夕立のワルツ「あー、そういえば。俺カノジョ出来たわ」
カーペットの上に座りベッドに背を凭れる体制で漫画を読んでいた一郎に、何でも無いことのように告げる。
こちらを向いて、え、と呟いて数秒ぽかんとした後、キュッと結ばれた一郎の唇が不満そうに尖っていく。その様を見て左馬刻は、あぁ可愛いなと思った後すぐにいやいやとかぶりを振る。いかんせん顔が可愛いので、仕草の何もかもが可愛く見えて仕方がない。それは昔からだった。
そう、一郎の顔が可愛いせいだ。ついでに三兄弟の一番上の癖に、自分と二人きりの時は年相応なクソガキなもんだからそこも可愛い。ふざけるな。だから自分は悪くないと、左馬刻は誰に言うでもなく内心言い訳のようなことを並べ立てる。
「またぁ?前のと別れてから次まで早くねぇか。どこの誰?」
不機嫌を隠さず訊ねてくる一郎に対し、左馬刻は同じ学年の女子生徒の名前を告げた。ええ!隣のクラスのあの人気な子かよ!と驚いた後、一郎はまたすぐにつまらなそうな顔をした。
「同じ学校で同じ学年かよ〜…」
あーあ!とヤケになったように一郎が吐き捨てる。ぷいとそっぽを向いた黒い頭に手を伸ばして、ぐしゃぐしゃと髪をかき混ぜるように撫で回す。しばらくはそのままにさせておいた一郎が、そろそろ辞めろとでも言うように頭で左馬刻の手をぐっと押してきた。お前なんだそれ!とぎゅんと締まった胸を悟られないように、努めて何でもない風を装った。
「拗ねんなよ。たまに一緒に帰れなくなるくらいだろ」
「…どーだか。何だかんだお優しいサマトキサマはかわいーカノジョに頼まれたら毎日一緒に帰ったり、休みの日も全部遊んでやったりすんじゃねぇの」
「…おい。そのサマトキサマって呼ぶのやめろ!」
見た目がべらぼうに良く、喋り方はぶっきらぼうではあるが基本的に女子に対して優しい左馬刻に、様々な意味での好意を寄せる者は多い。噂ではファンクラブがあるとか無いとか。その真偽は兎も角として、一部の生徒が左馬刻の事を「サマトキサマ」と遠巻きに呼んでいることは事実だった。特に何か不都合や害があるでもないため左馬刻も普段は聞き流しているが、一郎に対しては違う。
家が隣同士で、同い年。二人が一緒に居るようになるのは自然なことで、それぞれに妹や弟たちが生まれてからも五人きょうだいのように過ごしてきた。その中でも一番長く隣に居る一郎は、やはり左馬刻にとって一等特別な存在なのだ。それをどうして他の、下手をすれば名前も知らない生徒と同じ呼ばれ方。そんな他人のような呼ばれ方は、例え冗談でも一郎からされることだけは我慢出来なかった。
一郎から「サマトキサマ」と呼ばれる度に、左馬刻は怒る。なのに一郎はある条件下で何度も繰り返す。
「…つまんねぇの。また、左馬刻と居る時間減っちゃうじゃん」
ポツリと呟かれた言葉は、狭い自室の中で紛れることなくはっきりと耳に届いた。その言葉に、瞬きをひとつ。
「俺が、合歓の次に優先してんのはお前。いつもそうだし、分かってんだろ」
「そうだけどさぁ…」
まだ納得のいかない様子の一郎にやれどうしたものかと考える。とりあえず次の遊びの予定でも入れさせてもらうかと、口を開こうとした。
「……俺も、彼女作ればいいのかな」
「っ!」
「そうしたらさ、左馬刻とカノジョとダブルデートなんかしちゃったり!…なーんてな」
ニカッと笑うその顔が、その時ばかりは憎く思えた。
左馬刻はそれに対して自分がどう返せたか、どんな表情をしていたか。その後交わした会話の内容も、よく覚えていない。自分の家に帰って行く一郎を玄関まで見送り、別れたところで目が覚めたように意識が繋がった。
「一郎に、彼女…」
考えなかったわけではない。むしろ、左馬刻は「そう」あることを望んでいたはずだ。
「一郎に彼女。彼女か……」
一郎のことが、ずっと好きだった。人として。
物心ついた時から隣に居て、一緒に遊んできた。家族のようなものだった。実の妹と同じくらいに大切で、大好きで。自分たちは最高の幼なじみで、親友で、兄弟だった。ずっと自分の隣には一郎がいるのだと、左馬刻はそう信じて疑っていなかった。けれど、中学二年生の時に左馬刻にとって青天の霹靂があった。
なんてことはない。一郎が当時所属していたバスケ部の女子生徒と、仲睦まじそうにしているところを見た。それまでの左馬刻であれば、その場で直接か、少なくとも後からにでも「おいおい一郎くん、一丁前に彼女かよ?」とでも揶揄うことをした。しかし出来なかった。
その時に気付いてしまった。自分は一郎のことを、そういう意味でも好いているのだと。
その後は最悪だった。件の女子生徒は本当に彼女なのか、聞くことすら出来ない日が何日も続いた。どう切り出そうか、今までならどういうテンションで言えていただろうか。「普通」ってなんだっけ。
グルグル無駄なことばかりが頭を巡って、それから何とかしてようやく聞けた一郎の返答は否だった。どう見ても相手は一郎に好意を抱いていたのが見て取れたが。その子が気になったりしていないのかも聞いてみたが、それも否だった。自分はまだそういうのに興味無いし、男同士で、その中でも特に左馬刻と遊んでいることが楽しいから、と一郎は言った。
これ以上ないと思える喜びと、諦念が同時に襲った。そして左馬刻はその時に決めたのだ。一郎が自分から好きになって、追いかけた相手との恋が実るように祈ろうと。そして自分は、そんな一郎の最高の幼なじみで、親友で、兄弟で居ようと。
それから左馬刻は、興味が無いからと断ってきた告白を受けて彼女を作るようになった。勿論、予め自分も好きだから付き合い始めるわけではないことを伝えて。決まって女子達はそれでもいい、彼女になってからきちんと好きになってもらってみせると口を揃えて言ったが、最後は必ず彼女達の方から左馬刻を振った。
前の彼女と別れてもそう期間が空くこともなく、次の彼女が出来る。決して二股などという更なる不義理をしなかった左馬刻だが、フリーになった途端にどこからか話が回って、すぐにまた告白されるからだった。
左馬刻なりに彼女達には優しくしたし、大事にもしていた。しかしそれは妹の合歓や一郎と同等には決してならなかった。彼女達は聡かった。
一郎のことを諦めたくて、彼女達を利用している。性格の悪さと不誠実は左馬刻自身が一番よく理解していた。なのにその結果は未だに芳しくない。
隣に住んでいて、通っている学校も同じ。クラスも同じで、流石に席が隣なんてことは無いが同じ教室に居れば視界に入る。視界に入ると、目で追ってしまうのも当然というもので。
「あー…ほんっと、バカみてぇ」
今日も、馬鹿みたいに一郎のことが好きだったなと笑う。不毛だ、何もかも。こんなことをもう、三年間も続けている。
本当に救えない。左馬刻は自嘲する。
落ちた目蓋の裏に居たのは今日告白してきた新しいカノジョなんかではなく。一郎の眩しい笑顔だった。