きみのかなしみにふれさせて 星海との戦いに向けて、作戦会議がしたいーそう言いだした王城を自室に招いてもう何時間経っただろうか。すっかり夜も更け、作戦会議の発起人であったはずの王城は何故か井浦のベッドで眠っている。爪先から頭のてっぺんまでを布団で包み込み、さながら昆虫の繭の様に眠る王城。小学生からの付き合いである井浦は見慣れてしまったそれに特段何か反応することはなく、布団の中から聞こえる微かな寝息をBGMにノートにペンを走らせた。
きりの良いところまでノートを書き終えると、井浦は自分の寝床を占拠した布団虫を横目に来客用の布団を引きずり出す。たまには床で寝るのも悪くないかと微笑むその横顔を見る限り、ベッドを占拠されたことに対して特に文句はないようであった。
ベッドの横に布団を敷き、かけていた赤いフレームの眼鏡をケースにしまう。ぽこ、と小さな音を立ててケースが閉じるが、目の前の布団虫は微動だにしない。布団に横たわると、井浦の頭が来るのはちょうどベッドの斜め下。そこからは布団にくるまっている王城の顔が見えた。
いつもは顔まですっぽり覆っているのに、珍しい。
井浦の角度から見えるのは、色素の薄いかさついた唇と、今年で十八になるというのにまだ幼さの残る丸みを帯びた鼻、そして、いつからか定着してしまった瞼の下の隈だった。それよりも上は一目見ただけで指通りが良いのだとわかる髪によって隠されている。王城の繭の様な寝姿は見慣れているが、一緒にいる年月が長かった井浦でも寝顔は中々拝むことはできないでいた。少し骨張った指で王城の前髪を掬い上げると、数々の修羅場に胸を躍らせぎらぎらと熱を宿していた瞳が、薄い瞼に守られる様にしてそこにある。
星海には元・世界組が多い。正人に体力がないことは分かりきっているはずだ。やはり正人を消耗させにかかって来るだろう。
それでも、俺はお前を、能京最強の攻撃手として、星海コートへ送り出す。何度だって。
すうすうと小さな寝息を立てて穏やかに眠る王城を見つめる井浦の眼には、決意と、覚悟と……ほんの少しの迷い。いずれにせよ、側で眠る幼馴染みの寝顔を眺めるものでなかったことは確かだ。
そんな力強い眼差しと裏腹に、井浦は王城の目元の隈をそっと親指でなぞる。カバディを愛し、またカバディによって繋がった者たちを愛し、常に笑顔を絶やさなかったその目の下にある、呪いとも呼べる隈。赤なのか青なのかはたまた紫なのか、そんな隈はまるで様々な色を纏い襲いかかる、王城自身の悲しみだ。
王城にとってカバディは愛すべき競技……と言えど、何年も続けていれば楽しいことばかりではないだろう。カバディがきっかけで両親を失い、何も知らない友人には好きなものを無条件に笑い者にされ……それから、カバディに関わる周囲の大人たちからの期待、仲間から背負わされる重圧……今まで、どれだけの苦しみと戦ってきたのだろう。その笑顔の下に、どれだけの涙を堪えていたのだろう。人知れず泣いた夜はきっと、数えきれないほどあっただろう。
……なあ正人。俺は一体、お前に何をしてやれていたんだろうな。
己の行いだけでは決して消すことのできない膨れ上がった呪いを、井浦はただ恨めしそうに、それでいて手つきは変わらず優しいまま撫で続ける。王城と出会ってからの六年、目元に刻まれたそれの理由を知ることはできても、消すことなど絶対にできなかった。今もそうだ。無力な指を這わせるだけで、消えもしないそれを必死で拭う様な真似しかできない。
己の弱さを見てみぬふりをする罪滅ぼしの様なそれを繰り返していると、閉じられた王城の瞼から一粒の雫が溢れ落ちた。それは王城の隈をなぞり続けていた井浦の指を濡らす。
正人……?
その一粒を皮切りに、王城の瞼からは次々に雫が溢れ始める。う、うと小さく唸る声も聞こえるが、意識がしっかりしているわけではない。どうやら何かにうなされているようであった。きっと王城は夢の中でも、自分を苦しめる何かと対峙している。おそらく自分には何もできないことは明白だ。しかし井浦の指は、溢れ落ちる雫を必死に拭っていた。王城の名を呼び続けながら。
正人、正人、正人……!
大丈夫だ、心配するな。……そんな無責任な言葉掛けなど、できなかった。
王城の目から溢れる雫。拭えば拭うほど、呪いはより深く色付いてゆく。そのことに気がついた井浦は、途中から両手を王城の頬を包む様にして、自身の唇でそっと雫を拭いてやった。
キスと呼ぶにはあまりにも稚拙すぎる、ただ唇を押し付けるだけの行為。奇行に走っていることは分かるが、どうしてだろう、これ以外の方法が思いつかなかったのだ。
柔らかな唇で吸い取り、舌で拭ってやったり……しばらくそうしてるうちに、王城の涙は止まっていた。王城の涙が止まり安堵する井浦は、今は柔らかな手つきで王城の頬を撫でている。そんな状況と対照的に井浦自身を襲うのは、同性の幼馴染みに尋常ではない数の口付けをした羞恥心と……やはり、迷いだ。
王者の領地へと王城を送ることを覚悟していたはずであるのに、先程の涙を見て、決意や覚悟が徐々に揺らぎ始める。
本当に正人だけにやらせて良いのだろうか。俺が止めてもあいつはやるだろうが、最悪宵越だっている。やはり……
そこまで思慮していた井浦の指先を、人肌の温もりが包み込む。意識を目の前に戻すと、寝ぼけているのか瞼を半分ほど押し開けて微笑む王城がいた。そして、ひとこと。
慶、迷ってる。
たった、それだけ。だが、心の奥の奥まで見透かしている。井浦はいつも、王城にだけは嘘を吐けなかった。吐けなかったというより、吐かせてくれなかったと言う方が正しいだろうか。
その言葉に黙り込んだ井浦を見て、王城は更に顔を綻ばせ、握った手の力を僅かながらに強めた。
大丈夫。僕が一番強いから。
……結局のところ、いくら自分が何をしようと、王城正人は王城正人なのだ。悲しみも、辛さも、全て自分自身の力で乗り越えていくのだろう。あわよくば自分にだけ弱いところを見せてくれたのならば、そう考えるだけ烏滸がましかったのかもしれない。
彼に拭いつけられたふたつの呪いは、笑顔と共にくしゃりと横に引き伸ばされている。今はそれも悪くないのかもしれない。そう思い布団に横たわろうとした瞬間、突如目の前の布団から二本の腕が伸びてきて井浦の頬を捉える。そして。
井浦の唇には微かな摩擦の刺激とほんのり鉄の様な味が残った。
さっきの慶、すごく情熱的だったよね。あれ、今度はちゃんと起きてるときにやってよ、ね……
そう言い残して、王城は布団へと戻っていった。今度は完全に顔までも覆い隠して、いつも通りの布団虫状態だ。
井浦が唇を舐めると、やはりほんのりと鉄の味がした。自分の身の回りで日頃から血が出るほど唇を切らしている奴なんて、目の前の布団虫くらいのもので。まあ、つまり、そういうことなのだ。
……クハ、やっぱ敵わねーわ。
少ししおらしい面が見られたかと思えばすぐにこれだ。自分が支えるだとか、そんなことをしなくたって王城正人は細身の見た目に似合わず十二分に逞しい。身も心もだ。
……それがわかっていてもなお、支えたい、側にいたいと思ってしまう自分は、最早病気だと言えるのかもしれない。
早まる鼓動と熱を持ち始めた耳たぶに気が付かないふりをして、井浦も自分の布団へと戻っていった。