世界を踏んで踊ろう「女王からの帰還命令?」
久しぶりの再会に喜ぶということもなく、パッタドルの用件をミスルンは聞き返した。
「こちらは迎えの船です。申し訳ないのですが、時間がありませんので、なるべく早く出発することになります。船旅に必要なものをまとめておいてください」
「…………」
ミスルンは返事もせず、港を離れた。
後ろでパッタドルがなにかを言っている。呼び止める声に耳を貸さず、ミスルンは当て所なく……、正確に言えば無意識に自身の男の所へ向かっていた。
番兵は顔見知りの男で、王や宰相補佐へ頻繁に謁見するミスルンを知っていたので、特に何も言わずそのまま通してくれた。
カブルーの執務室につくと、ノックもせず入り込んだ。幸い鍵はかかっていなかった。
「ミスルンさん! どうしたんです? 今日登城の予定があったのなら迎えにいったのに!なんだか……顔色が、悪いような気がしますが……なにかありましたか?」
「国へ帰ることになった」
カブルーは驚きの顔をして、ああ、そういう日が来たのだと諦念するような表情を浮かべた。
「いつですか」
「すぐに出発するそうだ。もう迎えの船が来ている」
「急ですね」
「何かがおこるというのは、結局は、急なものだ」
「……話がしたい。ヤアドに言伝をしてきます。少し待っていてください」
待つ間、カブルーの執務室を見渡した。
ほんの数年使われたばかりの机はまだ新しく、ツヤを残していて、新興国のこれからを感じさせた。まだ出来て十年も経たぬ国だが、メリニは明るく、政策も順調のようだった。
机には書類や、本や、巻物がところ狭しと広がっていて彼の忙しさを物語っていた。
「お待たせしました。時間を作ったので少し外に出ましょう」
カブルーに連れてこられたのは城の監視塔間の渡り廊下で、見下ろすと城下の街から遠くの山まで一眸できた。
人々が行き交い、商いを行い、営みをする世界だ。これからもカブルーが守っていく国だ。
「帰らない方法はないんですか」
「ないな。女王陛下の命だそうだ」
「それにしても、急すぎます……あなたを頼りにしている部分もありますし、なにより…………離れたく、ありません」
「もし私が帰りたくないといったらどうする」
「……国際問題になるでしょうね。派遣した名家の人間を返さないとなれば、宣戦布告ともとらえられられかねない。最悪、戦争になります」
「うん。そうだな」
「でも、けれど、失いたくない。あなたを、手放したくない。こんなにも、愛している」
「私もそうだ。けれどそういう日が来る予感はいつも漠然とあった。それが今日だったということだ」
「……恋に狂う、溺れる、身を滅ぼす。どれも自分とは縁遠いものと思っていました」
「うん」
「今は理解できるかもしれません。笑えることに。世界を敵に回して、あなたとどこまでも行ってもいいとすら思う」
「それは相当やられているな。悪魔がいれば危なかった」
「ええ、けれどもう悪魔はライオス王が退治した。ミスルンさん。だからこれはほんの個人の問題になるんです」
「私もどうやらあてられたようだ」
風が吹いていた。ミスルンの柔らかくウェーブがかった髪がひらめいてなにか神聖なもののようだった。
カブルーは自分がとても悪いもののように思いながら、ミスルンの小さな頭を手のひらで押さえつけてその唇に口づけをした。
「何かを犠牲にしても得たいもの……それはとても、おそろしく、あってはならないものだ」
「ええ、倫理に照らせばその通り。それを壊すのが恋なんだと……俺は今知りましたよ」
「私は一度経験しているから知っている。それはだめだ。許されない。願うこともしてはいけない」
「もう悪魔はいないのに?」
「それでもだ」
二人の問答は平行線だった。カブルーとて、今の地位も立場も仕事も投げ捨てて逃避行を繰り広げようなどと、そんな夢見がちな田舎娘のようなことを実行しようと思っているわけではない。
言葉にして、手をつないで、口づけをして、その熱を永劫逃がしたくないだけだった。
パッタドルが、息を弾ませて監視塔の通路へやってきた。
「ああ、ここにいらしたんですね隊長。さきほどの帰還の件ですが、詳細をお伝えする前に行ってしまわれたので……」
随分と探し回っていたらしい。もう部下ではないにせよ、迷惑をかけたなとミスルンは思う。
「うん」
「近々、ケレンシルの家でお兄様が家督をお継ぎになるでしょう。それに間に合わせるように急いで来たのですよ。お兄様から列席に間に合うよう迎えに行って欲しいと頼まれまして。女王陛下の命はそのついで、というと失礼ですが……、そのようなもので、祝いの日の前後に女王陛下はお会いになり今までの活動報告をお受けになるそうです。陛下への謁見が済み次第、メリニへお戻りになるのはいつでもいいと……」
「え?」
「どうした、トールマン」
「メリニへの帰還、ですか?ミスルンさんが?」
「そうだ。隊長は……、今は迷宮調査隊の隊長ではないが、女王の勅命を受けこのメリニに滞在している。命を遂行するのは当然だろう」
「ミスルンさんは帰ってくるんですか?」
「なんだ、お前。嫌なのか。本来は口を利くこともできない身分の方なのだぞ。まあ、お前もこの国の宰相補佐だからな。新興国とはいえ自身の肩書に感謝し、交友を持てることを喜ぶことだ」
ミスルンは一通り聞いたあと、カブルーに「……そういうことらしい」とだけ言った。
パッタドルが去ると、二人の間に妙な沈黙が流れた。
「なにはともあれ、よかったですよ。これからもこの生活を続けられそうですし」
カブルーは心配や離別の恐れやらの澱んで溜まった空気をすべて吐き出すように深い溜め息をしたあと、心底安堵したように言った。
「早とちりだったな……」
「人の話はよく聞きましょうということを、今回の教訓にします」
「うん。この年にして、学びを得た」
「これからはもっと、あなたがいてくれる幸福に感謝します」
カブルーはミスルンを抱きしめて深く口づけをした。
「もし本当にあなたを国へ戻す命が出たときのために準備をしておきます」
「戦争は起こすな」
「平和的解決をのぞみますよ、勿論」
以前より幼さが消え精悍さが勝ったカブルーだったが、ウィンクをする姿は十代の少年のように幼かった。
「私を離してくれるな」
「ええ、縛ってでも」
ふたりはちっぽけなただのトールマンとエルフだが、恋人たちは時に山より大きくなるものだ。
そうして、世界を踏んで、誰の迷惑も考えずに思う存分踊るのだ。ちっぽけな倫理観も常識も法もなにもかも恋人たちは踏んづけてぐしゃぐしゃにして笑うのだ。
恋とはそういうもので、まったくもって、はた迷惑なものなのである。