靴紐を締め直す。脚を伸ばしてストレッチ。股関節がいつもより硬すぎる。だからこそ長めに重点的に。
いつの間にかがやがやと集まりだした学生達は、いかに学生生活が怠いのか、自分の推しがなんだとか、口々に何かに盛り上がっている。
小さく咳払いしてから、喉鳴らして温め始める。ちらりと横目に周りを見れば、皆一様にスマホをいじっている。
この違和感はなんなのか。理解し得ない胸のざわつきに、万里は小さく息を吐いた。
「丞さん」
風呂上がりの談話室。ソファに腰掛け台本を捲る丞に声をかける。飲みますかとお茶のボトルを掲げれば頼むと返事が返って来る。
ローテーブルに置かれたふたつのグラス。氷がころりと転がった。
「今日まで、電羊のワークショップだったんだろう。どうだった」
「あー、良かったっす。劇団電気羊…名前聞いた時は正直どんなスカした演出家が来るのかと思っちまったけど、すげぇ泥クセェ人だった」
《劇団電気羊》元は学生劇団から旗揚げされたSFエンタメを強みとする劇団で、数々の著名人も支持している業界人気の高い劇団だった。
「何度か観に行ったが、あそこの芝居はかなりカロリーがいるからな。演出家も相当熱血派だぞ」
「もうちょい調べていきゃ良かった」
「下調べも大事にな」
「っす」
丞の口がお茶を含みごくりと喉を通過する。その一挙手一投足、俳優としての華がある。万里がその様に見入っていると、丞は怪訝そうな顔をする。
「どうした」
「あ、いや。……丞さんが考える“役者になれるヤツ”ってどんなすか」
「役者は誰にでもなれるだろ」
きっぱり言い切る丞に万里はすぐさま食いついた。
「そうじゃなくて、生き残ってくヤツっつーの? あんたみたいに確固たる役者ってなんだと思う」
「……続けてきたヤツじゃないか?」
続けてきたヤツ。その言葉に万里は首を傾げる。
「役者であり続けるために努力を惜しまず、思考を止めず……何があっても続けるヤツ。立ち止まっても、一度道をそれたとしてもまたそこに帰ってくるヤツ。まあ一概には言えないぞ」
「……続ける」
なにかあったのか。丞は万里にそう聞いた。
「いや、なんかあったつーか」
ちょっと長くなっちまうけど。万里のその一言で、ぱたりと台本が閉じられた。
最初は少しの違和感だった。周りとの熱に差があると、万里は薄らと感じ取った。
「電気羊の演出家・蜜枝です。今回は学生限定ワークショップにお越しいただきありがとう。本日から5日間。短い間ではありますが、最終日のショーイングまで頑張りましょう。今日は簡単なウォークアップをしてから、今後のテキストを配って説明を行います。と、その前に呼ばれたい名前・あだ名の名札を貼って簡単に自己紹介もしていこう。そこの養生使っていいからね」
マジックでテープに名前を書いていき、ぺたりと胸に名前を貼る。全員が貼り終えたところで、自己紹介は始まった。
名前と大学と好きな食べ物、自己PR。話は賑やかに過ぎていき、すぐに万里の番が回ってくる。
「えー、天美から来た摂津万里っす。あだ名はとりま、セッツァーで? 好きな食いもんはカルフォルニアロール。普段はMANKAIカンパニー秋組で芝居と演助してるっす」
ぺこりと軽く頭を下げれば、ぱちぱちと拍手が飛んでくる。
「やっぱり万里くんだよね!? いつも観てるよ!」
「あー、……ざっす」
私は夏組推しなんだ。黄色い声が飛んできて万里は少し気疲れする。ファンが増えるのは喜ばしいことで、声をかけて貰えるのも嬉しいことだ。それでも、時にはその場によっては、これまた違和感を感じるものだった。
「それじゃあまずは体の動かし方。ゆっくり空間を意識しながら歩いてみよう」
寮のスタジオよりも広い稽古場。空間把握を意識するワーク。隅々まで間隔を尖らせて、均等なバランスになるように空きを見つけて移動していく。芝居を始めた頃よりもより細かく意識できるようになり、結構好きなワークだった。ゲームみたいで楽しいし。
先程の違和感も、少しは薄れて感じられた。
そこからいくつかワークは続き、ショーイングへの台本が配られた。
「…っつって」
「よくあるワークショップ冒頭だな」
「なんつーか、わかるっすか? 俺のこう、違和感っつーの?」
万里がちらりと丞を見れば、お茶のボトルを傾けてグラスにお茶を注いでいる。
「お前の方がわかってるだろ」
もう少し聞かせろよ、と言わんばかりに丞はそれ以上何も言わない。
万里は諦めて話を続けた。
台本は惑星調査の宇宙船内を描いた会話劇のシーン抜粋。稽古自体は単純で、数人程度のグループ毎に役決めから自分たちで進めて行く。そしてたまに演出家の蜜枝に見せ、意見を貰って行くというもの。
1日目は役決めまでで時間が終わり、本格的な稽古は2日目からだった。
『サイモン、お前の意見は正しい。お前達だって故郷のことを考えただろ?』
「はい、一旦止めようか。セッツァー止めちゃってごめんね。でも、とっても分かり易かったから少し説明入れさせてね」
「おけっす」
にこりと笑う蜜枝。芝居中だった万里のグループも一旦座らせて彼の講義は始まった。
「今の台詞だけど、セッツァーは誰に向けて言っていた?」
「前半はサイモン、後半は全体に」
「そう! みんなも彼の違いは分かったよね? 芝居には方向性があると僕は思っていて。その方向性の違いは声のリーチによって表現出来る。例えば前半の台詞はサイモンにだからーー」
「声の距離か」
「意識するだけで、誰に向けたものか分かるし、台詞のメリハリにもなるっつーわけで。当たり前だけど、言われてみりゃ基礎的に大事なことだよなって」
「円的なイメージでいう演出家もいるな」
「っす。 改めて人に言われると脳開くみてーに意識変わって結構おもしれー」
「流石、最前で活躍する演出家だな」
丞はそう言うと、右手を軽く持ち上げて、無言で次をどうぞと合図を送ってくる。
「あー、んで。そんな感じで進んでったんすけど…」
「摂津くんやっぱり上手いよね」
話しかけてきたのは同じ班の同い年の男。名前はモリ。森田が本名だったか。万里は軽く頭を動かして、礼を伝える。
「俺なんて全然だからさ」
頭を掻きながら彼はそう続ける。そういや、ラストの感想会でもそんなことを言ってたか。
「いやモリにも良いとこあんじゃね? 俺は劇団で経験積んでるし、最近は演助もしてっから自ずと視点も増えるっつーか」
「そうだよね、やっぱり摂津君は色々やっててすごいよね。俺は役者だけでも手一杯だし」
いやいやいやそういう話じゃねーだろと、万里は心の中で思ったが、彼はそのまま逃げるように帰っていってしまった。