処方箋は結構 先生は、そっとかんばせを引き上げて、安心させるように低くちいさく、あの美しいこえをこだまさせる。切り傷で血が滲んだ僕の腕を持ち上げ患部のまわりをエタノールで拭き取っている間もずっと、僕は先生をみていた。先生の出立ちはさながら彫刻のよう、いや、今も地中海に沈むどんな彫刻より先生はきれいで、きっと美術館に飾られるどんな現代アートも先生の深い心情を表すには不十分だろう。彼の憂いを帯びた瞳とのびやかなまつ毛を見るたび、その深く刻まれた骨格の鋭い鼻先に引き裂かれ、心のうちがわで叫んでいる真の僕を見てほしいと思った。いや、僕はここで死んでもよかった。いまこの瞬間灰になったとしても、先生の美しさにまみえるこの一瞬が僕の後生よりもずっと貴重だ。25年前に生まれ落ちてから地面に引きずったままのこのからだを、天井に引き上げてくれるような。足の浮遊感をおぼえて顎を引き上げ上をひと目見れば、その天上画には先生が横たわっている。その美しさに焼かれて、僕、先生のために、生きたい!そして、死にたいなんて言わせてくれないあなたのために、どんな輝かしい未来も捨ててきっと、死にたいのです。
「……どうか、しましたか?」
先生の美しい声が、ふたたび耳を撫でていった。僕は震えながら眉をひそめて、彼の顔を直視した。晩に近い時間である。先生もきっと、1日に疲れているだろう。紫色の毛束が額からながれて汗で張り付いていた。僕、いま、先生の乱れた髪をそっと直せるような、そんな存在になりたい。
「すみません、僕、精神の方で伺っているのに。わざわざ切り傷の手当てまでしていただいて…」
「構いませんよ。あなたの話を聞くついでですから。……それで、最近はどうですか?よく眠れていますか」
「あの、はい。睡眠薬が無くても、多少は寝つきが良くなりました。先生のおかげです、ありがとうございます」
「それはよかった……しかし、その、医学的な処方は何も……」
先生が言わんとしていることはわかっている。口をつぐんだ先生のとまどいの表情さえ、甘美でたまらない。
「このまえは無理を言ってすみませんでした。ちゃんとした処方でないことはわかっていますが、無理を承知でお願いいたしました。しかしそれで僕は眠れていますので、先生が気に病むことではないですよ、僕が……頼んだんですから、」
先生の、声を聞かせてほしいと。
「ディビジョンラップバトルで、麻天狼が闘っているところを見ました。先生がヒプノシスマイクで治癒をはじめた時に、僕は確信したんです。あなたの声には治癒能力があります、人を安心させる力も」
「しかしそれはヒプノシスマイクを通してではないと……」
「そうですか?おかしいですね、なぜでしょう……」
僕が意味ありげに彼を見つめると、先生は困ったように目をそらして頬の下を指先でかいていた。伏せた目の、目頭の下に刻まれたしわに彼の生きてきた年数と憂いの数を夢想する。
「それで、その……よければあたらしいものをいただけたらと思って。寝つきは良くなったんですがその、毎日同じ言葉を聞いていると…………」
声をひそめる。
「あなたがそばにいないことを思い知って辛い」
「!……きみ、」
「すみません、甘えてしまって恥ずかしい。僕はこう言いたかったんです。違うあなたの声を聞かせてほしい、と」
先生の膝の上で所在なく置かれている手の甲に、そっと指先を絡める。先生はさっと頬を赤らめると僕を見て、ちいさく息を吸い込んだ。僕は前方にある監視カメラに隠れるように指先を先生の体で隠し、小声で話を続けた。
「いいですよね?僕……我慢してたんですよ寂雷先生。こうして何も知らない患者のふりで職場を訪ねて、茶番のような台詞を重ねて、それでも先生をしているあなたのことが恋しくて……ああ、どうしよう、先生……」
「……」
「僕ほんとうに枯渇してるんです、だからまた、聞かせにきてください」
引き結んだ彼の唇の、血色のなさに心が痛い。彼の唇にキスをすれば、きっと、僕は命を奪われてしまう。永遠に動けなくなってもいいよ。
僕は立ち上がる。先生の指先が離れるのが心苦しい。立ち上がりざまに先生に目配せをすると、困ったように微笑んだあとに湿度を持って僕の指先を人差し指で撫でていった。撫でられた指先が熱い気がする。頬までほてって、熱が出そうだった。そうやって著しく赤面する僕に密やかな笑みを綻ばせて、彼は机に向き直った次の患者のカルテを取り出していた。
きっと今夜、彼は来るだろう。僕の狭いアパートの前に高級な車をとめて、僕を慰めにきてくれる。僕が寝つくまでにきっとあの美しい声で囁いて、頬にキスして、長い脚で僕を包んでくれる。
僕の天井画、低い声のヴィーナス。