木枯らしが鳴いている 蜻蛉が薄青の空に線を描くように飛んでくる。
それは母親と手を繋ぐ子の鼻先を通り、商人の背負うカゴに止まり、そしてやがて王子の眼前で背を丸めている光雲のもとへとやってきた。
団子屋の前で後輩への土産を真剣に吟味している彼にとっては些細なことだったようで、振り払うこともせず、依然として意識は並べられた団子に向いていた。
二、三度羽を瞬かせた蜻蛉は、やがて光雲の肩先へと落ち着く。奇しくも蜻蛉柄の着物を着ていたせいで、妙な馴染み方をして、黄色の布地には赤が映えた。そっと手を伸ばす。
とってやろうとしたと同時に「決めたっ!」と明るい声がして、光雲の背筋が伸びる。王子が離してやる間もなく蜻蛉は飛び立って、戸惑うようにあたりをうろうろとしてから、やがて人混みへと消えていった。
「おばちゃん、みたらしとよもぎ饅頭とうずら餅。二つずつでお願い」
「なんだ。結局三種類買うのか」
「うん。それぞれわけっこするんだ〜」
代金を払い機嫌良く品を受けとった光雲は、それを大事そうに胸に抱えた。にこにこ、という擬音が漏れて聞こえてきそうな顔の綻びに王子は小さく嘆息する。
「全く。いつまでも伊作に甘いな、お前は」
休みだから町へ行こう、と誘ってきたのは光雲の方だった。珍しく二人ともとくべつやるべきことがない日で、王子はふたつ返事で了承した。気分転換、というのが光雲の掲げた理由であったが、きっと目的のひとつにこの買い物があったのだろう。
先週まで実習に出ずっぱりだったこともあって、委員会の仕事は五年生に任せきりになっていた。つまり保健委員の多くの仕事を、伊作が担うこととなった。
歴代不運な人間が選ばれるこの委員会に、なぜ「幸運」を掲げる光雲が選ばれてしまったのか。周りは忍術学園七不思議のひとつとして、まことしやかに語り合うが当の本人はどこ吹く風である。
「幸も不幸も紙一重。人間万事塞翁が馬だからね」と理由を尋ねてきた四年生に語っていたことを、王子はよく覚えている(四年生はわかるような、わからないような難しい顔をしていた)。
ただ結局保健委員会が「不運」と言われるが所以の最もたる検便検査の実施に関しては、たまたま実習があったり、たまたま急な帰省が重なったりなどで、六年間すべて回避していることを思うと、やはり世の中には見えない力があるのだろうな、とも思う。そしてそれは当然、不運な伊作に降りかかってくるわけだ。
兎も角そういうわけであるから、負担のかかる仕事を任せきりにしてしまった後輩への労いと礼を込め、甘味を探しに行きたいというのが光雲の本音だったのだろう。自分で食べるものに関してはあまり迷うことがないくせに、こと他人(なかでも後輩)のことになると途端に悩み出すのだから、光雲らしかった。
呆れたように肩をすくめる王子を、光雲はじとりと睨む。
「そういう王子だって、さっき新しい筆買ってたでしょ。しかも二本。一体誰にあげるんだか」
「ち、違う! あれは予備としてだなっ」
はいはい、と遮るように光雲が軽く手を振る。反射的に取り繕ってしまったが、六年間寝食を共にしている彼を、こんな雑な言い訳でごまかせるわけもなかった。意地悪そうに光る瞳に根負けする。
「……最近、留三郎も頑張っているからな」
後輩は厳しく育てるものだ、と普段から豪語している手前、なんとなく気恥ずかしくなって、王子は唇を軽く尖らせる。光雲のことをさんざん甘いなどと言っておいて、当の自分はどうだという話だ。
ただ、いたずらに甘やかしているわけではない。相応に努力していると知っているからこその、ささやかな労いだ。
実際に五年生に進級したころから、留三郎はぐんと成長した。己の身体の使い方をようやく掴めたように、体幹はしっかりし、無駄な動きも減った。教わったことを真摯に受け止め、身につけ素直に伸びていく後輩が、可愛くないはずがなかった。だから、たまにはこれくらい良いだろう。
光雲のことだから、どうせまた何か揶揄ってくるのだろうと身構える。しかし返ってきたのは「そうだね」という優しい声だった。
「みんな、成長してるよね」
微笑んでいる顔には影が差し、眼差しは穏やかなのにどこか遠くを見ていた。光雲、と名を呼ぼうとしたが、遮るように「帰ろっか」とつとめて明るい笑顔を返されたので、それは音になることなく王子の喉に飲み込まれていった。
町を離れ、畦道をしばらく歩き、大きな川へ出る。
川辺を進みながら、調子を取り戻したように先日習った兵法の活用方法を熱心に問いていた光雲だったが、「つまり、忍びに色を替えると云う習いだよ。まず目的を易しい方へと変えて……」と言いかけたところでぴたりと足と声を止めた。
視線は一点に向いている。追うと、川縁に何かが浮いているのが見えた。
死体だ、と瞬時に王子は理解した。
ボロボロの着物に包まれた身体はぴくりともせず、何かにすがろうとしたのか伸ばされた手は白く、項垂れていた。頭からずれ落ちている陣笠に、上流にある城の家紋があったのでおそらく流されてきたのだろう。あの近辺では領土争いが活発になっていると、十日ほど前に学園に立ち寄った利吉に聞いた話を思い出す。
光雲は眉を寄せ、口を真一文字に結んだままそれを眺めた。包みを抱える指先が、かすかに震えているのがわかった。
王子は、懐から黒の襟巻きを取り出し、光雲の首へと巻いた。夜が近くになるにつれ、冷えが深まるだろうから持ってきていたものだった。
「冷えてきただろ」
「……うん。ありがとう」
王子の方を見ないまま、光雲は言った。その眼差しは、さっきよりもずっと深く、暗い。
優しすぎるのだ、と常思っていた。
人の死に様を目にすることが、初めてでは当然ない。四年生の時分に、初めて繰り出された実戦演習から始まって、嫌になるほど見てきたものだった。こんな時代であるのだから、仕方のないことだと思っていた。自身が生きるか死ぬかの瀬戸際にいて、知らぬ人間に情を移せるほどの余裕は王子にはなかった。
それでも、一方の光雲はいつも暗く悲痛に満ちた顔をする。会ったことも話したこともない人間の、人間だったものの抜け殻を前にして、唇を噛む。とうてい忍びに向いていない心だと、きっと師や先輩は言うのだろう。
だが、王子はそんな光雲を否定したくなかった。
人の心を持ちながら、誰よりも強くいられるのが王子の知る西園寺光雲だった。それは何者にも奪うことができない彼だけが持つ光だ。どれだけ相手を悼んだとしても、彼はきっと自分のするべきことを迷わない。
むしろ自分の方が、と王子は思う。
仕方がないと無情に他者を切り捨てているくせに、いつか来たるその日に、俺は彼を、光雲を切れるのだろうか。
考えないようにしていたかった。しかし不意に自分たちが生きている世界を容赦無く突きつけられると、考えないわけにもいかなかった。
将来、敵対する城にお互いが仕えたら、俺は光雲と戦わなければならない。その時、俺はプロとして仕事ができるのだろうか。優しくて泣き虫で愛情に満ちた、この友人を切ることができるのだろうか。
やらねばならないと頭では理解している。それでも、そうならない未来をつい願ってしまう。
甘いのは他でもない、自分自身だ。
「帰ろう」
どれだけ二人で立ち尽くしていたのか。袂を通り過ぎる風が冷たくてひとつ身震いをした後、王子は光雲の背を押した。黙って頷き、光雲は歩き出す。襟巻きで口元を隠し、土産の包みをいっそう大切そうに持ち直す。
同時にぐぅ、と二人分の腹が鳴った。ふたりでたっぷり顔を見合わせ、破顔する。
「……お腹すいたね」
「だな」
「晩御飯、何が食べたい?」
「そうだなぁ。焼いた鯖がいい」
「気が合うね。同じこと思ってた」
「そりゃあ、友達だからな」
生きるしかなかった。
あすなくなってしまう命かもしれなくても、自分たちは生きるしかない。飯を食べて眠り、師から学び、己を律して後輩を鍛えていくしかない。
懐にしまった筆を、王子は衣の上から撫でた。瞼の裏に、自分を慕いどこまでもついてくる後輩の、曇りのない瞳を思い出す。
生きてもらうしかない。こんな時代だからこそ。
二人は歩く。黄昏が背後に迫っている。赤蜻蛉が二人の間を追い越して夕焼けへと溶けていく。木枯らしがひゅうと大きく鳴いた。
もう、冬が来ていた。