ひかりは近く、遠く しゃく、しゃくと小気味の良い音が、高く澄んだ秋の空へと吸い込まれるように消えていく。六年長屋の敷地の一角、縁側に降りてきたらしい百舌がピィと高く鳴き、遠くで下級生たちが笑い合う声と混ざり合う。
「もう冬毛だねえ」
のんびりした声が背後から聞こえて、善法寺伊作は一瞬自分の毛のことを言われているのかと首を動かしそうになった。「あぁ、動かないで」と柔らかい調子はそのまま、すこしだけ厳しさを含んだ言葉に、思わず背筋を伸ばす。
「ああ。百舌ですか」
伊作は尋ねた。長屋に背を向け、用意された台に腰をかけていたので、彼はそれが見えなかった。伊作の頭の位置を調整しながら「そう。ふっくらしてる」と、さきほどから小気味の良い音をたてている張本人である、斉藤タカ丸はのんびり笑った。彼はちょうど、伊作の髪を整えているところであった。
「でも本当にびっくりしちゃった。不運で土井先生の手裏剣が髪の毛にあたっちゃうなんて」
「はは。まあ、その、不運なので…」
伊作は曖昧に笑う。そういうこと、にしておいたのだ。
学園の教師である土井半助が記憶を失ったこと、ドクタケ側の軍師についていたこと。その情報だけは一連の騒動の後に学園内で共有をしたが、その詳細を、彼らは四年生以下には語らなかった。
六年生六人がかりで戦っても太刀打ちできなかったこと、一秒たりとも隙を見せられない、生死の境に立つ緊迫感。本気で命をとられそうになった、あの一太刀。
それらを彼らは語らなかった。学園へ戻った後も、土井は何度も謝ってきたが、すべては己らの実力不足だったと、それは六年生全員が自覚していることだった。命があってよかった、とも。それはひとえに自分たちが生きていて良かっただけではない。
彼に、自分を教え導いてくれた「先生」に、そんな業を背負わしたくなかった。
だから、生きていてよかった。
力で敵わずとも、命を落とさない強さを自分たちが培っていてよかった。それは他でもないこの師と、今まで導いてくれた先輩達のおかげだ。
はらり、と首元にかかる白布に、自分から切り落とされた髪が落ちる。淡い茶色の、陽に透けて消えそうな細い髪の毛。
光雲先輩、と伊作は声に出さないで呟いた。自分と同じ髪の色をした、ひとつ上の上級生の後ろ姿を思い出す。柔らかくて、緩やかに揺れる高く結われた髪の毛。
その背中をずっと五年間、ずっと見ていた。
光雲先輩こと西園寺光雲は幸運の持ち主だ、と言われていた。
入学したばかりの一年生の伊作の耳にも、その噂はすぐに入ってきた。あの二年の先輩には幸運なことがたくさん起こるらしいぞ、とは同室となった食満留三郎に教えてもらったことだった。へえ、と校庭で同級生と戯れている光雲の姿は確かに明るく輝いてみえて、まるで自分と正反対だなあと思った。
穴があれば必ず落ちたり、出かければ牛の糞を踏んだり雨が降られたりと、不運の持ち主である自分とは、まるで。
西園寺光雲が幸運なら、不運は善法寺伊作だと、その言が学園を取り巻くのもそう遅くはなかった。自ら手を挙げた保健委員会だって、不運だからだと周囲は囁いていたが、伊作にとっては取るに足らないことだった。
その一方で、保健委員会に立候補し、はじめて医務室に入ったときに、当時の保健委員会委員長の隣に、ちょこんと座っている光雲を見て伊作はひどく驚いた。
「先輩は、幸運なのに保健委員会なのですか?」
考えるより先に思わず声出していた。まだ挨拶だって、きちんとしていないのに。しまった、と伊作が口を押さえると同時に、先に笑ったのは光雲だった。
「この委員会には幸運も不運もないよ」
微笑むその瞳には、自分よりひとつ上とは思えない芯の強さがあった。そう、と委員長も口添えをする。
「保健委員会は健康診断で検便をするから不運な生徒が選ばれる、って言われるけどね。逆に言えば運がつく、とも言える。でも善法寺は自分から立候補したんだよね。それこそこちらとしては驚きだよ」
どうして?と促され、伊作は居住まいを正した。
「ひとを助けたいからです」
まっすぐに告げた。濁りも驕りも、何もないただ純粋な気持ちだった。
二人は、しばらく伊作をぱちくりと眺めた後、そう、と少し似た笑顔をそろって見せた。
「それが保健委員には一番大事だよ」
思えばその頃と、同じくらいの髪になってしまったな、と首筋を通る風の冷たさで伊作は思い出す。
歴代の委員長や先輩たちを見送っていく中で、ひとつ上の学年だった光雲には五年間、とりわけ手をかけてもらった。「同じは組だからね」と光雲はよく言っていた。
それでも時間があれば、組み手の鍛錬に付き合ってもらい、体力づくりのためによく裏山に二人(時々は光雲の同級生である流石王子と、同じく目をかけてもらっていた食満の四人)で走りにも行った。
一方で鍛錬に出かける先々で猪に追いかけられたり、滑って崖から落ちたり、岩が落ちてきたりという伊作が持つ不運は、当然のようについてきた。
――いい加減、嫌にならないのだろうか。
伊作が四年生の時分、鍛錬に付き合ってもらった帰りに通った橋が崩れ、ふたりで川に落ちたことがあった。幸い浅く、流れも急ではなかったからすぐに土手にあがったが、いい加減自分の不運ぶりが情けなくなり「すみません……」と伊作は立ち上がらないまま呟いた。
光雲は、自分の藤色の上衣を絞りながら心底不思議そうに「何が?」と尋ねた。
「僕の不運のせいで、その先輩も不運に巻き込んでしまって……」
「え? そんな、二人で溺れ死んだわけじゃないんだから。むしろ汗かいてたし、水浴びできてラッキーじゃん」
けろりと光雲は述べた。嫌味も不満も、何もない純朴な言葉だった。伊作は顔をあげる。濡れた光雲の髪は、水分のせいで重たそうだったが、太陽の日差しを浴びていっそうに輝いて見えた。
「伊作。風邪ひいちゃうから、早く衣脱いで絞ったほうがいいよ」
ほら、と光雲は地面に座り込んでいた伊作に手を伸ばす。
日の光が、光雲の背中越しに差して、ぽたりぽたりと髪の先から落ちていく水滴は煌めき、伊作の膝へ落ちてにじんで消えた。
強くなりたい、と唐突に思った。
この人のような、どこまでも人に手を差し伸べられるひとになりたい。
光雲の手を借りて、伊作は立ち上がる。そのてのひらは、濡れていたはずなのにひどく暖かくて、力強かった。
ピィと高く鳴く百舌の声に我に帰る。
髪を切り揃えるタカ丸の手は止まっていない。南から西へと傾きかけた、秋のやんわりとした日差しがまっすぐに伊作をさした。あ、とタカ丸が声を漏らす。
「善法寺くんの髪って、やわらかくておひさまの色が透けるねえ」
さらりと髪に触れられる感触を覚える。おひさまのいろ、と唇で転がす。そうだ、あの人は太陽のような色だった。伊作は目線だけ、空へ向けた。
卒業後、光雲は“違う国”へと旅立った。忍にとって、就職先を尋ねるのは御法度であることは、当時五年生だった伊作も十分理解していた。それでも、聞けずにいられなかった。
先輩はひどくやさしいから。どこかで傷ついていたら、すぐに僕が駆けつけてあげたかったから。
だから“違う国”という言葉が出てきた時、一瞬頭が真っ白になった。四年生たちは「近江の国ですか? それとも播磨の国?」と日本であることを前提としていたが、伊作は光雲の言葉の選び方で、それが何を意味するのか、すぐに理解していた。
――この人は、本当に違う国行くのだ。自分がとてもたどり着けない、そんなところまで。
どうして、とそこからはほとんど理性はなかった。後輩としての立場も、忍としての立場もどうでもよかった。膝を落とす。善法寺伊作として、西園寺光雲に聞きたかった。
「どうして 国を出るんですか」
ひとりの人間としての質問に、光雲は同じように跪き、伊作をまっすぐに見据えて言った。
「仲間と争いたくないから」
その瞳の奥にある芯の強さに、伊作は何も言葉を出すことはできなかった。
争いは好きじゃない。できれば人を助けたい。伊作自身、そう願っていた。それが簡単に許される世の中ではないことも理解していた。
そんな狭間に立たされている自分と違い、先輩は新しい道を見出そうとしている。
国を出る。新しい土地で生きる。それは、もしかしたら自分たちにとっての希望の道にもなる。先輩と争う未来なんて、僕だって想像したくない。
だから行かないで、と喉まで出た言葉を伊作は飲み込んだ。
この人の、こういうひととしての強さに憧れていたのは、他でもない自分だ。
「だいぶん短くなっちゃったねえ」
首元に巻かれた白布を取りながら、タカ丸が言う。しばらく同じ姿勢でいたので、やけに肩がこって、伊作は大きく伸びをした。
「一年生ぶりですよ。こんなに短いの。なんだか落ち着かないや」
「ふふ。早く伸びたらいいね」
タカ丸がやわらかく笑う。はい、と伊作も目を細める。髪があったはずの場所を、そっと撫でる。
「追いつけるようにがんばらないと」
空を見上げる。百舌が高く飛んでいく。雲間から差し込む陽はゆるやかに黄金に色を変えて、伊作を照らした。
強くなる。
この空の下のどこかにいる光雲へ届くように、誓った。次に会う時にはきっと、もっと。