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    iya_iyakis

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    iya_iyakis

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    書きたいとこだけ書いて終わらなそう供養 あなたの美しい全てが、私の醜さを反射してその度に恐ろしかった。例えばその黒檀の髪や、黒曜の瞳や、薄紅の唇や、愛の言葉や、引き金を引く指。あなたを構成するそれらが、私をゆっくり溶かしていくのを知ってしまってから、ずっと。
     思えば初めからあなたは美しかった。あの頃私は一人の同級生に勝てないことばかり考えていて、それ以外に目を向けることがあまりなかったせいで見落としていたけれど。昼は悩んで病んで更に負けが込み、夜は浅い眠りと不快な覚醒を繰り返す。そんな馬鹿なことをしばらくやっていると、講義に来ていた時耶さんは私を引き止め、流れるようにカフェへ連れ立った。そして美味しい珈琲としばらくの雑談の後、一枚地図を手渡したのだ。
     印を付けられた目的地に表札はなく、ただ静かに佇む邸宅があった。ドアベルを鳴らす時少し緊張していたのを覚えている。時耶さんの同期、というだけですごい人だとは分かっていた。六年前の帝国養成学院三年生、135期生の生き残りは五人だけだ。

    「……何か」
    「帝国養成学院三年、鶴喰と申します。砂櫛時耶さんからの紹介で参りました」
    「あぁ……話は聞いています。中へ」

     海底にある宝のような人だった。手を伸ばしてしまうけれど届かない、そんな雰囲気があった。落ち着いた口調と変わらない表情はひんやりとして、でも拒絶感は感じない。あと、脚が長い。歩き方とか姿勢とかを見ていると、蹴りが強そうだと思った。
     シンプルで清潔感のある内装のリビングに通される。必要最低限の家具が置かれた無駄のない部屋に見えて、どこか生活感の気配がした。人が住んでいるのだから当然に思えるが、家より宝石箱の方が似合う形貌から漂う些細な人間味は、それを違和として拾ってしまう。こんな感想も今だからこそ述べることができるけれど、当時は本当に、何を考えているのか悟らせない人だなぁとただぼんやり思っていた。

    「時耶からは不眠症と聞いていますが、念の為いくつか質問をさせていただきます」
    「はい……よろしくお願い致します」

     自然と背筋が伸びて、若干固くなった声が出る。それを聞いてか、彼──証先生は、スタスタとキッチンへ脚を運んだ。ポットでお湯を沸かし、棚から無造作に選び取った二つのマグカップへココアの粉末を落とす。こぽこぽと音を立てて熱湯が注がれ、湯気が昇った。優しくテーブルに用意されたそれに加えいつの間にか封の開いたクッキーまでもが皿に盛られている。

    「どうぞ。そう緊張せずとも大丈夫です」
    「あ、ありがとうございます」
    「火傷しないよう気を付けて」
    「いただきます……」

     学院の食堂で見かけたことのある袋だったのでそこまで警戒せず、ココアに口を付ける。ついほっと息が漏れてしまって気恥しい。下を向いた視界の端にクッキーのお皿がすすすと入って来て、少し頬が熱くなったのを無視して苺の果肉入りのを摘んで齧った。甘酸っぱい、と月並みな感想しか出なかったけれど、久しぶりにお菓子を食べた気がして、知らんぷりしていた心労が肩に凭れ掛かる。味覚を疎かにするまで張り詰めていたのか。証先生も私と同じクッキーを口に運んだ。
     時耶さんから聞いていた人物像との解離が、私をそわそわさせる。「ちょっと無愛想だし素っ気ないけど、面白くて良いやつだよ」、だっただろうか。何度か学院の講義に顔を出しているとも聞いたが、生憎面識はない。それにしても、確かに愛想は少しないかもしれないが、細かに気遣ってくれるし雰囲気も柔らかい。冷気さえ感じるような美貌はあれど、言動の端々から友好的な様子が滲んでいる。安堵から肩の力が抜けた。証先生は少し目を細めて──多分、微笑んでいたと思う。

    「眠れないのはいつ頃からですか」
    「半年前です」
    「失礼」

     端正な顔がぐっと近づき、文字通り面食らって若干仰け反る。白く長い証先生の人差し指の背が、私の左目のすぐ下を撫でた。私は彼の黒い黒い瞳を見つめることしかできなかったが、視線は交わることなく数秒が経つ。

    「細切れの睡眠を繰り返していませんか」
    「は、はい。仰る通りです」
    「市販の睡眠薬は何種類試しましたか」
    「……五、六程。名前も挙げた方がいいでしょうか?」
    「いえ、結構。見当は付きますので」

     一つ二つと並べられた名は確かに思い当たるもので目を見張るばかりだった。口をぽかんと開いたままの私をよそに、証先生は手元の手帳に何かを書き記して

    「貴方が飲み終わる頃に戻ります」

    と静かに言って部屋の奥へ消えた。ココアはまだ湯気が立っている。マグカップが空になるにはもう少し時間が必要そうだし、クッキーも減っていなかった。時刻は夕暮れに差し掛かる頃、今日も朝から訓練と授業でめいっぱい働いた体は疲労していて、更に言えば空腹だったので、家主の目がないのをいいことに抹茶のクッキーに手を伸ばした。しっとりとした食感で美味しい。何だか懐かしい味がする。
     十分は経っただろうか。最後の一口を飲み干して余韻に浸っていると、証先生が何かを片手に戻って来た。本当に丁度飲み終わった頃に現れて内心驚いたが、それより彼の持っているものが気になる。

    「菓子は口に合いましたか」
    「え、と。はい。その……クッキー、美味しかったです」

    ココアも、と加えた。

    「であれば、合うでしょう。夕食後に一錠飲んでください。一週間分あります」
    「分かりました……ありがとうございます」

     証先生に差し出された瓶詰めのそれはキャンディによく似て、キラキラで可愛らしい。夏国の飴園さんが脳裏に過ぎる。彼女もこんな風に甘そうだった。実力は飴と言うより鞭だけど。光を反射するガラスの容器も技巧を凝らしたデザインで、殺風景な自室に置くと浮いてしまいそうだ。
     瓶を丁寧に紙袋の中へ仕舞い、「これも入れておきます」とクッキーの小袋も一緒に入れた証先生の声はやっぱり柔らかくて安心した。

    「ありがとうございます。いただきます」
    「いえ。……二週間後の講義は、私が担当です。何かあれば声をかけてください」
    「ありがとう、ございます」

     お礼を言い過ぎて煩わしく思われていたら、と懸念したが証先生の表情を見るに恐らくは大丈夫だ。
     頗る丁重にもてなされた、のではないだろうか。部屋に通されるところから帰り際見送られるまで、ずっと──思い上がりかもしれないが──私の身を案じてくれていたような。単純な私はそんな思い込み一つでも心が軽くなった。
     どうしたって見られるのは成績のみだ。実力主義の帝国でものを言うのは序列。序列を上げるには成果が必要で、成果を挙げるには力が必要で、とにかく私たちに求められるのはどれだけ敵を殺せたかを目盛りとした価値である。価値あるものに栄華ありと、生まれる前どころか建国時には既にそう謳われていることを知りながら、いつまでも自分を低く見積もらせる私に憤りすら覚えた。万年二位の私は、絶対的一位を独占し続ける彼には勝てないのだと、成績や成果や戦果を眺める人々は決めつける。私だって戦場においては過程や方法より結果や数が重要だと思っているけれど、心の底があるとすればその辺りで抱えてしまっていたのだろう。物差しを当てずに私を見てほしいという、子どもじみた承認欲求を。
     多く言葉は交わしていないし接した時間も短かった。そんな中私の戦績に興味がある素振りを全く見せず淡々と問診しながら、確かに感じ取れる優しさは私にとってある種の薬だった。万が一処方された睡眠薬にこれまで同様効果がなかったとしても、証先生と話せたことは良かったのだと思えるだろう。
     見た目通りに甘い薬は本当にお菓子のようで心配だった。けれど、その日の夜は夢を見ることもなく、沈むように眠った。目覚めの爽やかさより先に驚きがあって、アラームが鳴るまでぼーっとしていた。雀の鳴き声が疎ましくて眉を顰めることのない朝は新鮮で、熟睡とはこんなにも気分の良いものであることを長らく忘れていたとは。半年余りの毎夜を思って乾いた笑い声が零れた。

    「あれ、おはよー言。顔色良いね?」
    「おはよう、アルマ。よく眠れたんだ」

     手早く身支度を済ませ自室を出ると、食堂へ向かう同じ寮の友人──アルマ・ユーフィンと鉢合わせた。自然と並んで歩く。白い後ろ髪がちょこんと跳ねて赤いインナーカラーが見えているのを指摘すると、けらけら笑って手櫛で整え、「直った?」と私の顔を覗き込んだ。
     私がずっと勝てないでいる一位の辻丸くん、二位の私、そして三位の彼女。アルマは座学が二桁代だった気がするが、実技はこの三人が不動だ。順位に拘らないアルマだからこそ、私の悩みとその弊害をよく知っている。一目で変化に気が付いたのはきっとそのせい。

    「じゃ、今日こそはだね」
    「うん……今日こそは、打倒辻丸くん」
    「私は打倒言かな」
    「わたし?」
    「最近負け越してるからさ。そろそろ取り返したいなーと」

     アルマはそう言うけれど、私と彼女に実力差なんてないに等しい。コンディションと立地と武器の相性で勝敗は簡単に割れる。実習の成績だってお互い優で同等、更に二人とも甲寮所属な為に同じ班で行動することが多い。競う場は実技の授業くらいなもので、優劣の判断が付きにくい。それに、本人は何も語らないが恐らく幼い頃から戦う為の技術を身に付けてきたアルマと違って、私が教え込まれたのは剣舞、魅せる為の技術なのだから。本格的に戦闘を習い始めたのは三年前だし、師匠と呼べる人とは二ヶ月程で別れてしまった。
     食堂には先客が二人居た。珍しい。甲寮はその性質故他寮と比べて圧倒的に少人数だ。と言っても六十人居るのだが、誰も彼もびっくりするくらい自由奔放で、正直奇人ばかり。授業のほとんどに実習を選択していて学院で姿を見かけることがない生徒、日中は授業夜間は任務と忙しい生徒、そもそも夜行性の種族……特に好き勝手なのは三年生とは言え、辻丸くん曰く"異常者筆頭"の生徒会長やクラーケンの宮くんは二年生で、新入生きっての問題児の一人潜柄くんは一年生。どの学年だろうと、各学年成績上位者二十名は特に我が強い。そう言い切りつつ、私には他人とぶつかるような自我も我欲もないから当てはまらないけれど。とにかく、皆個人行動が多いし自分のタイムスケジュールや意見を曲げない。という訳で、早朝の食堂に甲寮が四人いるのは本当に珍しいのだ。

    「お? おはよーございまース!」
    「はよざいま……」
    「あんまり見ない組み合わせだね」
    「実習でさっき帰って来ましタ!」
    「おー、お疲れ」
    「ダルいんでさっさと寝たいんスけど」
    「素晴らしい一日は素晴らしい朝食から、ですヨ〜」
    「一日を終えたいんスけど」

     にこにこしながら手を振ってくれたのは二年、放送委員長の胡蝶くん。心底気だるそうに視線だけ寄越したのは同じく二年の錯田くん。特別仲が良いという話は聞かないので、実習と聞いて納得した。二年生からは夕方から翌朝にかけて行動することが増え、必然的にバディと親密になりやすい。ならない場合も勿論ある。二年のベルネットくんと日比谷くんなんかはその筆頭だ。
     夜間実習終わりの割に元気はつらつな胡蝶くんはスープを一口飲んだ後、私とアルマの顔を見て楽しそうに言った。

    「アルマ先輩、今日落し物しまス! ご注意!」
    「ほんと? おっけ」
    「鶴食先輩、今日は拾えませン……でも大丈夫、近々バッチリ拾えまス!」
    「ど、どういう……まぁ、分かった。ありがとう」

     今思い付いたことを適当に言っているような内容だが、彼の占いは異常な精度を誇っており、昼休みに放送される星座占いの結果を馬鹿にする人はいない。というか、直球に死を宣告される場合もあって無視できない。大概抽象的かつコミカルに運勢を教えてくれるので、聞いたまま受け取ると重大なミスや致命的な勘違いを引き起こす。慣れていない新入生は上手く使って生き残ってほしいところだ。
     この時間の調理は自分たちで行う。私が目玉焼きとベーコンを焼いている間にアルマはスープを作ってくれた。トーストも焼いて、牛乳も注いだ。会話のない穏やかな空気の中、着々と食べ進める。あっという間に皿は綺麗になっていった。ほぼ同時に箸とフォークを置き、手早く食器を洗って食堂を後にする。後輩たちに声をかけると、「またネ〜!」「ス」とそれぞれ返ってきた。
     学院の授業は基本、必修科目以外は生徒が自由に選択して履修する。私は座学も実技もバランス良く取って週に二回か三回実習に参加しているが、この辺りは本当に各生徒の個性が出て面白い。座学にも実技にも必修科目はあるのでどちらかだけ受けることはできず、成績に偏りが出る生徒は一定数いる。座学は得意だけど実技は苦手だとか、実技は好きだけど座学は退屈だとか、誰かに教わるより実地で学ぶ方が肌に合ってるだとか様々いても、皆認定試合には本気で挑んでいる、はずだ。学生の頃から階級を持っていれば多種多様な部隊からスカウトが来るし、軍功を挙げてミドルクラスに昇格できる可能性もある。ヒエラルキーがはっきりしている帝国で、名前のある地位に着いて損することは有り得ない。ゆえに、皆真剣に競い合う。私と辻丸くんのように、地位に興味がなくたって。

    「鶴喰くん。一戦どうだ」
    「丁度誘おうと思ってたよ。やろう」

     打ち負かすことを目標とする私からだけでなく、辻丸くんから試合を申し込んでくれるのは嬉しい。どれだけ彼との間が開いていようと、実力は認められている気がするから。例え一度も順位を覆せたことがなかったとしても。
     ──いつも考える。どうして、君に勝てないのか。

    「普段より調子が良かったな。僕もだが」
    「……ほんと、強いね、辻丸くん」
    私が弱いだけかもね。

     調子が良い。間違いなく。それでも、一歩どころか万歩届かない。剣先が、銃弾が、彼に膝を突かせることはない。
     よく眠れたんだ。君に負ける夢だって見なかった。今日も君以外には負けなかった。ああ、それでも、それだけでは、その程度では、駄目なようだ。
     帝国養成学院風紀委員長、階級"中尉"、ミドルクラス。帝国養成学院生徒会会計、階級"曹長"、ワーキングクラス。この文字列にどれ程の差があるのかも最早どうでもいいと思うところまで、とうに来ている。脳の軋む音がして、奥歯を噛み締めた。
     今日も駄目なら、どうしたって。いや、そんなことはない。彼だって完全無欠ではないのだから。いつか どこかが綻びるはずだ。生じたそこを、私の刃が切り刻む時が、いつか。いつか、って、いつだ。私がおかしくなるのとどちらが早いだろうか。
     濁る。本心が、脳が、瞳が、汚濁に塗れる。もう思い出せやしない、あったはずの彼に勝ちたい理由を必死に探しても、一欠片だって見つからない。初めは手段だったものがどこからか目標になり、悲願になり、確実に私を蝕むようになった。息苦しいのが終わらなくて、虚しさが離してくれなくて、涙なんて出なくても悔しさが染みとなって私を濡らしていく。
     いつまでこんなことを続けるんだろう。
     薬は本当によく効いた。効力が高いとされる睡眠薬を粗方試してきた為か、耐性が付いてしまっている私の体でも否応なしに眠らされたのだ。証先生の薬は今まで飲んだどれよりも力を発揮した。それがどことなく辻丸くんに似ている気がして、理不尽な苛立ちが燻る。けれど証先生の優しさを思い出すと途端に鎮火し、馬鹿な私に嫌気が差してくるのだ。罪悪感が心臓に触れてぎゅっと痛む。
     結局あの後も、辻丸くん以外に負けることはなかった。誰に勝っても満たされない心が締め付けられて、振り下ろす刃もどこか所在ない。実技訓練が午後で良かった。さっさと自室で先の試合を振り返りたい。そんなことしたところで、何も意味はないかもしれないけれど。何もしないよりはいくらかマシだと思いたいだけだ。



     薬が切れた。もう一週間経ったのか、と時の流れを早く感じるのは睡眠のおかげだろう。寝覚めを繰り返すせいでいつまでも朝が来ないように感じていたのが懐かしい。
     仕事で近くに来ていたという時耶さんと、彼女の拷問部隊直属の掃除屋である裁藤さんが廊下の向こうから歩いて来るのが見えて、早足に近寄った。今日は半休を取って、証先生へのお礼を買いそのまま薬を貰いに行くつもりだ。なので証先生がお礼を受け取ってくれるタイプの人か、何がお好きかを聞きたいと思っていた。時耶さんなら知っているだろう。

    「こんにちは」
    「言ちゃんこんにちは〜。どしたの?」
    「こんちは。オレ席外そか」
    「いえ、大丈夫です。ちょっと質問があるだけなので」
    「なーに?」
    「証先生についてなのですが」

     彼の名を出した途端少し嬉しそうな顔する時耶さんだが、隣の裁藤さんは「アイツと知り合いなんか」と驚いている。

    「裁藤さん、ご存知なんですか?」
    「まぁ、そらな。時耶さんの同期やし……たまに世話んなるし愚痴るし……」
    「案外仲良しだよねきみら。んで、証がどしたの?」
    「あ。その、証先生は客からのお礼を受け取ってくださるのかなって」
    「あーね。んー、あいつ頻繁に貢がれても断ってるけど……言ちゃんのなら受け取ると思うなぁ」
    「ある程度仲良いやつからのもんは三割くらいの確率で受け取るで」
    「同期だと十割」
    「そ、それだと私のは受け取って貰えないのでは」
    「大丈夫だよ」

     やけに強く言い切る時耶さんは珍しい気がする。いつもの微笑みは変わらなくとも、真っ直ぐ私を見つめる瞳は誠実の色をしていた。飄々という言葉が美しい姿をしている彼女のそんな様子には説得力があって、半ば押し切られるように頷く。

    「ちなむと証はめちゃめちゃ甘党だよ。苺タルトが大好き」
    「ありがとうございます、参考にします」

     訓練を覗きに行くから、とお二人は私に手を振って去った。仲睦まじい後ろ姿を見送る。苺タルトか。どこのが美味しいのか全く知らない。詳しい人……にも特に心当たりがない。困ったな。帝国はケーキやシュークリームより羊羹や饅頭の方が普及していて前者は店自体が少ない。検索に引っかかるのは周辺の小国にある店や菓子文化が盛んな春国の有名店の通販ページばかり。

    「あら、鶴喰先輩。どうかされたんですか?」
    「琴葉さん……!」

     二匹の使い魔を連れた風紀委員二年の琴葉月李さん。琴葉と言えば六年前は国軍にも顔の利く名家だったが、当主夫妻が没してからは後を追って衰退した。とは言え彼女がご令嬢であることに違いない。家が栄えようが衰えようが、実力さえあれば十分評価されるのは祖国の魅力のか汚点なのか、他国であれば判断に迷うところだが帝国民としては当然の様なので誰も何も思わないものの、今この瞬間彼女は私にとって最も価値のある人間だ。
     一縷の望みを賭けてケーキ屋について尋ねると、快くいくつか教えてくれた。小隊に例えられる風紀委員会の中でも穏やかな彼女は、使い魔たちをふわふわ撫でながらあそこはプリンが美味しかった、あっちは焼き菓子も美味しかった、と次々情報を挙げている。世間知らずだ、なんて言われているようには見えない。
     琴葉さんにお礼を言って、先程教えてもらった店名とおすすめを脳内で復唱しつつ階段を降りる。学院からタルトが美味しい店までそう遠くもない。走ればすぐだ。
     隠れ家と言っても過言ではない店のショーウィンドウ。ガラス一枚を隔てた苺タルトは、キラキラと輝くナパージュも相まって宝石に見えた。一目惚れとはこういう風に惹かれるものなのだろう。ピースで買おうと思っていたのに、気付けばホールを箱に詰めてもらっている。刃を入れてしまうのが惜しく思えたとは言え、長持ちしない生物をこんなに貰っては迷惑になるかもしれない。ご友人と分けて、と言葉を添えることにしよう。
     以前地図を見ながら通った道は、自然と頭に入っていた。迷うことなくそこに辿り着き、ドアベルを鳴らす。ほんの少し間があった後、証先生が顔を出した。

    「鶴喰さん」
    「こんにちは、証先生」
    「薬ですね。中へどうぞ」

     部屋に通されると、テーブルにはティーカップが二客置いてあった。誰か来ていたのだろうか。ちらと視線をやっただけなのに、証先生は「貴方が来るだろうと思ったので」と言い、今日は茶菓子を用意していないのですが、と付け加える。嬉しくてちょっと得意気に箱を差し出すと、彼はじっとそれを見つめた。

    「お茶菓子なら、こちらのタルトを召し上がってください」
    「……私の好みをよくご存知ですね」
    「時耶さんにお聞きしました。ワンホールなので、ぜひご友人と」
    「そうですか。ありがとうございます……貴方はお好きですか、タルト」
    「え、あ、はい。甘いものは好きです」
    「でしたら今いただきましょう」

     返事をする前に、彼はキッチンから持って来た包丁を刺しこみ躊躇なくタルトを切り分ける。ザク、と生地が断たれる音がした。あ。と声にならない息が唇を滑る。この美しさを壊したくなくて、形を保ったままだったのに。この美しさは壊れてしまうものだと思っていたのに、切り分けられたタルトはその断面さえも美しさを損なわず輝いていた。赤と白のコントラストで目が冴える。

    「紅茶と珈琲ならどちらがお好きですか」
    「紅茶が、好きです」
    「分かりました。しばらくお待ちください」

     証先生がテキパキと紅茶を淹れてくれるので、慌てて姿勢を正す。目的を見失うところだった。私は薬を貰いに来たのだ。今はこうして丁重にもてなされているけれど、お礼を言って薬を貰う、その為だけに来た。本当ならタルトも紅茶も遠慮して、訓練場へ向かうべきだった。私に余裕なんてないのだから、使える時間は強くなる為に使うべきだと、分かってはいる。それでもここから離れないのは、住み慣れた我が家のように居心地の良い空間が私の袖を引くからだ。訪れたのは二回目、家主は薬剤師で私は客、どこをどう取ったって薄っぺらなくせに、どうしてだろう。証先生の持つ力なのか、私が参ってるだけか。
     ぐるぐる考え込む悪癖に区切りを付けたのは銃声だった。下から聞こえたように思う。かなりくぐもった小さな音だったので種類の確信は持てないが、魔導製や電気式ではなく古典的な旧型軍用銃が出す特徴的な響きが確実に聞こえた。反射で手が空を掴もうとする。

    「地下に射撃場があるんです。今は友人が使っていると伝え忘れていましたね」
    「射撃場……」

     私は戦場にあるなら死体だって使う。けれど銃火器だけはどうしても苦手だった。今は卒業し狙撃部隊に所属している憧れの先輩に頼み込んで教えてもらい多少まともになったとは教官の言葉だが、できる限り近距離戦で畳めとも言われた。的には当たるし装填も辻丸くんの次に早いのに。アルマ曰く「言の狙撃は危なっかしい」らしい。
     半分程実体化してしまった刀を解く。半透明のそれが消えていくのを見つめていた証先生は、私の考えを見透かしたのか口を開いた。

    「気になるのなら、行きましょうか」
    「え!? あ、……はい、お邪魔でなければ」
    「では、食後に」

     湯気を立てるティーカップを傾けて、目を細めている。皿に乗せられたタルトを置き去りに話し込んでいたのを思い出して、慌ててフォークを手に取った。



     地下への階段は降りて行くに連れて冷える空気とは裏腹に、オレンジ色の温かな照明が親しみやすさを誘う。この先にあるのが狙撃場だとは思えなかったが、段々と大きくなる銃声がその存在を証明していた。扉はすぐに見えて、前を歩いていた証先生が触れると空気の抜ける音と共に開く。

    「エンジェル」

     白い髪を揺らして、銃を構えていた男性が振り返った。黄色信号のような瞳が私を捉えたかと思うとすぐに証先生を見やる。

    「よぉ」
    「時間だ」
    「分かってる。なぁ何か食い物ねぇか?」
    「彼女に貰った苺タルトが上に。お前の分は切り分けてある」
    「そ。ありがたく頂戴するぜ、鶴喰」
    「何故名前を……」
    「知ってるだけだ。じゃ」

     彼は猫のようにすり抜けて行く。手をひらりと振って、扉の向こうへ消えた。壁に立て掛けられた旧型軍用銃を掴んだ証先生は軽く点検をし、何発か撃ち抜かれた跡のある的に目を向ける。寸分違わず中心に穴が空いていた。

    「シルバー……ですよね」
    「はい。学院にもあるでしょう」
    「いくつか」
    「これは元々その中の一挺です。卒業時に型落ちを盗んで帰って来ました」
    「あはは……エスメラルダはいりませんでした?」
    「新型は当時数が少なかったんです。それと、癖がなくて扱い難いので」
    「癖がないのにですか」
    「基本と、その延長線にしか対応できませんから。融通が効かない」

     証先生の話は私にとって新鮮というか、不思議だった。彼が挙げたそれらが、利点に思えて仕方がなかった。基本と応用に対応していて使い勝手が良いのだと、一年の教科書にも載っていたから。実際、エスメラルダが使い難いと思ったことはない。好みで言えばシルバーの方に軍配が上がるけれど。尊敬する先輩のシルバー贔屓も影響している。彼は「ひねくれてるからだ」なんて言っていた。

    「自分に合わせて銃を選ぶ。銃に合わせて自分を変える。貴方ならどちらを選びますか」
    「後者です」
    「何故」
    「その場にあるものは何でも使えなければ生き残れません。それに壊れない武器はないですから、どれだけ完璧に誂えようと」
    「それを理解しているのに、貴方は教科書通りの戦い方をしますね」

     息が詰まった。問いではないそれが口中の水分を奪う。「教科書通り」「お手本」「テンプレート」、今まで何度も言われてきた言葉。恥にも誇りにも思わなかったそれが、何故こうも動揺させるのか分からない。責めるような口ぶりではないのに、冷水を被ったような心地がする。誰かに褒められたくて戦っている訳じゃないのだから、何を言われたってどうだっていいはずだ。

    「学院で教わりましたね。適正のある武器を使えと」
    「……はい」
    「教科書にも、合わない武器を使えど良いパフォーマンスは見込めないと、そう書いてある」
    「はい」
    「それがそもそも、貴方に向いていない」

     シルバーを構えた証先生が、真っ直ぐ私にその銃先を向ける。躊躇いもなく撃つだろう。あぁ撃った。背後に立つ的の中心はぽっかりと穴が空いている。こうも至近距離だとさすがに焦げ臭い。
     不思議と動揺はなかった。最初から分かっていたみたいに冷静で、魔力は騒がず大人しい。ただ、証先生の言葉の続きに夢中だった。

    「射線に味方がいるからなんだ? 構わず撃てばいい」

     私の危なっかしい狙撃を、彼は見た事があるのだろうか。これまで教官に咎められても、狙いを変えるタイムロスが疎ましくて引き金を引いてきた。外したことはないものの、いつ誤射してもおかしくないと何度叱責されたか。もっともな指摘で全くもって正論だが、私は自身を間違いだと思ったことは一度もない。無駄は削るべきだし、何なら味方に弾を避けてほしいくらいだ。不可能ではない。現に辻丸くんやアルマは並外れた察知力と瞬発力で避けていたし。
     傲慢な私を、尊敬する柵工先輩は「イカれてる」と笑って、決して否定はしなかった。

    「貴方は優秀だ。才能があり、努力を惜しまない。優等生なのだろう。だが模範生になる必要はない」
    「証先生は、私の何を知っているのですか……」
    「見てきたことは知っている」

     微妙に噛み合わない会話に、苛立ちよりも困惑が募る。しかしそれも段々薄まって、励ますでも諭すでもない証先生の声に聞き入ってしまう。この人のことを私は、何にも知らないというのに。

    「規律も倫理も、成果の前では無価値な国だ。少しくらい狂っていなければ生き難い」
    「正気で戦場に立てた覚えはありません」
    「そうか? ならもっと味方を殺しているはずだ」
    「分別をつけているだけです」
    「利口だな」
    「軍人として当然でしょう」

     彼とこんなに言葉を交わしたのは初めてだ。それも、ここまで感情を露にして。私は今どんな顔をしているのか知るのが怖くて、彼と目を合わせられなかった。

    「貴方が勝てない理由が分かるか? 殺す気がないからだ」

     一切の音が消え去る。じわじわと戻りかけていた体温さえも、彼の言葉に奪われてしまう。ただ、先程までの嫌な寒気はない。あるのは、脳が冴えていく感覚。

    「証明しなくてはならない。誰が立ち塞がっても殺せると」

     美しく整えたタルトに、刃を入れる。想像よりも綺麗な断面を見ろ。

    「貴方にはそれができる」
    「……あなたは、私の何を見たのでしょうか」
    「いつか教えてあげましょう。さて……もう一杯、紅茶はいかが」

     結局私が銃に触れることはなく、若干気まずいティータイムを終えて帰路に着いた。今日もクッキーをいただいてしまったが、前回よりかなり多い。もしかして、と視線をやると「ご友人と」と少しだけ目を細めた証先生は静かに手を振って私を帰らせた。



     彼の手から弾かれた刀が地に落ちるまで、呼吸が止まっていた。

    「勝ちを」

     拾ったのか。その言葉は驚く程腑に落ちて、つい笑みが零れる。ああ、なるほど。本当によく当たる。

    「そんな言い方はよせ。貴方は正真正銘、実力で僕に勝った」

    「次は負けないぞ、鶴喰くん」

     耐え切れなかった笑い声が小さく響く。君に勝てれば気は晴れるかと、鏡に問いかけた夜にとうとう答えが出た。



     美しい人が、壊れ物でも触るみたいに私の手を握った。あなたはきっと、私に芽生えてしまった独占欲も見ないでほしい自尊心も、全て引っ括めて許してくれるのだろう。それこそが恐ろしいということを、理解した上で全て抱き込んで大事にしてしまうのだろう。あなたが想う程の価値などないかもしれないのに。けれどあなたの視線や、言葉や、体温が、痛いくらいに私を愛してくれるのなら。私は、ずっとあなたを恐れていたい。
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