。
野外実習で崖から滑り落ちても無傷だった時、体術試験で相手が足を滑らせて勝った時、ヤマを張った教科テストで満点を取れた時。
クラスメイトはよく口を揃えてこう言った。
――やっぱり光雲は運がいいな。
他意のないその言葉を、光雲はいつも笑顔でかわした。そんなこともあるかもね~、なんて軽口さえ叩いた。
実際、怪我をしなかったのはきちんと受け身がとれたからだし、体術は相手の動きを読んだだけのことだし、テストなんて勉強した以上の結果でしかない。
しかし、いちいち目くじらを立て、否定をするのも馬鹿らしかった。幸運の裏にある努力なんて、誰も興味はない。揶揄されないくらいに自分が頑張ればいいだけの話だった。
そう思っていた。
薄く目を開けて、光雲は隣に立つ王子を盗み見た。口は固く閉じ、頬の筋肉は硬そうに引き締まっている。精悍な横顔だ。胸の前で合わせている両手は骨張っていて、指先にはささむけの赤い跡があった。
――痛くないの?
不意に幼い王子の声が、記憶として光雲の鼓膜に届いた。
二年生に上がる、少し前のことだった。まっすぐ飛ばない矢が悔しく、毎日日暮れまで弓術の稽古をしていた。
集中していたせいもあって、その王子の言葉はすぐに光雲には届かなかった。心配そう、というよりは好奇心で話しかけてきたように見えた。なかなか弓が上達しない苛立ちも手伝って、こめかみから落ちる汗を乱暴にぬぐいながら
「なにが?」
と光雲は聞き返した。
「手のひら。真っ赤になってない?」
そう指を刺され、自身のてのひらを眺める。赤い豆が親指と小指の付け根にぷっくりと生まれていた。血も少し滲んでいる。存在を意識をすると同時に、痛みがじくじくと脈を打ちはじめた。
「保健室行った方がいいよ」
王子が手を差し出す。小さな、丸い手であった。
光雲は黙ったまま、首を横に降った。
「あとでいい。まだうまくできないから」
「なんで? この前の試験でいちばんだったじゃん」
「たまたまだもん。たまたま、風が吹いただけ。運がよかっただけだよ」
「運が良くても、中心に当たったのは光雲の日頃のがんばりがあったからだろ。そうじゃなかったら、矢はもっと違った方向に飛んでいってたよ」
光雲が顔を上げる。暮六つの鐘が、校庭に大きく響いた。まだ青さを残していたはずの空は、凄まじい赤さをたたえて夜を連れてきている。
その狭間で、王子の顔はよく見えた。黒目がちの瞳を無垢に輝かせながら、彼は光雲が諦めて捨てていったすべてを、綺麗にひろって差し出してきた。
「光雲は毎日がんばっててすごいよ」
他意も含みもない、純粋な賛辞だった。
それはきわめて自然に、光雲の心へと落ちた。水面に波紋が広がるように、自分の輪郭がゆっくりと浮かび上がるような感覚だった。西園寺光雲という人間を、ようやく見つけてもらえたような気がした。
俯いた光雲の手を引こうとした王子は、同時にぎょっとした表情を見せた。ぽたぽたと足元に落ちてくる水滴が、間違いなく光雲の瞳から流れていたからだった。
「え!? どうしたの!? 手、痛い!?」
光雲は大きくかぶりを振った。
違う。そうじゃない。だけどうまく言葉がでてこない。説明しようとすればするほど、それは嗚咽に変わる。
急に泣き出した同級生に慌てふためきながらも、王子は自分の頭巾をほどいて差し出した。
それを握りしめながら、光雲は泣いた。
涙に染まっていく頭巾の青さは、今もまだ脳裏に残っている。
「おーい。光雲?」
記憶とはまるで変わった低い声に呼ばれ、光雲ははっと顔をあげた。呆れたように眉をさげて笑う王子が、こちらを覗き込んでいる。
「どうしたよ。ぼーっとして」
「ああ、うん」
昔のことを思い出していた、と素直に言うのもなんとなく憚られる。俺との思い出だろ、と調子に乗られてしまうのは目に見えていた。そんな易々と甘やかしてしまうのはよくない。
「……王子のささむけ見てた」
「はぁ? あ、ほんとだ。赤くなってる」
指を曲げ、王子は真剣にそれを見つめた。ほら、そうやってすぐ素直に受け取る。光雲は気づかれないように小さく笑った。
「帰ったら伊作に軟膏もらわないとだね」
「だな。雨も止んだし」
言われてはじめて、あたりが光に包まれていることに気がついた。
白い雲の隙間からのぞく青空はすっきりと澄み、雨粒をまとった木々たちはきらきらと輝く。屋根から落ちてくる水滴はゆっくりとした速度で弾けて消えた。まぶしさに目を細める。夏の匂いが戻ってくる。
「さ、帰ろうぜ」
ひとつ伸びをして、王子は石段を降りた。その背を追おうと踵をかえしたところで、光雲は立ち止まる。
もう一度、社殿の方を振り返った。雨に濡れたそれは、どこか誇らしげな佇まいをして光雲を見下ろしている。
――神様。
乾いた唇がかすかに震える。
叶わない願いを言葉にできるほど子供ではなかった。それでも、願わずにいられるほど大人でもなかった。
そのはざまで揺れ動く。的は定まらない。
――やっぱりやめた。
弓をおろすように、光雲はゆっくりと息を吐いた。欲しいものは、今までだって自分で掴んできた。一番大切なことだけ神様頼みだなんて、そんなご都合主義は柄じゃなかった。
絶対的に叶わないことだからこそ、気持ちが湧き立つ。大丈夫。絶対叶えてみせる。
だって僕には運がついているから。
「光雲―?」
王子が大きく名前を呼ぶ。濡れた木々の間から、鳥たちが葉を揺らして飛び立っていく。
「今行くー!」
力強く一歩を踏み出す。できたばかりの水たまりが飛沫をあげる。水面にうまれた光の輪は、一瞬のきらめきを残して、やがて静かに消えていった。