真冬の朝のフレンチトースト食卓の上に、粉砂糖を振りかけたフレンチトーストと野菜のスープが乗っていた。
「……これは。」
「えへへ、浄さんが喜んでくれるかなと思って。いつもはご飯とお味噌汁なんですけど、浄さんはパン派ですよね?」
せっかく来てくれたから、とエプロンを身に付けた紫苑が隣に座った男に微笑みかける。
「美味しそうだね。いただこうか。」
隣の男は紫苑に目配せすると、当たり前のような顔をして食卓に腰を下ろし、きっちり着こなした昨日と同じシャツの袖を少しまくってから、器用にナイフとフォークを使ってフレンチトーストを口に運ぶ。
その姿を呆気に取られたように、半ばぼんやり眺めていた。
「蒲生くん、もしかして食べづらかった?良かったら、切ってあげようか?」
向かい側に座った紫苑が、こちらにコーヒーを差し出しながら言う。
「深水、流石にそれは甲斐甲斐し過ぎるんじゃないか。」
「うるさい。子供じゃないんだ、パンくらい自分で切れる。」
慈玄がパンにナイフを入れると、力を入れ過ぎたのか皿がギィと悲鳴をあげた。
最近、紫苑がこの軽薄な男と親しくしていることは知っていた。紫苑が浄と出かけるとき、慈玄はいつもあまり遅くならないようにとだけ言って見送っている。朝早くに家を出てまだ明るい時間に帰ってくることも、一泊してくると出ていった日もあった。浄は律儀な男で、いつも玄関まで送り届けに来る。それはとても、男同士の気楽な付き合いには見えなかった。
昨日は今年一番の雪が降った日だった。夜12時を回った頃に、紫苑は「少し出掛けてくる」とだけ言って急いで家を出て行き、薄手のジャケット姿で耳を赤くした浄を連れて帰ってきた。
「やあ、こんばんは。レディの家からこの時間に追い出されてしまってね。途方に暮れていたんだ。」
せめてコートと一緒に放り出して欲しかったね、と大袈裟に眉尻を下げてみせる男を目にして、大体の事の顛末の想像が付いた。
「一体女性にどんな不義理をしたらそんなことになるんだ。」
「……少し行き違いがあっただけさ。」
軽薄な笑みを浮かべる浄に、一度は締め出してやろうかと思ったが、慈玄も人の心が無いわけでは無い。温かい茶くらいは出してやろうと家に上げた。
「ねぇ、泊まってもらっちゃダメかな?……お酒が入ってるのかな、ぼんやりしてるみたいで。ちょっと心配で。」
「……この天気だとタクシーもめいいっぱいだろう。勝手にしろ。」
「布団、ぼく達の分しかないから、二枚並べて、僕が真ん中に寝ていい?」
「……そうする他無いだろう。」
同じ部屋で過ごした2年と少しの期間、慈玄は紫苑からの頼まれごとを断れた事など一度も無かった。紫苑はあっという間に浄が一泊するための準備を整え、お腹が空いていないかと作り置きのおかずを勧め、一番風呂に案内していた。
慈玄が風呂が空くのを待ちながら日課の読書にふけっていると、明日の準備を済ませたらしい紫苑が二人分の緑茶とみかんを食卓の上に置いた。
「深水、随分あいつのことを気に入っているようだな。」
「だって、いつもお世話になってるし、困ってるみたいだったから放っておけなくて。」
「……浄さんを迎えに行ったら、浄さんったらぼくのこと天使みたいだって言ったんだ。可笑しいよね。」
紫苑は目を伏せて、曖昧に笑った。
「……あぁ、あいつには自分に都合のいい奴は全員天使に見えているんだろう。」
「そうかな……そうかもしれないね。」
反射的に口をついた言葉に、分かりやすく紫苑の表情が濁った。まずい、と思ったが、浄の口にする歯の浮くような台詞が信用ならないのは本心だった。
「お前、何をしにきた。」
「説明した通りだよ。レディを怒らせてしまってね。」
隣に敷かれた紫苑の布団から浄が顔を出した。こちらに顔を傾けた拍子に、額に散った髪をかき上げる。この姿の浄を紫苑は以前にも見たことがあるのだろうとふと思い至って、頭を振って思考を払った。。
「何もうちに来なくても、他の女の家に泊めて貰えば良いだろう。」
「夜中に追い出されて頼ってくる男なんて、格好がつかないだろう?タクシーは捕まらないし、流石に野宿する訳にいかないからね。深水の家が近いことは知っていたから、彼に助けを求めたんだ。」
「……お前、深水の好意を利用しようとしていないか。」
「はは、人聞きの悪いことを言うね。相手が誰であれ、深水が困っている人間を放っておけない性分なのは、君が一番知っているだろう?今日は彼に頼りたくなった、それだけだよ。」
答えにならない答えを返され、どう問い詰めようかと思案していた所に、先程までキッチンに向かっていた紫苑が襖を開けて寝室に入ってきた。
「お疲れ様。夜遅くまで精が出るね。」
「えへへ、ちょっと明日の朝ごはんの準備をしてたんです。2人でなに話してたんですか?もしかして、仲良くなった?」
「残念ながら、きみの番犬に噛みつかれていたところだよ。」
浄はしたり顔で紫苑にウインクを向けると、寝ぼけ眼の紫苑にこっちへおいでと敷布団を捲る。
「誰が番犬だ……。」
「ふぁぁ……浄さんも蒲生くんも、今日は遅いからもう寝てくださいね。」
「あぁ。」
「勿論だよ。」
「ふたりとも、おやすみ。」
翌朝朝食を済ませると、紫苑はぼくはこれから依頼があるから、良ければゆっくりしていってください。と言い残して、慌ただしく出ていってしまった。浄は紫苑を見送ると、そそくさと身支度を始める。
「じゃあ、おいとまするよ。蒲生、靴べらを借りても良いかな?」
「……どういうつもりなんだ。深水に対して不誠実だと思わないのか。」
慈玄は靴べらを差し出しながら、そう切り出した。
「また尋問の続きかい?君が何をどう捉えているのかは知らないが、俺と深水とはお付き合いしている訳じゃないよ。」
へらっと笑って返す浄に慈玄の眉間の皺が深くなる。
「それに対して言っている。お前も気付いている筈だろう、深水はお前に好意を持っている。」
「ピュアなボーイだね。俺は深水に何か嘘をついている訳じゃ無いし、彼は勿論俺の仕事についても知っている。ただ、楽しくデートをしているだけだよ。レディ達と同じようにね。」
「……それを不誠実だと言っているんだ。深水は遊び慣れているお前の店の客でも無ければ、お前みたいに器用な奴でも無い。深水をお前の恋愛ごっこに付き合わせるな。」
慈玄の手のひらは拳をつくっていた。浄は慈玄を一瞥すると、艶やかな革靴に靴べらを差し込む。
「……沢山のレディを幸せにするのが、俺のポリシーだからね。」
答えにならない答えと共に靴べらを返される。
知らない女に追い出された浄を迎えに行って、甲斐甲斐しく世話をして、泊めてやって、それはあまりに浄にばかり都合が良いのでは無いか。今は良くても、いつか紫苑が傷付くのでは無いか。慈玄にはそう思えてならなかった。
「大丈夫さ、俺も深水の泣き顔を見たくは無いからね。それに、君みたいはタイプは時にそういう経験をして大人になることも必要かもしれないね。」
「俺が深水に好意を持っていると思っているのか?それは誤解だな。」
「そうなのかい……?それは美しい友情だね。世話になったよ。それじゃ、深水には改めてお礼を言っておくから、じゃあね。」
浄は少し驚いた顔でそう言い残すと、こちらに片手を降ってからアスファルトを覆う雪に足跡を残して去っていった。
雲ひとつない空に、冬の青く重い空気を割くように眩しい朝日が差していた。きっと暫くしたら、仮面ライダー屋に雪かきの依頼が入って来るだろう。深呼吸をして空気を胸いっぱい吸うと、胸の奥がひんやりした。紫苑が狡猾な歳上男に未熟な恋心を搾取されているのでは無いかという疑念を晴らすことはできなかったが、他人である自分がこれ以上口を出すことでは無いだろう。ついカッとなって他人の事情に踏み込み過ぎてしまった。もし紫苑が悲しむようなことがあったら、背中でもさすってやってから
あのにやけ顔の男に一発入れに行けばいい。