さみしいにんぎょとさみしいにんげん ジェイドは一人で森の中を歩いていた。
――これはいわゆる迷ったというやつですね
冷静に、表情も変えずに彼はふむ、と立ち止まって考えた。森はそもそも整備された道があり、そこをずっと通ってきたはずなのだが……。
――さて、そういえば途中キノコを見付けてそちらに行ってしまったような? しかし、ちゃんと元の道に戻ってきたはずですが
遭難したとしか言えない状況だが、彼はあまり困ったという感情もなく、そのまま歩き続けていた。森の範囲についてはある程度把握してから入ったし、コンパスは今も正常な位置を指しているようだった。
詰まるところ、冷静なままであればいずれは変える事が出来るという事だ。食料もまだしっかりある。
――とはいえ、無駄に長居をしたいわけでもないし
ざくざくと、道を歩き続けてジェイドは考えた。
今更考えて見ると、どうやらこの道は最初通っていた物より時代が古いようだ。石が敷き詰められたその道の両端に、うっすら轍の跡が残っている。それなりに広い道で、端の方から徐々に木々に侵食されているとは言え、かつてこの辺りにそれなりの建物があったと言う事になる。
更に道をたどりジェイドは、目の前に見えてきた影に思わず声を上げた。
それはどうやら古い城の跡地のようだった。かつては尖塔が見えたのだろうが今は高い木々に阻まれ、しかも古く、管理もされなくなったために高い塔の一部は崩れてしまっていた。蔦や草が絡まり、苔むした石組みの跡が残るその城や城壁に、ジェイドは足を踏み入れた。
どこかで鳥が鳴き、カサカサと小さな獣が駆け回る音もする。
なんだかいわゆるおとぎ話になりそうな雰囲気に、ジェイドはわずかに気分が上がって前に進んだ。
ふと、艶のあるテノールの歌声が聞こえてきたような気がして、ジェイドは思わずその声の方に向かって走り出した。人が居るのであれば、これほど良い事は無い。
困った。
歌っている場合じゃなかった。
アズールは、思わずくたっと水の中に身体を半分沈めて呻いた。
「はあ」
そこは以前から気になっていた洞窟の先にあった、かつての人間の住処のようだった。石が積まれたそれは昔何かで聞いた事のある、城のような物に見えた。海藻のような物があちこちに生えていて、どうやら人間が住んでいる気配はなかった。
まあ、良かった。
うっかり冒険のつもりで海底洞窟を進んでここまで来てしまったが、もし人が住んでいたらどうなっていただろうか。
そもそも、見えない場所に隠れているかもしれない。
アズールはキョロキョロと辺りを見渡して、どうやら大丈夫そうだと思って、水から少しだけ上がって、崩れた瓦礫の上に腰を下ろした。一般的な人魚と違う、タコの足の自分の足は、こういうとき便利だ。
あちこちに手の代わりに這わせて、手に取れる範囲の状況を把握しようとアズールは考えた。
「……んー」
やはり他に水場はないようだ。少し遠いくらいならば移動出来ると思ったが、どうやら自分の身体ではここまでのようだ。再び水の中に飛び込んで、水音を立ててふわりと浮き上がる。
丁度日差しが水が湧き出している一角に当たって、中々に景色は良かった。アズールはざばっと水の中から顔を出して。
「こんにちは」
「――――――ッ⁉」
いつのまにか水場の側にしゃがみ込んでいた男に声をかけられ、声にも出来ない悲鳴をあげていた。
「……えーと、あのですね」
ジェイドは、困ったなぁ、と眉を寄せて悲しげに彼を見つめた。
「そんな、隠れなくても良いじゃないですか」
「……」
じと、っとその生き物はジェイドを水場の向こうからじとっと見つめていた。まるで毛を逆立てた猫のような警戒心に、ジェイドは少し水場から離れて、
「あの、ここなら僕は何も出来ませんので。少し、お話ししませんか?」
「……」
ちゃぷ、と瓦礫の影から顔を出したそれに、ジェイドはにこ、と微笑んだ。
「僕は、ジェイド、と言います」
「…………じぇ」
それは小さく呟いて、慌てて口を押さえた。うぞうぞと恥ずかしいのか、タコ足がバタバタと水の下で動いて波立つ。
「ジェイド、です。貴方のお名前を聞いても良いでしょうか」
「…………アズール」
「アズール。とても素敵な名前ですね。よろしく」
そろ、とアズールはジェイドが水場の側に置いた何かに気付いて、そろそろと足を伸ばしてみた。
「…………?」
「お近づきの印、というか。今手元にあるのがこれだけだったので」
それはこの辺りについてまとめたガイドブックで、写真なども沢山あって文字も少なめだったので、意思疎通に使えるだろうと咄嗟に置いた物だった。
彼は、それをタコ足の先で取って、器用にページをめくって写真をじっと眺めた。
「この辺りは初めてな物で。迷ってしまったんです。アズールはどうしてここへ? その姿ですと、海にいるのかと思いますが」
「……洞窟を、通って、探検に来たらその」
そろ、とガイドブックを元の位置に戻し、アズールはそろりと近づいてきた。
ジェイドは、顔をよく見ようとそっとしゃがみ込んで、アズールを見つめた。
「そうでしたか。僕も似たようなものですね。この森にちょっとキノコなどの採取に来たんですけど。ただまあ道に迷ってしまって」
「それは、大丈夫なのか」
「ええ、まあ。最悪救助を求めれば良いので」
「……?」
言葉の意味が分からないのか、アズールはなるほど? と首をかしげつつ、まあなんとかなるのか納得したらしい。
「それにしても、マーマンとは初めて見ましたね」
「まー?」
「あなたのような人魚の事です。男性の、しかもこんなに綺麗な存在というのは聞いた事が無かった物ですから」
「綺麗?」
ぽかんと、アズールがたじろいでいると、ジェイドは頷いて、
「はい、声も綺麗でしたし、髪も目も、その黒い足も肌も。言われないのですか?」
「……う、海では、ヒレの優美さと発光体の量が美しさの基本ですよ」
「ほう、それは……。まあ、そういう美的センスもあるでしょうね。なるほど」
ジェイドはそれだけ言うに留め、チラリとアズールの足に目を向けた。
「それにしても、この水場、そんなに大きな洞などありますか?」
「馬鹿にするな。足くらいどうとでもなる。この身体が入る大きさなら通れる」
「なるほど……。ちなみに、ここからアズールの海まで、どのくらいの時間でいけますか? 僕、なんだったらそこ通れたり」
「無理ですよ。普通に。僕が洞窟をまっすぐ進んでもそれなりの時間だったんだから。人間なんてあっという間に窒息ですよ」
「……そうですか」
ジェイドは困った、と眉を寄せて、
「ですが、アズールはどうやって呼吸を? なんだか人間と同じに見えるのに」
「え、そりゃ、僕はここで海中で呼吸が出来ますから」
そういって、アズールは脇腹にわずかにチラチラ見えていた筋に手をわずかに触れさせた。
「エラ、ですか。まさか」
「そうですよ」
「凄いですね。ちょっと近くで見ても?」
「……みる、だけなら」
思わずそう言ったアズールはわずかに何てことを言ったのだろうと慌てふためく。本来、繊細なその場所を相手に、人間に見せるなぞ何があるか分からない。
そう思ったが、ただどうやら興味だけの眼差しに見るだけならと、アズールはぐっと身体を緊張させた。
「凄いですね。とても綺麗な紫」
どうやら単純に褒めているだけのようだった。人間というのはやけに色にこだわるのだろうか、アズールはわずかに困惑をしつつ、そういえばこの人間の目は変わっている、とようやっと顔をよく見つめた。それは他の人魚達もきっと喜んで海に引きずり込もうとするような顔つきで、声も申し分なかった。
いや、何を考えているのだろう自分は。
「色、など。深海ではなんの意味も無いですよ。真っ暗ですし」
緊張か、それ以外か分からないが閉じたエラがうっすらと再び開き、ジェイドはそうですか? と首をかしげた。
慌てて咳払いをして、アズールはふんと軽くジェイドの言葉をいなした。ジェイドから見ると彼のタコ足が嬉しいのか恥ずかしいのかクルクルと回っているのがバッチリ見えていたのだが、彼はあえてそれについて指摘するほど、人が良くなかった。
「僕はとても綺麗だと思いました。アズールは綺麗ですね」
「は……」
アズールにとっての美しさは、海の中彼らの中に存在する基準に沿っていた。それはヒレがある事鱗が輝いている事、キラキラと発光体が多く輝く事。この人間の言っている事はどうにもおかしい。頭を打ったのだろうか。立て続けに浴びせかけられた言葉にアズールは混乱していた。
「理解出来かねます」
「そうですか? まあ、価値基準はひとによりますから。でも言った事は全部本心からです」
「……」
アズールはぱしゃ、と水をタコ足で弾いて思わず視線を逸らす。
「さ、さっさと帰らないとまずいんじゃないですか。人間のあなたは」
「ええ、まあ。ですが最後は実家に頼ってしまうのも良いかと。ふふ」
ニコニコとジェイドは言って、アズールから少し離れた、先ほどと同じ位置に戻った。
「あなた」
「はい」
「人間の皮膚という物は、鱗も、何も無いんですね」
「ええ、すこし海に居る生き物とは違うと思います」
ジェイドは、そう言って手の平を差し出してアズールに見せた。
「……」
アズールは、そろ、とタコ足でジェイドの手のひらを、ツンツンと突いてそろりと先端で触れた。
「随分、熱いですね」
「そうですか? 確かに海の生き物の一部には、手の温度で皮膚を痛めてしまうと言う事も聞いた事がありますね。アズールは平気ですか?」
「ただの魚たちと一緒にしないでください。僕はそこらの雑魚や人魚とは違います」
「そうなんですか」
そろりと、徐々にジェイドの手や指先を触るアズールのタコ足を、ジェイドは思わずきゅっと握りしめた。
「――!?」
ぞわ、とセンサー感度を上げていた足からの情報に思わずアズールはぴくんと背中を反らした。
「あ、すみません。びっくりさせるつもりは……」
「た、大したことじゃ……な、ないです!」
ふん、とどうにか顔を上げたアズールは、そろそろと若干名残惜しげに足をジェイドから離した。
「さて、それでは僕はそろそろ行きます。ここの事は黙っておき――アズール?」
立ち上がって立ち去ろうとしたジェイドの足に、アズールのタコ足が絡み、アズールはあたふたと離し、
「い、いやこれは、その……」
「……アズールは人間に興味がある、のですか?」
「……」
返事をしないアズールに、ジェイドはにこやかに手を差し出し
「もし、僕で宜しければ外を見るお手伝いをしますよ。きっと楽しいです」
「……楽しい」
アズールはどうした物かと考え、それからゆっくりとジェイドの手に、自分の手を伸ばした。
「あ、でもどうやって外に出ましょう」
「……適当に言ってたんですかひょっとして……。はあ」
手を取ったアズールは、しょうが無いなと呟いて、胸に下げていた巻き貝のネックレスに手を伸ばし、とぷんと水の中に入った。
「アズール?」
こぽこぽと泡が立ち、ざばっと水の中から人間の姿の青年が顔を出した。
「ふう、肺呼吸は面倒ですね?」
げほ、と咳をしながら、彼は水から上がって、ジェイドの前に立った。膝は、若干ふるふるしていてジェイドの服にしがみついてはいたが。
「アズール? ですか。そんな事が出来るんですか。てっきり、こう、薬とかそう言うので」
「僕はそういうのも出来る、凄い人魚なんです。あなたは実に幸運だったという事です!」
取り敢えず肘を支えてやりながらジェイドはそうですか、と微笑んだ。
「今、雨用の上着があるのでそれを取り敢えず着てください。寒くなるでしょうから」
「え、あ、はい……どうも」
渡されたそれをどうすれば良いか分からず、アズールは布を引っ張ったり伸ばしたりしたが、ジェイドが頭からかぶせてやると、機嫌良く上着を見下ろした。
「……なんだか、人間になったのにお前よりも僕は小さい、のか」
「さっきの方が大きかったですね。まあ、あまり大きいのも大変ですから。丁度良いサイズですよ」
「そういうものか」
「ええ。さて、歩くのはあまり慣れないようですから、実家に連絡して迎えに来て貰いましょう。幸いここは開けているからヘリも安全に着陸出来そうです」
「ヘリ……」
アズールは、ジェイドに抱えられて、しかしわずかに興奮で頬を上気させて、彼の背中から古城の外の景色を眺めていた。
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最初もっとジェがやばいというか、うちのいつもの感じで物騒になり始めたので書き直した。
あまあま……甘々とは何?
ジェは割と達観して人生つまんねーと(何しろタコちゃんと出会わないまま大きくなった世界線なので)なってふらふらとキノコ探ししたりしていた。この後はなんかベタな感じであちこちアズと一緒に出かけたりするジェが居たら良いな