8月新刊サンプル的な物Da Serenissima...
青、という名前を付けてくれたのはどっちだったのだろう。母だったのかもしれない。
自分の目をよく見て、いつも褒めてくれるのだ。綺麗な青い目。愛する息子だと。
――本当は知っている。それ以外に褒めるところが無いからだ
出会いの庭
「アズール、そろそろ家から出てみない? 外はこんなに良い天気なのよ?」
ドアの向こうで母の声がした。心配そうな声だ。それでもアズールは、ベッドの上に膝を抱えて座り込んで、黙っていた。
「アズール、二人とも心配しているんだよ?」
おじさん、もとい、父になった人の声が母の次に聞こえてきて、部屋の扉をノックした。そんなの知っている。そうだからといって、部屋から出られるかといえば、出来たら苦労なんてしない。
二人の気配が遠くなり、アズールはため息をついた。定期的に、一週間に一度くらいの頻度で二人は、まるで義務だから仕方ない様子でアズールに声をかける。
どちらも仕事が忙しいから、こっそり部屋から出て食べ物を摘まんで逃げて、また部屋にこもる。そんな事をずっとやっていた。
窓の外から舟歌が聞こえてきて、アズールは思わず顔を上げて外に目をやった。
夏の日差しは強く、日向と日陰の線は色濃くくっきりとしていて、夏を感じさせる物だった。この街は以前いた街よりは大きい。遠くに見える時計塔を窓から見上げ、アズールはそっと掃き出し窓から外に出た。アズールの部屋は庭へ出ることが出来る場所で、ブランコが備え付けられた大きな木の先には目の前に川があり、川に出るための出入り用の柵が備えられていた。
――どうしてこんな物があるのだろう
柵は開けられるらしいが、怖くて手を掛けて揺らすだけのアズールは、外に見える川に目をやった。
かつてそれは地球にあったという、ベネチアの街。争いから逃れて浅瀬に逃げ、海の真ん中に街を作り上げた商人達の街は、それから数百年を経て、海に沈む前に全てテラフォーミングされた火星に移築された。
アズールの住む家も、向かいの建物、どれもかつては二億キロ、光の速さで十三分かかる場所にある所から持ってこられた物だ。
義父はそれを随分感じ入っていたが、アズールにとってはどうでも良い事だった。雨漏りがなく水が入ってこず、建物としての最低限の基準が満たせていればそこに何かを感じることは無い。
コロコロと丸い指先と手を見つめて、アズールは木陰に座って川から流れてくる風をぼんやりと感じながら、案外涼しい物なのだと息をついた。
母は自分のために沢山食事を用意してくれる。それは、自分を構えないほど忙しい事へのばつの悪さなのか、愛情ゆえなのか、どちらにしろ、口を付ければ喜ぶから無理をして口に入れていた結果、アズールは健康診断で再検査になるほど太っていった。
元々大人しい方だったせいか、更に標的となって彼は外に出ることが出来なくなっていた。母の愛情すらもいっそ呪わしい物に感じるほどだった。言い合いが続き、やがて父は母と折り合いが合わなくなって出て行った。
そうして、気が付いたら母は新しい父を連れてきた。彼は色々アズールに理詰めで懇々とこのままでは満足に仕事にも就けないという事を言って聞かせ、やがてこの場所への引っ越しを二人に提案した。
今いる学校が駄目なら、一からやり直せば良いという事らしい。
――理屈には合っている。合っているけど
アズールは川に石を投げ入れ、ぼんやりと波紋を眺めた。
子供は理屈などで動きはしないのだ。どうせ新しい学校に行ってもろくな事などないのはわかりきっていた。
――そうだからと言って、あんな連中のせいで僕の人生を滅茶苦茶になんてさせてやらない……。でも、他に何をすれば
子供の考えでは思うように結論は出ず、彼はため息をついて部屋に戻った。
翌日、アズールは静まりかえった家の中をとぼとぼと歩き、母か、義父が用意してくれいたらしい食事を少しだけ取った。
両親に知られないで少しずつダイエットをしていたのだが、ここの所かなり成果が出て来たのか、ムチムチとしていた身体は少しずつシャープになり、身体も気のせいか歩くたびに軽く感じていた。まだ大分先になりそうだが、やはり自分の努力は正しかったようだ。とはいえ、ここ最近家の中でやれるトレーニングではどうにも物足りないのか、若干数値は頭打ちだった。
何か無いだろうか、とアズールはぼんやりと外に目を向けた。
考え事をまとめようと部屋の窓から外に出たアズールは、ふうっと大きく息をついた。
からっとした風が水路を吹き抜けていき、潮の混じった匂いが鼻をくすぐった。そこだけだったら昔住んでいた場所と何ら変わらない匂いで、アズールは庭にある木の側に腰を下ろした。
ぱしゃ、と水音がして、アズールは魚でもいるのかと水路の方に目をやり、四つの目玉らしき物と目が合った。
「う、うわあああっ⁉」
ころんと後ろに転がるアズールに慌てたのか、目玉ががさがさと動いて消え、柵を乗り越え二人の少年が庭に降りてきた。
「あ、やべ」
「ほらだから言ったじゃ無いですか」
二人はまるで鏡合わせのような双子で、彼らは転がっているアズールを引っ張り上げて服の汚れを払った。
「な、何だお前達! どこから……いや、え? だってあっちは」
「水路ですよ。ゴンドラを漕いでいたら同じ歳くらいの子がいたのでつい」
「ゴンドラ?」
「そうだよー。だってゴンドラあればどこにでも行けるじゃん? ここらだと自転車代わりっていうか」
「こ、漕げるのか……」
適度に日に焼けた二人は、ニコニコと笑って当然、と胸を張った。青い空に負けない青い髪が風になびいて、アズールは二人が随分まぶしく見えた。
「で、何の用?」
「僕達、ジェイドとフロイドと言います。生まれも育ちもここ(アクア)なもので……。地球(マンホーム)のことに興味があったんです」
「あくあ? まんほーむ?」
「ここらの人間はずーっと水の惑星になったからって、名前を言い換えるようになってんだよ。マンホームは、地球のこと。アクアは火星? ってここのこと」
「……そう、なのか」
「ここはあまり子供もいないので、いつも兄弟でゴンドラを漕いであちこち遊ぶくらいしか無いんですよ。もし良かったら色々教えてください」
「え……」
露骨に嫌そうな顔をするアズールに、ジェイドとフロイドは断られるとは思っていないのか、ニコニコとアズールを見つめていた。
「なんで僕が……」
「えー駄目? 代わりにオレたちが観光案内、なんだったらするけど」
「はい、足になりますよ」
アズールは、ちらりと二人を見つめて、彼らの腕に目を向けた。
「それ、ボートを漕いでそうなったの?」
引き締まって発達している筋肉がついている二人に、アズールは問いかけた。
「ええ、まあ。全身を使うので良い運動にはなりますね」
「海の上ってさあ、すげー涼しいんだ。まあ日差しは少し考えないとだけど」
「……そう、なんだ」
アズールは少し思案するように視線をさまよわせた。
――こいつらが仮に学校で何か言っていたとしても、僕は学校に行かないから取り敢えずは、良いとして。仲いい振りをしてこいつらからボートの漕ぎ方を教わるのは得かも知れないな
どうせこいつらもきっと自分を笑うために近づいてきたに違いない。
アズールはそう結論づけてから、二人に目を合わせた。
「まあ、良いよ。大して面白い話は無いけど。その代わり僕にその漕ぎ方を教えてよ」
「もちろん」
「いいよー」
ジェイドとフロイドは二つ返事で頷いて、アズールの両腕をがしっと掴んだ。
「え、何……?」
「そうと決まったら早く行こうよー!」
「ええ、すぐに日が沈んでしまいますからね」
「いや、まだ朝だし……! ちょ、引っ張るな⁉」
水路の柵を開けて、ジェイドとフロイドは腰が引けているアズールを支えてゴンドラに乗せて、二人でゴンドラをこぎ出した。
「うわー、人乗せたの初めて。これ動かせるかな」
「え」
「まあなんとかなりますよ。駄目だったら……泳げますか」
「いや。無理、なんだけど」
顔を青くするアズールに、フロイドはやけに機嫌良く笑い
「んじゃ、今日は泳ぎの練習する場所行こうかぁ。静かで波も殆ど無い入り江があるよ」
「近いんですか?」
「んー、近い近い。タコちゃん、あんまり細かいこと気にするのよくないよー」
「だ、誰が……!」
顔を真っ赤にしたアズールに、フロイドは今度は赤くなったーとニコニコしてアズールにかがみ込んだ。
「だって、さっきから赤くなったり青くなったりしてんじゃん。すげーくるくる色変わってるの、タコちゃんでしょ」
「……え、見た目じゃ無いんだそこ」
「何が? 見た目ー? オレ、人の顔とか見た目覚えてられねーからなぁ」
そう言うものなのだろうか。アズールは顔を引きつらせたが、ジェイドはすみません、とフロイドの代わりに謝り
「フロイド、色々な人にあだ名を付けるんですよ。海の生き物の。学校の先生だって、アカイカ、イシダイとか色々ですよ」
「なんだそれ……」
「オレねぇ、好きな物たこ焼きなの。知ってる? 美味しいお店あるから後で行こうか」
全く脈絡の無い台詞に、アズールはなんだか頭が痛くなってきた気がして、眉間を押さえた。
「……いや、あの……。はあ」
「ふふ、でもタコは本当に僕ら好物なので。嫌がらせとかでは無いんですよ」
「……」
何か、腹の中を見透かすようにジェイドが笑い、アズールは思わず顔を背けた。
「そういえば、僕らは名乗りましたが貴方の名前はまだですよ? このままだと僕も、タコちゃん、と呼ばないとなんですが」
「……アズール」
ぶすっとした顔で、アズールは小さく答えた。
「よろしくアズール」
「……ジェイド、貴方の兄弟はどうにかならないんですか」
時折後ろから伸びてくるフロイドの手を避けながら文句を言うアズールに、前に立つジェイドは、わずかに驚いてから、にこやかな微笑みを浮かべて
「フロイドはフロイドなので……。でも、アズールの事は気に入ってるんですよ」
「……そうだよぉ、気に入ってなければ触らないからねぇ」
「はあ」
初対面で何が気に入るというのか、アズールは口には出さないまま髪に触れてくるフロイドを諦めて放置することにした。
「タコちゃんの髪ふわふわー。この間のカーニバルで売ってた綿菓子みたいだよねぇ」
――こいつさっきからたとえが殆ど食べ物に関連させていないだろうか
機嫌の良いらしいフロイドに、アズールはなんとも言えない思いを抱いたまま、舟の進む先を眺めていた。
カナルグランデを横目に、ジェイドとフロイドが連れてきたのは街から少し離れた海岸だった。
「ここはあまり観光客も来ないんですよ。陸地ですし、街の中の方が面白いからと」
浜に舟を少し引っ張り上げ、二人はぴょんと浜に飛び降りた。アズールもそれに続いてそろりと浜辺に降りると、遠くに見える街に目をやった。
「随分遠いですけど帰れるんですか?」
「ええ、だっていつも夏の遊び場にしてますから」
「タコちゃんおよごー」
「……え、水着とか」
「そのまま泳げば良いじゃん。どうせ乾くし」
そう言ってフロイドは帽子と靴を放り投げて水音を立てながら深い場所に泳ぎに行った。
「……泳いでる」
着衣での水泳は何度か授業でやったくらいである。アズールはすいすい魚のように泳いでいるフロイドを眺めて思わず首を振った。
「地球では泳がないんですか?」
「プールくらいありますよ。年に一回、溺れたときのための訓練とかで」
「なるほど。海では泳がないんですか」
「ええ、誰もわざわざ海に行きたいとも思いませんでしたから。それに、大半は昔海水浴場の汚染を抑えるとかで中止になりましたし」
「ああ、聞いたことがありますね。なるほど。海があるのに、なんだか勿体ないですね」
「もったいない」
「はい、だって泳ぐこともしなければゴンドラもないんでしょう? 夏に何をするんです?」
「そもそも天候は全て管理されていますから暑いも寒いも無いですよ」
「えー、何それ」
水を滴らせながら砂浜に上がってきたフロイドは、アズールの話に眉をひそめ
「そんな詰まんないんじゃ、タコちゃんもそんな顔になるねえ」
「どんな顔だ失礼だぞ」
「今みたいにむすっとした顔。あ、でもほっぺはぷにぷにしてていいねぇ」
頬を突かれ、アズールは止めろ! とフロイドから逃れようと海に逃げ、その後をキャッキャとフロイドが追いかけ回す。
「フロイド、あまり追いかけ回しては駄目ですよ」
ジェイドも靴と帽子を脱いで二人の後を追いかけ、水の中にフロイドを押し込んだアズールに加勢するようにフロイドに手を伸ばした。
「二対一って卑怯じゃん!」
「だってフロイドの方が強いでしょう? 海にも慣れているんですからハンデくらいないと」
「そうですよ。僕は海は初めてなんですから」
「アズール、人間は基本的に浮く生き物ですから、気を落ち着かせてれば基本的に泳がなくても大丈夫です。ただ潮に流されたりするので、とにかく冷静に、ですよ。離岸流というものもありますから」
水面から半分顔を出してふてくされるフロイドを押さえ込みながら、ジェイドはにこやかに説明し、アズールはなるほどと頷いた。
「話には聞いたことがありますね」
「ええ、昔フロイドがそれであっという間に岸から離れて半べそをかいたことがありますので」
「別にかいてないし! ジェイドだってその後大泣きしてたじゃん!」
「泣いてませんよ。別に。汗ですあれは」
「え、マジでそれで通ると思ってんの? 良いよあとでタコちゃんにそんときの動画見せるから」
「なんでそこでアズールに見せるんです?」
顔を引きつらせるジェイドを、フロイドはつんとそっぽを向いて
「しらね。タコちゃんほら手ぇ出して。支えるから」
足が付くギリギリの所までくるとフロイドはそう言ってアズールに手を差し出した。
「僕、漕ぎ方を教えて欲しいんですが」
横に静かに近づいてきたジェイドは、そうは言いますがと困ったように笑い
「ただ、ゴンドラを漕ぐ前に泳ぎ方が分からないと、もし何かあって転覆したりしたとき、死んでしまいますよ」
「う……」
「順番ですよ。大丈夫。こういうの、覚えると早い物ですから」
頑張りましょうねとジェイドは言ってアズールの手を取って波に揺れて苦労しているアズールに微笑んだ。
砂浜の上に寝転がって、オレンジ色になってきた空を見つめてアズールは疲労感と、波に揺られ続けたせいかゆらゆらと身体が揺れ続けているような不思議な感覚を味わっていた。
「もう夕方かぁ」
「早いですね。いつもはもっと遅い気がしていたんですけど」
干していた三人分のシャツをジェイドが取って渡し
「アズールはあまり遅いと両親が心配しますよね。帰りましょうか」
「いえ、どうせ二人とも日が暮れるまで帰ってきません」
「んー、でも夜の海すげー怖いからね? あ、そのうち肝試しやりたいんだったらオレはかまわないけど」
「ぼ、僕は別に」
「ふふ、まあそのうち、ですね」
舟をこぎ出し、暗く沈んできた海とまだ明るいオレンジの光の濃淡が彩る空を眺めて、アズールはうつらうつらし始めていた。
こんな事口には絶対出せないが、随分体も心も軽い。
――楽しかった
案の定、身体は日焼けして既に痛く、海の水に浸かったシャツはパリパリしていて、髪も何もかもがぺたついていた。不快な筈なのに、そんな感情が湧いてきていた。
この二人がこんな風にするのは、きっと最初の内だけだろう。
そう思い、アズールは早く二人からゴンドラの使い方を聞き出してやろうと考えていた。
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取り敢えずここまで。こんな感じで進んでいきます。