せんせいとせいと 放課後の教室。他の生徒はとっくに下校しており、誰も居ない。外で部活動を行っている部員らの声だけが遠くの校庭から聞こえてくる。
そんな教室でひとり。一郎は、気を抜くと上がってしまいそうな口角を引き締めながら、彼を待っていた。
「おう。ちゃんと残ってたな、イイコ」
「…うっす」
一郎のクラス担任でもあり、数学の担当教員でもある碧棺左馬刻。よく逃げずに来たと揶揄うように笑いながら、一郎の頭をくしゃりと撫でて、正面に座った。
「んじゃ、補習やってこうな。逃げんなよ」
「うす」
「俺様の担当クラスで赤点とか、お前だけだぜ。センセイ悲しいなあ」
「…センセーの教え方が悪ぃんじゃねっすか」
生意気なことを言うのはこの口かと軽く頬を摘まれ、すぐに離される。ちっとも痛くなかったくせに、痛ぇ!と大袈裟に声を上げながら摘まれていたそこを擦ったのは、赤くなる感覚を誤魔化すためだった。
そんな一郎の内心なんて気付かない目の前の男は、じゃあやるぞーなんて言いながらプリントに目を落としている。そんな憎らしいところが、憎めなかった。
□
「んじゃ、最後にこのテストやって六十点以上取れたら終わりな」
「えーまだあるんすか…」
「何のための補習だと思ってんだよ」
間違っていたところを重点的に叩き込まれてパンクしそうになりながらも、何とか頭に入れた。入れられた、と思う。もう帰りたいと遠回しに駄々を捏ねるも、インプットしたのだからアウトプットをしろ、じゃなきゃ身につかねぇだろと頭を小突かれる。
そもそも、この男とただの二人きりになれるタイミングなどそう無いのだから。帰りたいというのも半分、いや、1/4くらいが本当で、残りは嘘だった。ずっとこのままだったら良いのに。補習でさえ無ければ。
そう考えた時、ふと頭によぎった。この後のテストが終わってしまったら、本当に。この時間が終わってしまう。当たり前のことなのに、とても惜しい。もう少しだけでも、この二人だけの時間が伸ばせやしないか。
「…頑張ったかわいー生徒に、ご褒美くださいよ」
あれこれ考えるより前に、気付けば口から出ていた。そもそも、頭で考えるのは向いていないのだ。これでもし、何か約束が取り付けられるなら御の字。無くてもまぁ、それくらいで挫けるつもりは無いし。今回は残念ではあるが。
さあ、目の前の男はどう出る?とドキドキしながら、それを顔に出さないように努め、見つめる。
「いいぜ。頑張ったイチロークンに、特別にな」
「っなに、くれんの?」
まさかのイエス。しかもあっさりと。一瞬声が裏返ってしまったことも気にせず、続きを期待した。
「ご褒美つっても物やるのはな。点数に応じて最大5つ、なんでも質問に答えてやるよ」
「し、質問って…結局勉強てこと?」
舞い上がった心がほんの少し降下した。揶揄われてる?と唇を尖らせて恨めしげに見つめると、人差し指を一郎の唇に軽く触れさせて、笑いながら言った。
「いや?イチロークンの知りたいことなぁんでも。そりゃ勉強のことでも俺は構いやしないが…」
聞きたいこと、色々あるだろ?なんて笑う。
その顔と、唇から伝わる熱に耐えきれなくて。軽く振り払い、言いましたからね!と叫んだ。
□
キュッキュッと赤ペンが紙の上を滑る。それらを操る指が綺麗だななんて思っていたら、気付いたら採点は終わっていたようだった。
無言で差し出された紙を受け取り、恐る恐る右上を見る。そこには。
「は、八十五点…!」
「やりゃ出来るじゃねぇか。頑張ったな」
「あっご褒美!質問!いくつしていいすか?」
くしゃくしゃとあやすように頭を撫でられ、擽ったく受け止めながら約束を思い出す。大事なことだ。
六十点から十点刻みでひとつ、なのでみっつのはずだが、四捨五入と頑張ったオマケでよっつで良いと言われた。
やった!と思ったが、いざ何でも聞いて良いと言われると、何を聞いたら良いのやら。色んなことが頭の中を流れては消えていき、どうしようと気が急いてしまう。
どうした?何でもいいぞ、と声をかけられて、つい口から出たのは。
「あっ、その、センセーって、その、モテる…?」
いや、いやいや。無い。これは無い。
この手の話題はクラスの女子たちが色めきだって聞いてはハイハイ、と軽くあしらってまともに相手にしてくれないのは知っていたのに!
あわよくばと聞き耳を立てていたけれど、過去一度も何の情報も得られなかったことは自分が一番よく知っていたのに!
なんでも良いとは確かに言われたが、今まで誰から聞かれても真面目に答えて来なかったことを教えてくれるとは思えない。失敗した。し、折角の権利をひとつ無駄にしてしまったと一郎は内心頃垂れた。
「まぁ、今まで付き合う女に困ったことはねェな」
「う、え…」
「答えたぞ。次は?」
え、え!答えてくれるんだ!
驚きを隠さない顔で見つめていると、続きを促される。余韻に浸る時間も、次をきちんと考える時間もくれやしない。
「あ、じゃあ…好きなタイプ、とか…」
「あーそうだな。今までよく考えたことは無かったが…」
ちらり。一郎の方へ視線を寄越し、足から登って顔まで上がっていく。自然とそのまま目が合って、じぃっと見つめられた。
「…背は高い方がいいな、俺も高いからな。あとは気が強めで…ちょっと生意気なくらいが可愛い。年上か年下か〜ってよくあるあれなら、断然年下」
「へぁ…意外すね」
「はは、どのへんが?」
一郎の想像よりかは具体的に語られた答えに、思わず口から溢れ出てしまった。最初の質問により自他ともに認めることとなった、女慣れしている百戦錬磨の彼なら。てっきり年上の女が好みだと思ったからだ。
そう素直に言うと、そういうお前は年上好きそうだよななんて言われた。いや、そうだけれど。というか好きになったひとが年上なだけであって。悔しいのでこれには答えてやらなかった。
「ん、じゃあ次」
「……いま彼女、とか。いますか?」
「…やたらにそういうことばっかだな?クラスの女子たちにお願いでもされたか?」
「やっそういうんじゃ…」
しまった、素直に答えてくれるものだからと油断していた。好きな食べ物とか、休日は何してるのかとか無難なことも挟んでおくべきだった。慌てて否定したのも失敗だ、女子たちのせいにしておけばよかったのに。ごめんな、女子たち。普段からあんま喋らないが。
「ふーん?じゃあイチロークンが知りたくて聞いてんだよな?」
「っ…そうすよ!そもそも、俺のご褒美でしょ」
こうなっては変にまた否定するのもおかしい。いっそヤケになって一郎は開き直った。
「いねぇよ」
「…彼女じゃなくて彼氏、とか?」
「ばぁか。老若男女問わず、今はいねぇ」
嘘なのでは?と少し訝しんで見てみる。が、どうやら本当らしい。知らずにほっと安堵の息が零れた。
「そっかぁ…じゃ、最後。好きな食べ物は?」
「いきなり温度差すごくねぇか? 肉」
「肉。っぽい!」
バリバリ肉食ぽいもんな、色んな意味で。
これでよっつすべて使い切った。聞きたいことも聞けたし、思いのほかきちんと答えてくれたので一郎は満足していた。それに、二人きりの時間も三十分ほどは稼げた。上々過ぎる。今日はこの後内心浮かれながら帰って、寝る時に思い出してまた嬉しくなるのだろうなと考えていた。ので。
「…なぁ、俺からも聞いていいか?」
「えっあっはい!どうぞ!?」
咄嗟に、うっかり。イエスと返してしまった。
「イチロークンは?いんの、カノジョ」
「は、いないっすよ!…勿論彼氏もね」
隠すことでも恥じることでもないため素直に答えた。ふぅん、と右の口角を僅かに上げて笑う目の前の美丈夫は何を考えたか。するりと指を絡めてきた。なんで?
「え、なん、なっ…」
「じゃあもうひとつ。好きなやつ…気になるやつでもいい。そういうのは?いる?」
「え、う、え…!?」
「なぁ教えてくれよ、いるのか?」
内緒話をするように顔が近付く。囁くように問われる。喧騒は十分過ぎるほど遠い。そんなことをしなくたって、聞こえるのに。それどころか、自分の心臓の音の方が大きくて、聞こえてしまうんじゃないか。そちらの方が気が気ではなかった。
おまけに中指で手の甲をなぞってくるので、擽ったくてたまらない。なぁ、と促される。握る手に僅かに力を込められる。逃がさない、とでも言うかのように。
「俺だけタダなんてっずるい、すよ…!」
「…それもそうだな。さっきのはお許しが出たからともかく、今回のはフェアじゃねぇな」
絞り出した言葉に、目の前の男はきょとんとして瞬きを数回。
「イチロークンもあともうひとつ、俺に聞いていいぜ。勿論なんでも。これでどうだ?」
「……乗った」
そう返すと笑みを深くし、続きを促される。
ぶわりと熱が広がる。頬どころか、絶対に耳まで赤い。胸の早鐘は鳴りっぱなしで、口の中が乾いている気がするのに、視界は薄らと水分を帯びてくる。
「い、る…すきなひと」
「へぇ…同い年?」
「歳上」
「そう、同じ学校のやつ?」
「ん、まぁ…そう」
「そ。仲は良いのか?」
「どうだろ、悪くは…ないと思うけど。よく話すし、今日もいっぱい喋った」
「へぇ」
一郎は現在二年生だが、親しくしている三年生はこの学校内に一人も居ない。それを担任である男はよく知っているはずだ。それに、今日の昼休みなどは爆睡をかましていたし、移動教室や体育も無かった。
「…いい趣味だな?イチロークン」
「っうるさいな!俺の番すよ!」
いくら察しの悪い人間でも、きっと気付いただろう。そもそも隠しきれて無かったかも知れないけれど。事実上伝えてしまったことと、隠せていなかったことは別問題だ。
手を離されないということは、少なくとも引かれていないんだろうか。それとも本当に気付いてない鈍感なのか。もしくは、揶揄って遊んでいるのか。ぐるぐると思考が巡る中、絡まった指は繋がれたまま、男の方へと引っ張られた。
「いいぜ、なぁんでも。何が知りたい?」
ここまできて、引けるわけがない。
「…センセーは、いないの?」
「なにが?」
「す、すきなひと」
「…いる」
「歳上?」
「いや、下」
「この学校の、ひと…?」
「まぁ、そうだな」
「っ!」
男は一郎の六歳上で二十三歳。在籍する教員の中で現在最年少だ。用務員は年配の男性だし、教育実習生もいない。そうなると、生徒の中に相手がいるということ。
「あ、えっと…その、相手、生徒ってことですよね」
「そうだ。今すぐどうこうしようってんじゃない、卒業まではちゃんと待つ。その辺は弁えてるからな。だが想うのは自由だろ」
「……」
卒業。じゃあ、もしかして。校内一美人と評判な三年生の女子生徒とかだろうか。あと数ヶ月待てば卒業する、そこから交際をスタートさせてもおかしくないはずだ。
そうとしか考えられず、心ばかりが身体までもずしりと重くなった感覚がする。やっぱり、揶揄って遊ばれてた?そんなことする人じゃないと思っているけれど、でも。
「…終わりか?もっと具体的に答えてやろうか。さすがに名前は出せないがな」
「あ、う…」
こつ、額がぶつかる。
「背が高い、俺と同じくらい。そんでもってたまにタメ口利いてきて生意気。そこが可愛いけどな。あとは…三兄弟の一番上、目の下のほくろがいい。昼休みはよく爆睡してる。…今日もよく寝てたな?」
「…………は?」
チャイムが鳴る。最終下校時刻を告げる鐘だった。
「今日はここまで。お疲れさん。遅刻せずに明日も来るんだぞ」
「は、え…」
世界が切り替わったかのように、触れていた額が離れ、指も解かれた。先程までの熱なんて無かったかのように、机上を片して目の前の男は立ち上がる。
「ま、まって!」
そのまま踵を返して行ってしまいそうな背中に声をかけ、伸ばした手に触れた裾を掴む。
言いたいことはたくさんあるはずなのに、浮かんでは流れていって形にはならず、口から音として発されることもなく。一郎はただ口をぱくぱくと動かしていた。
男は裾を掴んでいた一郎の手を解き、そのまま握りしめる。腰を折り、一郎の耳に口を近付け、囁いた。
「卒業までちゃんと待っててやる。だから、お前もよそ見をしないこと。…いいな、一郎?」
そして固まったままの一郎を置いて、教室から出ていった。去り際に気をつけて帰れよーなんて、教師らしいセリフを投げかけて。
「…………出来るかよ、ばか」
消えた喧騒に紛れることなく、吐いた言葉は夕暮れに溶けていった。