君に花丸一つ 突然だが、今日も牙頭猛晴という男は素晴らしいと思う。いつだってストイックで、自分に厳しく他人に優しくを地で行く。今だってそうだ。本来は完全な休日なのに、店で緊急事態が起きたからと言って出る支度をしている。だから、こうして玄関まで見送りに来たのだが。靴を履いた後に立ち上がってスーツの裾を直した牙頭がこちらを向く。
「悪いな、急に仕事が入っちまったもんだからよ」
「大丈夫だよ。夜ご飯は帰ってから食べる?」
「いや、遅くなるだろうしついでにあっちで食ってくる」
「そっか、分かった。じゃあ、いってらっしゃい」
本来の予定ができなくなってしまった上に夜にも会えないのが年甲斐もなく寂しくて、牙頭の額にキスを落とした。牙頭が目を見開いてわずかに顔が赤く染まる。その姿が無性に可愛くて、顔が緩む。1つせき払いをして恰好を整えた牙頭が、漆原の額を軽く小突いた。
「しゃきっとしろよな、漆原センセ。んじゃ、いってくる」
「その呼び方はやめろって。ガッちゃんこそ、ちゃんとしてよ。いってらっしゃい」
手を振って送り出し、鍵を閉める。2人分準備された朝ごはんが虚しく机の上に鎮座していた。1人で食べ切るにしては少し多いその量をなんとか食べ終わるべく気合を入れて、手を合わせた。
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なんとか食べ終わって空になった器を洗い、今日の予定について考える。今日は丸一日牙頭と出かける予定だったため、それはもうなにもすることがない。スマホのカレンダーを覗き込んで、なにか直近の今日できそうな予定を探す。カラフルな予定のラベルが並ぶ中、明後日に入っていた用事をタップする。買い出し。毎週決まった曜日に2人で行っているが、別に今日済ましてしまっても問題はない。その分空いた時間でデートをすればむしろ一石二鳥だ。車の鍵を鞄に放りこみ、エンジンをかけてスーパーに向けて走り出した。
スーパーは昼前だからか少し人が多かった。事前に2人で立てていた料理の献立通りに食材を買い、ついでに安かったので梨も1つ買ってレジに並ぶ。平均程度の身長とはいえ、普段は気にならない周囲の視線が痛く感じた。男性にしては珍しい髪の長さだからだろうか。いつもここで買い物をしているのに?私服も普通だ。牙頭が選んだものと自分で買ったものがバランスよく合わさっていて完璧なはず。きっと。
成人男性二人分の食事ともなれば金額と重さがかなりかさむが、持てないほどではない。よいしょ、と掛け声をかけて持ち上げる。いったん車に戻ってトランクになんとか詰めこみ、ちょうど百均でほしいものがあったので再び戻る。目的のものがあるところまでの数メートルで、シールコーナーを眺めている親子がいた。そこそこ大きな声で会話をしているようで、会話内容が聞こえてきてしまった。
「今日いい子だったから、シール一個買っていいんだよね!」
「一個だけよ。またいい子だったら買ってあげるからね」
「やったぁ!」
なんともほほえましい会話だ。必要だったものを手に取ってレジに向かう直前でいいことを思いついた。シールコーナーに戻れば、あの親子はもういなくなっている。どのシールにしようか少し悩んでから、花丸のシールとデフォルメされた兎のシールを1つずつ手に取ってレジに並んだ。
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結局夜遅くまで牙頭が帰って来ず先に寝てしまったが、目が覚めると真横に牙頭がいてとても安心した。かなり遅くに帰ってきたのだろう牙頭の胸に顔を埋め、柔軟剤とボディソープの香りを嗅いだ。こうすると牙頭がちゃんと生きているという実感を感じられるため、あのゲーム以降漆原はこれを気に入っていた。
起こさないようにそっとベッドから抜け出し、トーストを焼く。少しするとトーストの香りにつられて目が覚めたのか、牙頭が目をこすりながらこちらへ来た。
「おはようガッちゃん。昨日はかなり遅かったんだな」
「おはよう……帰ったのは12時ぐらいで、そっから風呂入って寝たのが1時頃だな……」
「お疲れ様。頑張ったガッちゃんにはこれを進呈しよう」
昨日の買い物袋から花丸のシールを取り出して袋を開け、1枚指先で剥がす。それを、いまだにぼんやりとした牙頭の頬にぺたりと張り付けた。急に頬へついた異物に驚いた牙頭が剥がそうとしながらこちらを見る。
「なんだこれ?なんか意味があんのか?」
「いいや、特に。普段頑張っているガッちゃんへのプレゼントだ」
「なるほどな、そういうことか……ひとまず、これ剥がしてもいいか?」
「ダメ。今日はずっとつけてて」
「絶対かゆくなるだろこれ」
「その時はその時さ」
よくできましたと赤い文字でプリントされたシールをさすりながら牙頭が向かい側に座る。そこでふと笑みを浮かべて先ほど漆原がシールを取り出した買い物袋の方へ向かい、一緒に買った兎のシールを手に漆原の前に向かってくる。嫌な予感がしたがもう遅く、四方がふさがれてしまった。そのうちの一辺は牙頭だ。
ぺりぺりと封を開けて満面の笑みの兎を一枚取り、牙頭とは反対側の頬に貼り付けられる。そこだけ肌が引っ張られる感覚の違和感がすごかった。
「頑張って準備してくれたからな、その礼だ」
「すっごく剥がしたくなるねこれ」
「ダメだからな。風呂までつけとけ」
「分かってるさ」
その後もなにか作業をするたびにぺたぺたと貼りあい、買っておいた2袋とも無くなったうえに翌日貼った位置が赤くなって1日中マスクをつけて過ごしたのは、また別の話。