Aの肖像 肖像画
それを見たのは十二歳の頃だったと、とジェイドはぼんやり記憶をたどった。
夏に遊びに行った避暑地で、フロイドとこっそりと探検と称して入り込んだ時、薄暗いとある部屋だった。
壁に掛けるのを諦めたのか、あるいは別の意図があったのか、それは床に置かれ、壁に立てかけられていた。ライトの明かりで照らされたそれは、白い髪に、白い肌、空色の目の少年の絵で、背景はこの屋敷のテラスらしき場所が描かれていた。
恐る恐る手に取って、裏側を確認したが特に何も無く、ジェイドはおぼつかない知識でそこにある物を探した。
――あった
小さな、背景に同化したような色のサインとメモのような物を、彼はじっと見つめた。
――一八六〇年、Aの誕生日に……
書かれた文字を読んで、ジェイドは何故こんなに古い物が無造作に置かれているのだろうと考えた。
子供の耳に入る噂話は大抵ろくでもなく、ここが幽霊屋敷だという話くらいしか分からなかった。ここに来ることを提案したフロイドも、あまり詳細は聞いたことが無いと言っていた。
ここに住んでいた、いつかの誰かなのだろうか。
名前は?
尽きない興味にジェイドはじっと絵を見つめて立ち尽くしていた。
バタンとドアが開いた音がして、ジェイドは驚いて振り返った。
「ジェイドー? 面白い物あった?」
「……あ、いえ。フロイドが面白いと思う物は無いですね」
「なんだー」
フロイドは肩を落として、ふとジェイドの持っている絵を見つめた。
「……それ誰?」
「さあ、ここの家の子だったのかも。随分昔のようですよ」
「ふーん、そっかぁ」
彼は絵を見つめてから、少ししてそれをジェイドの手から離すようにして床に置き直した。
「帰ろー」
「そうですね」
何も無かったなー、とフロイドはそう言って外に出ていき、ジェイドはもう一度立ち止まって振り返ろうとして、フロイドに手を引かれて外に出た。
「ジェイドさ、ああいうのに立ち止まるのどうかと思う」
「どういう意味ですか?」
「絵とか、割と物によってはいろいろあるっていうか」
直観力のあるフロイドがそういうと言う事は、よほど自分はそれを凝視していたのだろうか。ジェイドは自分の兄弟の肩を叩いて
「肖像画というのを初めて見たからですよ。別に大したことではありません」
そうだろうか、と不安を見せたフロイドをジェイドは引っ張って外に出た。
生い茂った雑草の中を走って庭から大人達に気付かれずに外に出て、フロイドは大きく伸びをした。
「腹減ったー。なんか買ってこ、ジェイド」
「え、ああ。そうですね」
振り返って屋敷の方を見ていたジェイドを、フロイドは手を引いて、川手手ジェイドは頷いた。
それっきり、それで終わりだと思っていた。それだというのに、翌日ジェイドはそっと屋敷に忍び込んで、もう一度絵のある部屋に入った。
薄暗い部屋は色あせた壁紙や置いてある物の様子から子供部屋だったらしく、彼はカーテンを開いて埃っぽい部屋の中に光を入れて絵をもう一度よく見つめた。それは白と言うよりは銀色の巻き毛で、うっすらと笑みを浮かべた唇と頬は薄桃色に色が付けられているのに気付いた。
ぼんやり眺めていると、ジェイドは風が窓を揺らした音にはっと気付いて時間を確認した。
フロイドに黙って来たのだから、ヘタをすると彼が探しているかも知れなかった。元の場所に戻そうと手を掛け、ふとジェイドの耳に何かが囁いた。
どうせここにあるなら、持って行ってしまっても誰も気付かないのでは?
――いや、この大きさは家族に絶対気付かれる。そうしたら
そうしたらどうなるだろう。
別に良いのでは無いか?
その考えはひどく魅力的に思えた。ずっとここに置かれていて、可哀想だろう。描いた人間にも失礼だ。
そう思ったのに、最後のところで忍び込んだ屋敷から物を持ち出したら犯罪だという理性が勝り、ジェイドは元あった場所に絵を置いて、どうにか家に帰ってきた。
その数日後、屋敷にトラックが止まって、辛うじて残っていた家財が持って行かれ、やがてその屋敷の前には売り家の立て看板が掛けられてしまい、出入り口は完全に塞がれてしまっていた。
鏡
彼がその絵を見たのはとある骨董品店だった。
骨董品に興味が無い、という事もなく、コインを集めるのは好きだったのであちこち歩いていたせいか、何人か伝手が出来てそれらしい物が
出るときには声が掛かるようになった。そんなとき、それの存在を教えられた。
価値があるのかと言えば、古いという一点で価値があるかも、という程度の物だったが、見せられたその絵は正直最初に見たときは反応に困
るほどだった。
「……これは」
「よく似ているだろう。年代も確認したんだけど、描かれていた時期の日付と絵の具の状態なんかも問題ない。この頃に描かれた物だ。どっか
の屋敷にあったらしいんだが、ここにあるとおり、当時の貴族様のお子さんだったかなんかだろうな。あんたそういう謂われは無いのかい?」
「聞いたことありませんよ。そんなのあったらここでこうしてコイン集めで値切りなんてしていないでしょうに」
「……そりゃそうだ」
「で、これが何か?」
「いや、お前さんの持ち物ならと一応声をかけたんだ。何しろ、この絵を欲しがる客がいてさ」
アズールは思わず絵を見直し、やはりわからない、と首をかしげた。
「はあ、ポートレートを集める趣味でもあるんですかね」
「世の中分からない趣味の人間は多いなぁ確かに。まあこういう絵の場合、絵に描かれた人間を気に入って買う場合もあるらしいからな」
「……はあ」
目の前の自分の子供の頃にうり二つのそれを、誰かが買い求めているのもどうにもぞわぞわし、アズールは少し考えた。
「まあ、お前さんだし少し勉強させて貰うよ。これくらいで」
「……さっき価値がないって言ったじゃ無いですか。なら、ここのコイン一枚のおまけで付けるのが筋でしょう」
電卓に出された数字を鼻で笑って、アズールは自分の電卓に数字を入れて相手に見せた。
「……強欲は身を滅ぼすぞ」
「貴方に言われたくは無いですよ。とはいえ、ではこれくらいならどうです?」
「一括で?」
「一括で」
出された数字に店主は唸るように良いだろうと言って、展示ケースからコインを出した。
「それにしても、この絵を欲しがっていたのは一体誰なんです?」
「ああ、名前は聞いてないんだ。初めての客というか絵に気付いて飛び込んできたから」
聞くに更に妙な話だとアズールは眉をひそめたが、店主は手を振り
「まあ色々いるさ。ただ見た目は中々凄みのある美形というか。身長は二メートル近くあったみたいだな。何しろ店の天井に頭ぶつかるか気に
していたから」
「え、男ですか?」
「ああ、目が左右で色が違ってて、なんだっけ、髪の一部分が色違うやつ」
「……メッシュ?」
「そういうのか? なんかそんな感じで前髪にそういうのがあって、物腰は随分丁寧だったな」
「……はあ」
ますますそういう人間の手元に自分、に似た何かがあるのは妙な感覚で、アズールは絵を包んで貰い、受け取ってから、声をかけたことには
正直に礼を言った。
「それじゃ、また何かあったら教えてください」
手を振る店主の声を背中に受け、アズールは店の外に出た。
――とはいえ、この絵、どうするかな
自分の顔を飾るにしても、それは成功してからの物だ。まだそういう段階では無いアズールには自分の絵を飾るのは少し憚られた。何より、少年の絵は自分では無い訳で余計に面倒くさい。
――まあ、母に事情を説明すれば預かってくれるか?
アズールはそんなことを考えて道を歩いていると、いきなり肩を掴まれて引っ張られた。
「は? え?」
「ああ、やっと見付けた……」
随分背の高い男、それも前髪にメッシュ、目の色が左右で違うという、店主が言っていた特徴の男がアズールの肩を掴んで、走ってきたのか息を荒げて膝に手を突いていた。
「あ、失礼。どちら様でしょうか」
「これは、失礼しました。僕はジェイドと言います。ずっと貴方を探していたんです」
名前を尋ねて良いでしょうか、とジェイドは随分丁寧な物腰で訪ねてきて、アズールは思わず名前を名乗っていた。
晩餐
「そういう訳で、何しろ子供の頃でしたから、記憶などという物は曖昧で、案外その後ずっと忘れていたのですよ。あんなに通っていたのに」
不思議ですよね、と彼は子供の頃の話をつらつらと話しながら、アズールの前に皿を置いた。
「……」
どう言えば良いのか分からず、黙りこんだアズールをそれでも彼は機嫌良く見つめていた。
彼の語るそれは、昔話などといってもやけに細かく、昨日見かけた看板のことを話題にするように鮮明だった。
「でも、面白い物で大人になってから少しして、偶然夏に遊びに行った街の事と、その古い屋敷についての謂われを知りました」
流れるような手つきで追加のワインを注ぎ、彼は一人食事をするアズールに話しかけ続けた。
落ち着かない。食事は自分だけで、彼が用意したそれは随分手が込んでいた。さながらコース料理といったところだった。料理を作る、だけでは無くリストランテの家に生まれた彼にすれば、それがどれだけの物か理解できた。
「……謂われとは」
問いかけに彼はにこやかに答えた。つ、とやや後ろ側に立ったジェイドはアズールの視線がギリギリ入らないような場所に立っていて、彼はは面倒だと思いながらジェイドの方に目を向けた。薄暗い部屋の中、左目の金色がやけに目立った。
彼は思いのほか朗らかな笑みを浮かべて
「ええ、屋敷に直前まで住んでいたのはとある偏屈な老人で、彼もその絵のことは自分が買ったときにはもうあったのだとか。伝手をたどって更に聞いてみると、その更に前に住んでいたのがとある貴族だったとか。彼の後の代で没落したそうですが、あの絵は恐らくその頃だろうと。他にもいくつかあったがどれも人に譲ったそうで、あれだけ屋敷に置いていたそうです」
「……それで偶々貴方の目に触れるまでずっとそこに」
「そのようです。整理した老人にそれをどうしたのか聞いてみましたが、見つからなかったんですよね」
こつ、とジェイドの靴音がアズールの背後を通り、食堂を歩いて長テーブルの向かい側まで来ると、席について目の前のアズールを見つめた。
「見つからなくなると人とはどうしても気になる物。それからの僕は蚤の市やら何やら色々回りまして、あの絵を探しました」
彼の声はひどくなめらかで、気のせいかやけに甘く響くようだった。部屋の中は別に暑くも無いのだが、アズールはネクタイを少し緩めるように首元に触れて息をついた。
「ああ、大丈夫ですか? 空調を見ましょうか」
「いえ、お気遣い無く。今のままで十分です。あの、それで……」
食事を終えたアズールは、ナイフとフォークを皿の上に置いて向かい側の男を見つめた。
「結論としては、あの絵を買い取りたいという事ですか? 僕は対価を頂ければそれでかまいませんが」
アズールの提案に、彼はそうですねぇ、と首をかしげた。
「まあ確かに、ずっと探してはいました」
立ち上がって彼はアズールに近づいて食器を片付けワゴンへ置いた。
「ですが、それは今はもうどうでも良い話です。だって、本人が目の前にいるのですから」
ひたりとジェイドの目がアズールの目を捉えて覗き込む。空色の瞳が動揺からか揺れて、伏せるように視線を逸らした。
「人違いだと、言ったはずですよ。あれには僕もびっくりしたんです。大体、貴方も言ったでしょう。絵には描かれた年代が」
「一八六〇年。はい、今からもう百六十年は昔ですね。ふふ、勿論、アズールがあの絵のモデルそのものとは思いませんとも」
そこまでおかしくはなっていませんよ、とジェイドは微笑んだ。
――どうだか
彼の執念は正直自分の守銭奴振りよりもよっぽどだと、アズールは考えた。この場に呼ばれたのだって、散々断ったと言うのにしつこく何度も言ってくるから根を上げたからだ。
この僕が根負けするとは……
「ですが」
ふ、とジェイドの指先がアズールの髪に伸びて一房垂れている左側の髪を手に取った。
「この髪の一房も、目元も色も、口元のほくろですら、本当にそっくりでした。違うのは年齢くらいでしょうか」
「……そこまでは、似ていないと思いますよ」
「そうでしょうか。不思議な物で、忘れていたはずの絵は思い出してから結構細部まで思い出せまして。兄弟もですけど、記憶力は結構良いんです。だから、ああして貴方の事を見かけたときは本当にびっくりしたんです」
「それは、まあ」
アズールはあの時自分を死人を見たような顔で見つめてきたジェイドを思い返して思わず納得した。
「知らず知らず、あの肖像画の顔を探していたようです。まさか、本当に見つかるとは思わなかったですが」
髪を触れていた手が滑り、顎に手が掛かってきた。振り払わないと後戻りが出来ないと、アズールは理性が叫んでいるのを自覚していた。それだというのにどうしてか動けないでいた。
蛇に睨まれたなんとやら、だろうか。
それとも。
ずっと探していたと言われて柄にも無く気持ちが揺らいだのだろうか。
「お前が欲しかったのは絵の中の少年だろう。僕は関係が無い」
「絵は所詮絵でしかありません。例えば愛するきっかけが誰かの撮った写真を見たとかと、大して変わらないのでは無いでしょうか」
「あ?」
何と言ったのか、理解が出来ずに思わず情けない声がアズールの口から漏れた。
「何、は?」
「会ってから一番驚いたという顔ですね」
本当に面白い人ですね、とジェイドは微笑みとろけた顔でアズールを見つめた。
「その顔で見るのは止めてくれませんか」
「そう言われても、そうなってしまうので」
ジェイドはそう言ってアズールの手をとった。
「慣れてくれると良いのですが。食事はどうでしたか?」
「え、ああ。美味しかったです。でもあれだけの物をあんなに短期間に用意できるとは」
「ふふ、食べたくなったいつでも言ってください」
用意しますよ、とジェイドは上機嫌で答えてアズールの椅子を引いた。
「さあ、アズール。部屋を用意しているんです。きっと気に入ると思います」
「部屋?」
外は暗く、アズールはああそうかと思わず納得して頷いた。そこにおかしいと思うわけも無くアズールは誘われるままジェイドの後を付いて部屋を出て行った。
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某第四の地平線のあの肖像の歌から。
お題は「知らず知らず」「海」の単語を使いましたー。それでいいのか
もうちょっと最初は飯食いながら二人がなんか色々会話するみたいな内容でうっすらそういう肖像の話とか絡ませるつもりだったけどわかりやすさに振りました。この後のアズがどうなるかはご想像にお任せしますが寝床につれてかれて食われてるだろうな。
裏話としてジェはすごく調べたので絵に描かれた少年は貴族の跡取りだったが早死にしていたこと、妹がいて妹はちょっと変わってて魔女と呼ばれ、うちを追い出されていたこと。その妹は娘を産んで、少し離れた村で最後の魔女と呼ばれていたこと、その娘はリストランテを経営していること、息子がいることは調べていたかもしれない。しれない。
絵が店にあった事も知っていたかもしれない。下ごしらえが大変なご飯がぽんと呼んですぐに出てくるというのはそういう事だったのかもしれない。
第四の地平線の男は妄執とか妄念とか言われていたけど近い気がしてきた