ほしのあかりを目に宿し 風呂に入れる。髪を乾かす。梳く。かさついた部分や傷に軟膏と香油を塗る。眠っている彼をベッドへ連れていき布団をかけてやる。
1日の終わりにカブルーがすることだ。
はたから見れば過保護すぎるかもしれないが、好きでやっている。
カブルーの屋敷には独立した風呂があって、大衆浴場へ行かずともいい。その点だけでも屋敷を建ててよかったと思う。
普段無頓着すぎるだけで、ミスルンの髪はよく手入れすれば白銀色とは言わずとも灰色の中でも輝きを取り戻すことができた。
風呂に入り、皮膚の柔らかい内に体を揉んでやるとミスルンはうとうととし始めてすぐに眠ってしまう。
「ねむくない……」
「わがままを言わないで。疲れているんです。今日は眠ってください」
少ない睡眠時間。せめて眠るときくらいは上質な場所で眠りたいと職人に頼んで作ってもらったベッドは納品されて以来ふたりの安眠を守っている。
ベッドへ寝かせ、布団をかぶせるとミスルンは数度まばたきのような抵抗をしてすぐ眠りについた。
ミスルンの眠っている姿は安らかで、カブルーはこのためなら苦労をかってでるくらいなんともないと思う。
カブルーは健全なトールマンの男性で性欲もそれなりにあるが、普段眠りにつけない恋人をねむらせることは時に性的行為よりも充実感のあるものだった。
香油の香りが漂う寝室はカブルーにとっても眠りを誘うに充分な場所だった。少ない睡眠時間でやり繰りしているカブルーにとって、恋人の小さな寝息を聞きながら眠れることは精神的な安定にも繋がっていた。
感情が昂ぶると、ミスルンの瞳は時折銀色に戻る。それは過去を思わせるようであり、未来を感じさせるようなものでもあった。
「あなたの瞳は星のようですね」
「軟派な男のようなことを言う。口説き文句の常套句だ」
「少しキザすぎましたか。でも本当にそう思ったんですよ。俺は嬉しいんです。星の色をした瞳を手にできるなんて素敵なことじゃありませんか。神話のようでしょう?」
カブルーの大きな手が目の際をやさしく撫でた。
カブルーの言う神話は、運命の女神の話だろう。
三柱の神が運命の女神として一つに扱われているもので一の娘が未来を、二の娘が過去を、三の娘が現在をあらわしている。
一の娘は右が盲目、左は銀の目をしており、左目に未来をうつす。そして人類の終わりと同じ長さをした白銀の髪を糸として未来を織るという。
二の娘は左が盲目、右に一の娘と同じ銀の目を持ち過去をうつす。そして長く輝く白銀の髪で作った、星ほどもある澄んだ湖に人々の過去をうつしているという。
「ならば私は一の娘か」
「あなたは俺に未来をくれますから、あながち間違いでもないでしょう」
「さあ。そんなもの信じたことはない」
カブルーがよく手入れしたミスルンの髪をすくと、猫のように頭を寄せてきた。
なめらかな触り心地の中、頭髪の地肌に自傷跡による引きつれがある。
いたましさを隠してカブルーは頭を撫でる。
やがてミスルンはゆっくりと目を閉じた。眠りが彼を連れて行ったのだとわかった。
恋人のひたいにおやすみのキスをして、カブルーはしばらくその寝顔を見ていた。
穏やかな呼気が吐き出されるたびに自分とミスルンが生きていることに感謝する。自分はなるべく長く生きなければならない。この人の寝顔を見て、眠りにつく生活を、長くおくるために。
ケレンシルの家にあるものは何もかも本物だった。
宝石、金貨、魔術書、調度品、高名な芸術家が描いた肖像、数え切れないほどの財。
西方のエルフの中でも有数の貴族。家にあるものは、選び抜かれた本物の価値があるものばかり。
その中でミスルンだけが偽物だった。
本物の家族の中に偽物は入れない。
カナリアに行くのは不本意だった。なぜ、と叫び出したかった。誰にでも別け隔てなく優しく穏やかで、頭脳明晰、優秀だけれど鼻にかけることのない柔和で完璧なケレンシルのミスルン。そんな仮面がなければとっくに心は壊れていたのかもしれない。
内実、ミスルンの心はひどく醜かった。失望と失意と悔しさと恨みが固まって心臓を四角くしたような、いびつな心だった。
銀色の髪、銀色の瞳、長くうつくしい耳。
それにすがるだけの自分が惨めで哀れに思うほど虚栄心は膨れ上がり周囲への疑心暗鬼と嫌悪は酷くなっていった。
夜も眠れず悪夢をみては起きた。
取り繕うために魔術で無理矢理眠る日々だった。
迷宮の主になっても習慣は変わらなかった。
むしろ、迷宮の主になってからは安らかな眠りは一度として来なかった、
いつも、誰かが、自分を狙ってやってくる。
自分のなけなしの宝を奪って、笑っている。
悪魔に用意させた自分を讃えるためだけの肉の人形は段々と疎ましくなり結局殺した。
眠らない日々はミスルンを衰弱させると同時に剥き出しの攻撃性をより強固なものにした。
ミスルンの歪んだ攻撃性は、人を殺めると同時に常に自分の心をも攻撃していた。
眠れない。眠れない。眠れば誰かがやってくる。自分の最後に残されたものを奪いにやってくる。
終わりの日、悪魔はミスルンの欲を食べ、笑ったのだ。なけなしのすべてを奪って、心底愉快そうに。幸福そうに。
そして、最後に復讐心だけが残った。食も眠りも排泄も娯楽もすべてが消え去った。そういう世界に生きることになった。
「お前はつかれている」
ミスルンからの突然の言葉にカブルーは一瞬静止した。
「いや、それほどでは。大丈夫ですよ」
実際には屋敷へもほうほうのていで帰ってきたのだ。体力は底をつきかけていた。
「無理をするな。私でもわかる」
ミスルンは手を伸ばしてカブルーのほほをつかんだ。ひやりとした感触で、やはりこの人は体温が低いなと思った。
「たとえ疲れていても、仕事はふってくるものです。忙しさを承知の上でやっていることですから」
「わかった。ならば今日は私がお前を寝かせてやる」
「え?」
できるのか、というのと、どんな方法でという興味がカブルーの中におきあがる。
「まずは、風呂だ」
風呂のわかし方などこの人は知っているのだろうか。熱湯だったり、冷水だったりしないものか。
「あなたがちゃんと風呂の準備ができるとは……」
「入浴の習慣はあった。普段は使用人がやっていたが、仕組みさえわかっていればできる」
バスタブの中で、カブルーはミスルンを抱きかかえる形で入っている。
小さな頭は濡れて、一緒に入れた薔薇の香りがした。屋敷内にいくつか花瓶があるのだが、使用人が定期的に季節の花に変えてくれる。薔薇もその花の一つだったのだが、ミスルンが掴み取って花弁をむしり、豪快に風呂にまいたのだった。
「いいにおいがします……」
「リラックスするか」
「はい……でもこの体勢だと別のところが元気に……」
「今日はセックスはしない。お前を寝かせる」
「一回くらい……」
「ダメだ。欲情を煽るのなら出る。お前もあたたまったら出ろ。部屋で準備をしておく」
哀れにも拒絶を食らったカブルーは、薔薇風呂を一人で味わうことになった。なんとも虚しい。
せめてこの後のことを考えて、体中を清潔にした。ミスルンの寝かしつけは、やはり魔術だろうか。そんな気もするし、違う気もする。
風呂を上がり、ローブに着替えると、ミスルンがエルフの民族衣装を着ていた。
「えっと、それは、つまり……セックスはするんですね?」
「しない。この服は動きやすいから着ているだけだ。さあ、横になれ」
ぽんぽんと扇情的な格好をしたミスルンがこちらを見てマットレスを叩いている。
やけに真剣なので逆らえる空気でもなく、カブルーはベッドに横になる。
「お前がいつも使っているのはどれだ」
ベッド脇のチェストにはミスルンのために用意した数十種類もの香油や軟膏や薬草が入っている。その中から選ぶということなのだろう。
「マッサージ用なら、その、ローズマリーの入っているオリーブ油ですかね……」
「わかった」
ミスルンは瓶を手に取ると、手のひらに油を垂らした。くちゅくちゅと、肌に馴染ませる音がする。生殺しすぎる。
やがてミスルンのひんやりとした手が、体の表面を撫で始めた。
風呂からあがったばかりの火照った体にはちょうどよい。
「どこが悪い」
「肩と、腰ですかね……あとふくらはぎも……」
それを聞いたミスルンは、風呂に入ってもまだガチガチにかたまったふくらはぎを力強い力で揉みはじめた。
「あー。ききます……。気持ちいいです……いい感じです……」
「そうか。肩と腰も揉んでやる」
ミスルンはいつの間にやらマッサージ術も会得していたらしい。
「ミスルンさんどこでこんなの覚えたんですか……すごくうまいですよ……」
「何を言っている。お前がいつも私にすることだろう」
カブルーはマッサージなどされたことなどなかったから基準がわからなかったが、他人にされるとこんなにも気持ちがいいものか。
「いつもこうして、私を気持ちよくしてくれる」
ああ、それはちょっといやらしいですミスルンさん……。眠気が頭の中に滞留し始めた。もううまく言葉に出せなかった。
すっかり目を閉じて眠りに身を任せるままにしているカブルーを見て、ミスルンは毛布で体を覆ってやった。
そしてチャーミングな黒い巻き毛を撫でながら、少し微笑んでエルフの子守唄を歌い始めた。
カブルーはもはや意識が朦朧としているものの、幼い頃ミルシリルが同じ歌を歌ってくれた情景が浮かんだ。
ミルシリルはエルフなのに歌があまりうまくなく、ほとんどトールマンのちょっとうまいかもくらいの歌声だった。眠いと、どうでもいいことを、考える……。
優しい調べが聞こえる。静かでやわらかく、あたたかみの感じる歌声。
ハープの音色に似た、うつくしい歌声と旋律。
三の女神は、白銀の髪を弦としたハープの音色で現世に迷う人を導くというから、ミスルンさんは、やっぱり女神なのかもしれない……。
カブルーの意識はもうすっかり遠くの星まで向かっていた。
恋人を寝かしつけるミスルンの瞳は黒色だったし、もうすでに夢の彼方にいるカブルーは目を開いてはいなかったけれど。
たしかにカブルーは、ミスルンの瞳に銀色に輝く星の光を感じたのだった。