千鉱が文字を読めるようになったのはみっつのときだったが、無造作に紙へ引いていた線が文字のかたちを持つようになったのはそれからしばらく経ってからだった。国重から与えられたプリントの薄い文字のかたちをなぞり、真似て書き、その線のかたちと教わった音を重ね合わせて文字を覚え、それをいくつも連ねて言葉と意味を浮かびあがらせた。まずちひろという自分の名前を教わり、それからろくひらという名字を教わり、自分と父親は同じ名字で名前が違い、父親はとうさんではなく、くにしげというのだと教わった。
「ろ、く、ひ、ら、ち、ひ、ろ」
文字をひとつずつ読みながら書いてゆくといい名前だと国重がいう。
「い、い、な、ま、え」
名前の横にいわれたとおりに書くと国重はそうだなといって笑った。
それは幼い千鉱にとっては目が覚めるほど新しい出来事で、夢中になって紙が真っ黒になるまで文字を書き続けた。そして国重にもそれをねだった。知らない文字が見たかったからだ。
「ほんまや! チヒロ君は神童や…!」
山のむこうからやってくる男が千鉱の書いた名前を見て大袈裟に驚き、チヒロの頭を撫でた。ふたりのいる縁側は日当たりがよく、千鉱がお絵描き帳を広げるにはちょうどいいあたたかさがあった。ときどき、父親が出かけることがあり、そのときはこの男とふたりで父親の帰りを待つのが常だった。
「ほんまかしこいなあ」
男はときどきやってくる国重の友人だった。千鉱が唯一知っている自分たち以外の人間だった。男が父に呼びかける「六平」は自分と父親の名字のことだったのだと千鉱は思った。
「せや、チヒロ君におみやげ」
男がポケットから差し出したのは封筒だった。味気ない茶封筒でなかには文字の書かれたメモ用紙があり、千鉱はそれを声に出して読んだ。
「ちひろくん、こんにちは」
「おー! さすがや! 天才!!!」
二行だけ書かれたそれは男が国重に頼まれたものだ。興味があるみたいだからといわれて書いたが、小さな子供がどこまでわかるのかがわからず、平易にと考えた結果、二行だけになってしまった手紙だった。
「これは?」
その末尾に書かれた線はまだ千鉱の知らない線だった。難しそうなかたちをしていた。
「あー、読まれへんよな。『柴』や、柴さんの柴」
「しば」
「柴さんはしばとうごいうねん」
男は貸してと千鉱のクレヨンを手に取ると、そこにひらがなでさっきの音を文字にした。
「し、ば、と、う、ご」
千鉱はひと文字ずつゆっくりと文字を読む。
「そう、しばが名字でとうごが名前。で、これが漢字っていう難しい字でな、これひとつで『しば』て読むんや」
柴はそういってメモ用紙にある字を指した。これが目の前の男の名前らしい。
千鉱はしば、しば、しば、と小声で繰り返しながらその文字を見た。クレヨンとは違う細い線で書かれた文字。たったひと文字、だが千鉱には目の前にいる男そのものに思えた。そして、千鉱はそれをどう読めばいいのかを知っていた。
「柴」
男を見て、知っている読み方で声を出して読んだ。音はふたつだ。
「お! その呼び方、お父さんそっくりやな」
男はそういうと、千鉱を抱き上げて笑った。
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いま東京都写真美術館でやってるアレック・ソス展と現在地のまなざしで観た金川晋吾がほんとよくてさあ。明るい部屋にいたときもあったはずなんよなチヒ柴も。でも後悔や現在に繋げることなく眩しい一点として切り取ったままそこに在って欲しいという気持ちがあります。