【美しい獣/オタワス】
これは俺の穏やかな日常の話。
たとえこの感情が、間違っているモノだとしても。
「おはよう、よく眠れたか」
「…まだ眠い、かも」
「そうか」
窓から差す朝日の傍ら、渦を浮かべた橙色の目尻が柔く細められる。少し癖のある焦げ茶髪が透けて、きらきらして眩しい。唸りながら枕に頭を擦り付けるとそっと布団を掛け直されて、同時にシダーウッドの香りが鼻をふわりと掠めた。
特徴的だけど嫌にはならない軽快な香りが、テーブルいっぱいに並べられた食事を彷彿とさせる。なんだっけ、これは。ああ今日はあの香水か、と寝惚けた頭で考えた。去年の誕生日に本と一緒にプレゼントした、精密な硝子細工が綺麗な小瓶に入ったオードトワレ。
「フレンチトーストは甘い方がいいか?」
「んー…甘い方が、うれしい」
「なら砂糖を足しておこう」
何気ない日にも使っているということは、気に入ってもらえたのかも。それなら嬉しい、ずっと悩んで、シュエンにもラブにも散々相談して、やっと選べたモノだから。くふふと息が漏れて、眼鏡越しの円環と目が合う。
「昨日は無理をさせたな」
「昨日…?」
「ああ、意識を飛ばしてしまうくらいには」
昨日、したっけ?寝起きで働ききらない頭で記憶を辿るも、思考が雲掛かって上手く思い出せない。そんな激しい夜なら、簡単に忘れてしまうなんて惜しいことをした。
もう少し寝ていなさい、また起こしに来るから。
そう言って指先で頬を撫でられる感覚が擽ったくて、でもどこか心地よくてそのまま微睡みに落ちる。二度寝したって困ることは特にない。ゆらゆらはっきりしない意識の中でお日さまの匂いがするシーツに体を横たえて、兄さんに優しく触れられるこの時間が、ただただ幸せだと思う。
兄さんと仲直り出来て良かった。昔に大喧嘩していたとか仲がすこぶる悪かったとかそういう訳ではないけれど、それなりに難があった家庭環境のお陰で一度離れてしまったから。あの状態からここまで持ち直すなんて、過去の自分は夢にも思っていなかった。
「おやすみ、ワース」
「おやすみ、兄さん」
目が覚めたら、とびきり美味しいフレンチトーストが待っている。砂糖たっぷりの卵液に浸した食パンをフライパンで両面しっかり焼いて、粉砂糖を掛けて、上にバニラアイスと飾りのミント。戸棚の奥にまだアラザンが残っていたはずだから、期限が来る前に思い切って使ってしまってもたまにはいいだろう。
◆
ここで一緒に暮らすようになってから、堅物だ何だと揶揄される兄にも存外人間らしいところがあると知った。いつか本で見たささやかな幸せって、きっとこういうことだ。
実の兄弟で一緒に暮らして、想いを交わして、愛を囁いて体を重ねて。それが世間一般では否定され忌避される、犯すべきではないモノだと分かっている。そうだとしても、差し伸べられた、細やかな傷跡が残る手を無下にすることは出来なかった。
「はー…落ち着く」
淹れてもらったハーブティーを飲むと、頭がふわふわするような、浮いているような心地がする。ほっと一息ついて、カップをそっと置いて目の前に座る姿を見つめる。
「どうかしたか」
実の兄と結ばれたことによる罪悪感は不思議となくて、穏やかな日々を浪費している。この日常がたとえ間違っていたとしても、俺はこの生活が心地いい。
【愛が故に/ワスオタ】
幼少期に親から与えられる環境が人格形成の大きな要因になると、本で読んだことがある。あれは確か自伝小説で、いつ、何に惹かれて手に取ったのかは覚えていない上に、今となっては書斎のどの棚にしまったのかも思い出せない。けれど、その一節がやけに印象に残っている。
子は育てたように育つ。褒めれば自己肯定感が養われ、否定すれば自尊心を徐々に擦り減らす。勿論一概に言えたことではないが、あながち的を得た言い分だと思う。どちらか極端に偏れば片方が著しく欠けた、未熟な心が育まれる。未発達な人間が生まれてしまう。つまりは否定と肯定の両方を適切に使いこなすことが、養育者には必要不可欠な要素となる。
「お前の努力はこの程度なのか?」
しかし不運なことに、私たちの生家には否定しか存在していなかった。
代々魔法局勤めの、一般ではエリート家系とされるマドルの人間は、失敗とは無価値の証であるという偏った思考を持っていた。
何が価値で、何を成して成功なのか。そんな環境に依存する曖昧な評価なんて心底下らない。興味も関心も、共感も全く感じない。口うるさい叱責も一方的な教育論も、ただただ煩わしくて仕方がない。
(ここに居ても無意味だ)
ああ、生まれてくる場所を間違えた。子は親を選べないとは、まさにこのことだなと思った。
【愁訴/マドル同軸リバ】
今思えば、これはきっとあの家のせい。『価値』なんて形も定義も決まっていないモノに囚われて、追い求め続けて、足掻いていたあの両親が、俺をこうさせたんだ。
後悔?そんなモノ、微塵も無い。
だって俺のこの身も心も、全て兄さんに下されたい。
◆
切っ掛けは初めて父さんに叩かれて腫れた頬。
マドル家の体裁が悪くなるので一応弁明はしておくが、それまでは、いやそれ以降もどれだけ失敗しても叱られても手を上げられたことなんて、一度も無かった。基本理詰めで相手を言いくるめるような人間であり、育ちも世間的に見ればそこそこ良い。物理的な暴力で物事を解決しようとする野蛮さは両親共に持ち合わせていないことが、まだ不幸中の幸いだと思っていた。
だからその日は酷く驚いた。ぱん、と乾いた音が耳を刺して、気が付けば視界の座標が横にずれていた。数秒後にじんじんと痛んで、皮膚がじんわり熱くなった。一瞬何が起こっているのか分からなかった。痛覚よりも先に困惑が頭の中をぐるぐると駆け巡った。脳の処理と現実が酷く乖離したあの感覚は、十年近く経った今でも鮮明に覚えている。
きっと運が悪かった。その時の父さんは連日残業続きで、思うように成果も業績も得られず、いつもより随分と苛立っていた。そこで俺がまた期待に応えられなくて、望み通りに魔法を使いこなせなくて、最後の導火線に火をつけてしまった。
「…ごめんなさい、父さま」
ごめんなさい。思い通りに出来なくて、出来損ないで、いつも叱らせてばかりで、
ごめんなさい。育ててもらっているのに、愚図で一番になれなくてごめんなさい。
父さまからも皆からも認めてもらえるようにもっと努力するから、だから。
父さまや母さまみたいにエリートコースを歩まなければ、俺に価値は無い。
代々続くマドルの名に泥を塗るだけの不必要分子。ごめんなさい、ごめんなさい。
(……あ)
顔色を見て、適切な言葉を選ばなくては。そう思いながら謝りながら目線を戻した先で、明らかに動揺して開ききった瞳孔と、力なく震える手が見えた。それを見て途端、心がすとんと凪いだ。
(…もしかして、父さまも)
その顔、何だか俺に似てる。父さまに怒られて、失望の言葉を浴びた時の俺と、同じ顔。