意識覚醒者との子供について——ベッドに寝転がりながら天井を見つめ、何度も何度も同じ思考を繰り返す。
本棚には山積みの論文、生物学、神秘学、遺伝工学……あらゆる分野の書籍が詰まっている。
机の上には手当たり次第に集めた資料が散乱し、ところどころ赤線が引かれていた。
それは何度も読み返した跡であり、絶望を刻み込んだ証でもあった。
アドラーはゆっくりと起き上がりフラフラと椅子手をかけ、机の上に広げられた資料をぼんやりと眺めた。
どのページも同じようなことが書かれている。遺伝子の構造、生殖のメカニズム、異種交配に関する論文の抜粋——そのどれもが、彼の求める答えを拒絶していた。
手元には、メディスンポケットから渡された最新の医学データがあった。生殖技術は年々進歩している。試験管内での受精技術、代理母の活用、遺伝子操作。しかし、それらのどれを試みても、アドラーとウルリッヒの間に子を成す方法は見つからなかった。
それは当然のことだった。
ウルリッヒは人間ではない。磁性流体の意識覚醒者、いわば神秘学の産物。彼の身体は、血肉ではなく、流動する磁性体で形成されている。細胞分裂もなければ、DNAも持たない。代謝すらしない。そんな存在が、どうやって生命を生み出せるというのか。
アドラーは目を閉じ、深く息を吐いた。
「……どうすれば、俺はお前の子供を持てる?」
呟いた言葉は、自分自身への問いかけだった。
——人と無機物は子をなせない。
それが答えだった。
それでも、アドラーは諦めきれなかった。
ウルリッヒとの子供が欲しい。
それは単なる欲望ではなく、彼の中で「証」としての意味を持っていた。
誰に認められたいわけでもない。ただ、彼らの間に「確かなもの」を残したかった。
けれど、どれだけ足掻いても、それは生物学的に不可能だった。
§
彼は、もう何人の専門家に頼ったか覚えていない。
メディスンポケットには、「どうにかならないのか」と何度も詰め寄った。彼の知識と技術は世界最高峰のものだったが、それでも「物理的に不可能」という事実は変えられなかった。
「ミスター・エニグマ、君が望む気持ちは分かる。気味が悪いがな。でも、生命を生み出すには遺伝情報の交換が必要だ。ウルリッヒにはDNAがない。染色体すら持たない存在だ。彼との間に子供を作ることは——」
「分かってる。」
アドラーは遮るように言った。何度も聞いた言葉だ。もう耳にタコができるほど。
「それでも、何か方法があるはずだろ。」
「……」
メディスンポケットは黙り込んだ後、ゆっくりと首を横に振った。
「存在しないんだミスター・エニグマ。どんなに科学が発展しても、乗り越えられない壁がある。」
その言葉が、胸に鋭く突き刺さる。
§
次に頼ったのはメスメルだった。
メスメル家の娘。
ラプラスでも有数のセラピストであり、人工夢遊装置を使った精神治療に長けた天才。
彼女のもとにはあらゆる分野の権威が相談に訪れるが、彼女自身は面倒事を嫌い、深入りすることを極端に避ける性格だった。
「——で?」
小さな部屋の奥で、メスメルは紅茶を口にしながらアドラーを見つめた。
彼女の周囲には淡いアロマの香りが漂い、静かにクラシック音楽が流れている。心を落ち着けるための環境が整えられた、完璧な空間。
けれど、アドラーの心は少しも落ち着かなかった。
「……ウルリッヒとの子供が欲しい。」
一瞬、沈黙が落ちた。
メスメルは視線を逸らし、カップの中の紅茶をじっと見つめる。
やがて、ひとつ溜息をつくと、呆れたように口を開いた。
「……正気?」
「本気だ。」
「無理でしょう。」
彼女は淡々とした口調で言い切った。
アドラーは拳を握りしめた。
「それでも、何か方法があるかもしれない。そう思って……」
「ねぇ、私たちの最高責任者代理さん。あなたは”不可能”って言葉の意味、分かってる?」
メスメルはカップを置き、ゆっくりとアドラーを見つめる。
「ウルリッヒは人間じゃないのよ? 彼は磁性流体でできた神秘学家。あなたとは、“生物”としての構造が違う。遺伝子もなければ、生殖器官もない。」
「……分かってる。でも——」
「だったら、どうして諦められないの?」
アドラーは答えられなかった。
「あなた、本当は分かってるんじゃない?」
メスメルは椅子から身を乗り出し、まるで子供を諭すような声で言った。
「あなたが本当に欲しいのは”ウルリッヒの子供”じゃなくて、“ウルリッヒとの証”なんでしょう?」
心臓を握られたような感覚がした。
「……っ」
「確かに、子供っていうのは愛の証かもしれない。でも、それがなければ二人の関係は”不確か”になるの?」
メスメルの言葉が鋭く突き刺さる。
「ウルリッヒは、あなたに子供を与えられない。だけど、彼が”あなたを愛している”ことに変わりはないわ。」
「……そんなことは、もう分かってる。」
「じゃあ、どうして。」
アドラーは、うつむいた。
「……分からない。分からないんだ……」
メスメルはしばらくアドラーを見つめていたが、やがて小さく息を吐き、静かに言った。
「……アドラー、ねぇ、あなたもう壊れかけてるわよ。」
「……」
「このままじゃ、いつか取り返しのつかないことになるわ。」
アドラーは目を閉じた。
“取り返しのつかないこと”
そんなことは分かっている。分かっているのに、どうしても止まれなかった。
§
リハビリセンターの廊下を歩く。
周囲は医療スタッフの声で騒がしく、消毒液の香りが鼻腔をくすぐる。
頭の中では、メスメルの言葉が何度もリピートしていた。
「このままじゃ、いつか取り返しのつかないことになるわ。」
それでも、アドラーは足を止めることができなかった。
もし、もしも——
「……ウルリッヒ、お前がもし”人間”だったら、どれだけ楽だったんだろうな。」
誰にも届かない呟きは、騒がしいリハビリセンターの人混みの中に溶けて消えていった。
§
夜、アドラーは一人で部屋の隅に座り込んでいた。
何も考えたくなかった。
それでも、脳裏には同じ問いが何度も浮かんでは消えていく。
「……ウルリッヒとの子供が欲しい。」
こんなにも強く望んでいるのに、どうして叶わないのか。
人間同士ならば、そこに愛があれば、自然に子供を授かることもあるだろう。だが、自分とウルリッヒの間には、その「自然」というものが存在しない。
どれだけ願っても、どれだけ手を伸ばしても、決して届かない夢。
それが、アドラーの心を深く蝕んでいった。
窓の外には静かな夜が広がっている。
けれど、アドラーの胸の中には、暗く沈んだ虚無感だけが広がっていた。
§
ウルリッヒは最近、微妙な違和感を抱いていた。
理由は単純で、アドラーの様子が変わったからだ。
それに気づいたのは、数日前のことだった。
彼は元々、感情を大きく表に出す人間ではない。必要最低限の皮肉を交わし、論理的に物事を進める。そういうタイプのはずだった。
だが最近のアドラーはどこか違う。言葉を選ぶ間が長くなり、返答が遅れることが増えた。かと思えば、無意味な独り言を呟いたり、何かを考え込んでいるような素振りを見せることがある。
それが何を意味するのか、ウルリッヒには分からなかった。ただ、彼の神秘術を応用すれば、アドラーの言葉の”ノイズ”が増えていることははっきりと分かった。
普段の彼の会話には、余計な装飾や無駄な言葉がほとんどない。まるで研ぎ澄まされた皮肉コードのように、最適化された思考で言葉を紡ぐ男だった。
だが今のアドラーの発言には、不必要な”揺らぎ”がある。
“迷い”
“躊躇い”
“隠そうとする意図”
それが、ウルリッヒには違和感として響いた。
些細な変化ではあるが、彼のような意識覚醒者にとっては決して見逃せない兆候だった。
ウルリッヒは別に、他人の心の奥底を詮索する趣味はない。だが、一度聞こえた”ノイズ”は、無視しようとしても耳に残るものだ。
アドラーは、一体何を抱えているのか——
そう考えながら、ウルリッヒはふと、ラプラスの白い天井を見上げた。
「本人に聞くしかないようだな。」
§
夜が更け、ラプラスの研究施設は静寂に包まれていた。
それでも、明かりの消えない部屋がいくつもある。
そのひとつ——ウルリッヒの部屋には、微かに電子機器の稼働音と、人の気配があった。
部屋の中央には二つの椅子。
そのうちの一つに腰掛けているのは、アドラーだった。
彼はどこか、影を落としたような顔をしていた。
ウルリッヒはそんな彼の姿を、対面から静かに見つめていた。
言葉を交わす前から、すでに異変を察していた。
アドラーの目の下には隈ができている。
普段は整然としている服もどこか乱れていた。
何より——その姿勢が違う。
彼はまるで、魂が抜けたように椅子へ凭れかかっていた。
「……」
ウルリッヒはしばらく沈黙を保った。
今この場で、下手な言葉を選べば、より状況を悪化させることになる。それは以前彼の「姉」に関する間違った選択をしたせいだ。
だからこそ、慎重に選ぶ。
「最近、キミの調子が良くないように見える。」
ようやく発した言葉は、冷静なものだった。
アドラーは一瞬だけ視線を上げた。
しかし、すぐに目を逸らし口を引き結んだ。
まるで、何も聞こえなかったかのように。
ウルリッヒは、その反応に眉をひそめた。
「——否定はしないんだな。」
問いかけではない。ただの観察の結果だった。
アドラーは肩を震わせた。
「……あんたに、関係ない」
ようやく発した声はかすれていた。
ウルリッヒは、その言葉を聞いても動じなかった。
「そうかもしれない。でも、それを言うなら、キミのこの状態を無視するのもボクの自由だ。」
「……っ」
アドラーの指先がわずかに震えた。
ウルリッヒは彼の表情を観察した。
先ほどよりも影が深くなっている。
まるで、何かを押し殺しているような顔だ。
「キミは何かを思い詰めている?そしてそれが限界に近づいている。違うか?」
アドラーは何も答えなかった。
しかしその沈黙こそが答えだった。
ウルリッヒはため息をついた。
「話せないなら無理に聞くつもりは無い。」
淡々とした声だった。
「でも、少なくともボクはキミが限界に近づいていると思う。」
アドラーの肩が小さく跳ねた。
ウルリッヒは続ける。
「だから……せめて、休め。」
アドラーは口を開こうとしたが、何も言えなかった。
ウルリッヒはそのまま椅子から立ち上がり、部屋の奥へと歩いていった。
そして、冷蔵庫の扉を開けると適当に水のボトルを取り出し、無造作にアドラーの前へ置いた。
「飲め。」
命令のような言い方だった。
アドラーは、一瞬だけウルリッヒを睨んだ。
しかし何も言わず、黙ってボトルを手に取ると蓋を開けて一口飲んだ。
ウルリッヒはそれを見届けると、再び椅子に座り直した。
「……少しは落ち着いたか?」
アドラーは答えなかった。
しかしかすかに目を伏せ、呼吸が少しだけ整ったように見えた。
ウルリッヒはそれを確認すると、静かに呟いた。
「それでいい。」
その夜、二人はそれ以上言葉を交わさなかった。
§
翌日
朝になっても、アドラーは現れなかった。
ウルリッヒは最初こそ「寝坊だろう」と軽く考えていた。
だが、始業時間が過ぎても、彼の姿はどこにもない。
それに、昨日の彼の様子を思い出せば、単なる寝坊とも思えなかった。
疲れ果てたような顔、まともに会話もできないほど沈んだ精神状態——
ここ最近のアドラーは、どこかおかしかった。
ウルリッヒは溜め息をつき、アドラーの部屋の前に立つ。
「……アドラー、起きてるか?」
ノックをしながら声をかける。
返事はない。
「アドラー・ホフマン!既に就業時間は過ぎているぞ!」
さらに強めにノックする。
しかし、室内からは微塵の反応も感じられない。
——まさか
胸の奥に、嫌な感覚が広がる。
疲労で倒れているのかもしれない。
ウルリッヒは即座に判断を下した。
アドラーの部屋のロックを解除するしかない。
だが、問題があった。
ウルリッヒが手をかざして認証パネルを確認すると、そこには異常なまでに長いパスコードが設定されていた。通常の個人部屋のセキュリティレベルとは桁違いだった。
「……なんでこんなものを?」
不可解だった。
これほどの複雑なコードを設定する必要が、果たしてどこにあるのか。
まるで、誰にも入られたくないとでも言うような意図が透けて見える。
ウルリッヒは舌打ちをした。
「仕方ない……神秘術使うしかないか。」
指先をかざし、微かに空間が歪む。
神秘術の発動——
ウルリッヒの神秘術は、暗号解読に特化している。
どれほど高度なパスコードであろうと解析し、突破することが可能だ。
しかし、それでも5分かかった。
——やけに手こずった
通常なら数十秒で解読できるはずのところをこれほどまでに時間を要するとは。それだけこの暗号の難解さが異常だったということだ。
ウルリッヒは一抹の不安を抱えながら、ようやく解除された扉を押し開けた。
そして、次の瞬間——
「……ッ!」
目の前に広がった光景に、ウルリッヒは息を呑み、磁性流体は花火を散らしたような形を作る。
部屋の中は異様なまでに乱れていた。
床には大量の紙が散乱し、机の上にも書類が山積みになっていた。——いや、普段も確かに汚いが、コレはとても精神状態が普通の人間の下手には思えないほど異常な状態だった。
ウルリッヒは静かに室内へ足を踏み入れる。
——机の上に、一際目を引く紙束があった。
そこには無数の数式と、見覚えのない生物学に関する化学式が書き連ねられていた。まるで狂気に取り憑かれたかのように、乱雑な筆跡で。
だが、ウルリッヒが最も目を引かれたのはその端に書かれていた、たった一文だった。
「可能性はゼロではない」
それはまるで、誰かに必死に言い聞かせるかのような——否、むしろ自分自身を説得しようとするかのような、歪んだ願望が滲み出ていた。
ウルリッヒは書類の束を手に取り、ざっと目を通す。
内容は生命工学と神秘学を掛け合わせた、極めて特殊な研究に関するものだった。遺伝子工学、人工的な意識の移植、生体融合理論……
(……何を考えてるんだ、アドラー)
焦燥感がこみ上げる。
ウルリッヒは周囲を見回した。
その時、ベッドの上に視線が止まった。
——そこには、布団に埋もれ丸くなったまま動かないアドラーの姿があった。
まるで、現実から逃げるように。
そして、その背中には、今までに見たことのないほど深い絶望が刻まれていた。
§
ウルリッヒは迷うことなく、アドラーの寝具へ手を伸ばした。
布団をかけずに寝ているというのならまだしも、彼の体は警戒心に溢れ布団に丸まっている。まるで、世界から身を隠すように——
いや、それどころか、現実そのものを拒絶しているかのような姿勢だった。
(……こんな状態で放っておけるわけがない)
ためらう理由はなかった。
一寸の躊躇もなく、ウルリッヒは布団を掴み、そのまま勢いよく引き剥がした。
「おはよう、アドラー。」
冷静な声とは裏腹に、動作は容赦なかった。
布団が剥がされた瞬間、アドラーの体が小さく震えた。
「……っ」
まるで、突然の侵入者に晒された小動物のように、身を縮こませる。
だが、それでも彼は目を開けようとはしなかった。
ウルリッヒはしばらく彼を見下ろしていた。
乱れた髪、やつれた顔。
昨日渡した水以外まともに食事を接種していないのだろう、頬はややこけて見えた。
唇は乾ききり、目元には深い隈が刻まれている。
それ以上に、ウルリッヒが気になったのは彼の呼吸だった。
浅く、不規則で、どこかぎこちない。
息をすることすら億劫に感じているような——そんな危うさがあった。
「……アドラー。」
ウルリッヒは静かに彼の名を呼ぶ。
何の反応もない。
呼吸以外の、生きているという実感すら感じられなかった。
「まさか、死んでいないだろうな?」
ウルリッヒは冗談めかした口調で言いながら、軽くアドラーの肩を叩いた。それでも反応はなく、ただ微かに震えるだけだった。
(これは……相当、まずい)
彼がここまで心を閉ざすなど、今までに見たことがない。
まるで、魂が抜け落ちたかのような虚無。
どこにも焦点が合っていない、空っぽな瞳。
ウルリッヒは息を吐くと、ベッド横に膝をついた。
「……ボクに何も言わないつもりか?」
当然、答えはない。
だがウルリッヒはそれを想定済みだった。
彼は視線を机へ向けた。
先ほど目にした、あの狂気的なまでの計算式と資料の数々。
アドラーはあの後、一晩中あれに没頭していたのだろう。何かを求め、何かを掴もうとし、しかしその先には何もなかった。
だからこそ、こうして現実を拒絶するように横たわっている。
(……何を探していたんだ、キミは)
その答えを知る術は、ウルリッヒにはなかった。
しかし——
「起きる気がないなら、強制的に起こすけど?」
そう言って、彼はアドラーの額に指を当てた。
指先から微かな静電気が弾ける。
「……ッ」
アドラーの眉がピクリと動いた。
それでも彼は、目を開けようとはしなかった。
ウルリッヒは、再び小さくため息をつく。
(なぜこれ程までに拒絶を?)
だが、ウルリッヒもまたこれで引き下がるほど甘くはなかった。
「ボクがここにいるという事は、もう観念してもいい頃合いじゃないか?」
言葉を投げかけながら、ウルリッヒはさらに強めの刺激を与えた。
今度は明らかに、アドラーの体がビクッと跳ねる。
「……っ、やめろ……」
それは、かすれた声だった。
ようやく、意識の奥底から引きずり出されたかのような——そんな、か細い声。
磁性流体は1寸も動かず、ただ静かに彼を見下ろした。
「おはよう、アドラー。」
その声は、優しさと冷徹さがない交ぜになっていた。
アドラーが重い瞼を開いた瞬間、部屋の中の空気がわずかに揺らいだような気がした。
ウルリッヒはじっと彼を見下ろす。
アドラーの瞳は焦点が定まらず、ぼんやりとしていた。
熱があるのかもしれない——いや、それ以前に彼の意識は正常とは言えなかった。
「……起きたな。」
ウルリッヒの声は静かだった。
しかし、それがアドラーの意識を現実へ引き戻すには十分なものだった。
アドラーは僅かに顔を歪め、枕に額を押し付けるようにして目を逸らした。
「……放っておいてくれ。」
まるで、声を出すことすら億劫だと言わんばかりの弱々しい口調だった。
ウルリッヒは一瞬だけ沈黙し、次に来る言葉を選ぶように息を吐いた。
「ボクがキミを放っておくとでも?」
それに対する返答はなかった。
ウルリッヒは微かに肩をすくめると、ベッドの端に腰を下ろした。
そして、アドラーの痩せた指先を見つめる。
握りしめた拳には力がこもりすぎていて、関節が白く浮かび上がっていた。
(……何を、そんなに抱え込んでいるんだ?)
そう問いただしたい気持ちを押し殺しながら、ウルリッヒはゆっくりとした声で話し始めた。
「キミが何を考えているのか、ボクは全部は分からい。でもこうやって一人で潰れそうになっているのを見ると……正直、腹が立つ。」
アドラーの指が僅かに動いた。
「……ボクたちは恋人だろう? キミが一人で勝手に苦しんで、こんな状態になるのは違うと思うんだが?」
そう言うと、アドラーは眉を寄せた。
そして、喉の奥で何かを押し殺すような音を立てたかと思うと、突然——
「——ッ、違う……っ」
掠れた声が漏れた。
その瞬間、アドラーの肩が震えた。
まるで堰を切ったように、浅い呼吸が波のように押し寄せてくる。
「……アドラー?」
ウルリッヒが磁性流体をひそめたその時、アドラーの呼吸が急激に乱れた。
「……ッ、く……はっ……」
異変に気づいたウルリッヒは、即座に反応する。
(まずい、これは――)
過呼吸だ。
「アドラー、落ち着いて。深く息を吸ってゆっくり吐くんだ。」
だが、アドラーの呼吸は加速するばかりだった。
酸素を取り込みすぎているせいで、逆に頭がクラクラしていた。
「……だめ……こんな、こんなはずじゃ……」
「アドラー」
「……ちがう、ちがうんだ……」
「アドラー、ボクの声を聞いて」
ウルリッヒは、そっと彼の肩を押さえた。
「ゆっくりでいい、深呼吸して。」
アドラーは歯を食いしばったまま、呼吸を整えようとするが——焦りがそれを邪魔していた。
「……できない……ッ」
「ボクが数えるから、そのリズムで息を吸って、吐くんだ。」
ウルリッヒは落ち着いた声で言った。
「1、2、3で吸って……4、5、6で吐く。」
「……っ」
「大丈夫、ボクがいる。」
そうして、数分後——ようやくアドラーの呼吸は、ゆっくりとではあるが落ち着きを取り戻し始めた。
彼の目には涙が滲んでいた。
「……すまん。」
震える声だった。
「何を謝っているのだ?」
ウルリッヒは静かに尋ねる。
アドラーは、伏せていた顔をゆっくりと持ち上げた。
「——俺は……」
彼は震える手で、自分の顔を覆うようにして、言葉を紡ぎ出した。
「ボクは……あんたとの子供が欲しい…。」
その言葉が落ちた瞬間、部屋の空気が止まったような気がした。
ウルリッヒは、ただアドラーを見つめる。
アドラーの声は、小さく、脆かった。
「……子供がいれば、俺は、俺たちは……」
ウルリッヒの手が、そっと彼の肩を掴んだ。
「……アドラー」
「……俺は、人間だから……あんたとは、生きる時間が違う……」
それは、今にも壊れそうな声だった。
「俺は……あんたを残して、先に死ぬ……」
「……」
「それが堪らなく怖い……」
アドラーの肩が震え、涙が零れた。
「俺は……俺は……あんたを独りにしたくない……」
まるで長年押し殺していた感情が、一気に溢れ出したかのようだった。
「子供がいれば……少しは、俺のことを覚えていてくれるかもしれない……俺がいなくなっても、あんたは独りじゃなくなるかもしれない……」
涙が頬を伝い、シーツに落ちる。
「だから、だから……!!」
ウルリッヒは、何も言わなかった。
ただ、そっと手を伸ばし、アドラーの肩を引き寄せた。
アドラーは抵抗することなく、ウルリッヒの胸に額を押し付けた。
ウルリッヒは、彼の背中をゆっくりと撫でながら、そっと囁いた。
「バカだな……キミは。」
アドラーの肩が、微かに揺れた。
「……ボクを独りにしたくないからって、そんな理由で……?」
「……」
「キミがいなくなった後のことなんて、キミは考えなくていい。」
ウルリッヒの言葉は、ひどく静かだった。
「でも……俺が死んだ後、あんたは……」
ウルリッヒは、それ以上言わせなかった。
「もういい、今日は何も考えなくていい。」
そして、優しく彼を抱きしめた。アドラーの肩の震えは、しばらく止まらなかった。
§
ウルリッヒの腕の中で震えていたアドラーの体が、突然びくりと跳ねた。
「——ッ、ぅ……」
かすかな嗚咽が漏れたかと思うと、アドラーは突然ウルリッヒを突き放し、布団を握りしめて身を折った。
「……っ、ぅ……おえ……っ」
肩が小刻みに震え、喉が何度も痙攣する。
ウルリッヒは瞬時に状況を察し、慌ててアドラーの背中を支えた。
「……アドラー!」
しかし、アドラーは応えない。
胃の奥からせり上がってくるものに必死に耐えながら、口元を手で押さえるが——
「っ……ぅぇ……っ!」
結局、何もかも堪えきれずに吐き出した。
胃の中にはほとんど何もない、だから出てくるのは胃液だけだ。
喉を焼くような酸味が鼻を突き、むせるような咳とともに滴り落ちる。
アドラーは苦しげに息を乱しながら、床に手をついた。
「……くそ……っ」
悔しげに呻きながら、浅い呼吸を繰り返す。
しかし、ウルリッヒは嫌悪も動揺も見せなかった。
ただ淡々と、布を取り出して床を拭き、アドラーの肩を優しく叩いた。
「ほら、口をゆすいで、」
そう言って、冷たい水の入ったカップを差し出す。
アドラーは震える手でそれを受け取り、口に含んで吐き出す。
何度か繰り返し、ようやく喉の奥の苦みが薄れたころ、ウルリッヒは立ち上がった。
「すぐ戻るから、ちょっと待ってて」
アドラーは何も言わなかった。
虚ろな目で、ただ乱れた床を見つめていた。
§
しばらくして、ウルリッヒは戻ってきた。手には、水の入ったボトルと、小さなパックが一つ。
——それを見た瞬間、アドラーは顔をしかめた。
「……マジかよ……」
ウルリッヒは構わず、パックをアドラーの前に置く。
″一日の食事″
「——クソが……」
一日分の栄養を補う最低限の食事。味は最悪で、できれば口にしたくない代物だ。
だが、今はそんなことを言っていられる状態ではない。
アドラーは渋々パックを開け、それを口の前に持ってくる。
「……最悪だ」
そう言いながら、一口含む。不快な食感と、どこか化学薬品っぽい味が舌に広がる。
それでも、ウルリッヒは何も言わずただ黙って見守っていた。アドラーは無言で食べ進める。味などどうでもいい。今は、とにかく何かを胃に入れなければならなかった。
喉を通るたびに、気持ち悪さが込み上げる。
だが、それでも口を動かし続ける。
ウルリッヒが黙って片付けをしているのが見えた。
——こいつは、何も聞かない。
それが今はありがたかった。
ようやく、パックの中身が空になったころ、アドラーは息を吐き、蓋を閉めた。
「……食ったぞ。」
ウルリッヒはゆっくりと頷いた。
「よくできました。」
それは、ただの言葉だった。
だが妙に温かく響いた。
ウルリッヒは、片付けを終えると静かにアドラーの前に腰を下ろした。
「……とりあえず、今日は寝ろ。」
淡々とした口調だった。
アドラーはわずかに眉をひそめる。
「は?」
「寝ろって言ってるんだ、アドラー。」
ウルリッヒは腕を組み、じっと彼を見据えた。
「キミ、まともに寝てないだろ?」
鋭い指摘だった。アドラーは無意識に目を逸らす。
ウルリッヒの言う通りだった。
ここ数日、いや、もっと前からろくに眠れていない。
考えすぎて、頭が冴えて、眠るどころじゃなかった。けれど、そんなことを素直に認めるのは癪だった。
「……別に、寝なくても大丈夫だ。」
「大丈夫なわけない。」
即答だった。アドラーは不機嫌そうに顔をしかめた。ウルリッヒは、ほんの少しだけ磁性流体を伸ばして、肩をすくめる。
「ボクは医者じゃないが、キミが今の状態で動き回るのが危ないくらいのことはわかる。」
「……」
「このままじゃ、体だけじゃなく、頭まで壊れるぞ。」
静かな声だった。
優しいわけではない。
けれど、突き放すわけでもない。
ただ、当たり前のことを言っているだけ。
それが、妙に心に響いた。
アドラーは、思わず唇を噛んだ。
——壊れる、か。
本当に、そうなのかもしれない。
このまま考え続けて、悩み続けて、出口のない迷路を彷徨って——
いっそ、何もかも終わってしまえば楽なのに。
そう思うこともあった。
ウルリッヒは、そんなアドラーの内心を見透かしたように、静かにため息をついた。
「キミが眠らないなら、ボクはここを動くつもりは無い。」
「……は?」
「寝るまで付き合うって言ってるんだ。」
ウルリッヒは当たり前のように言った。
「そもそも、キミが倒れたらボクの仕事が増えるんだからな。迷惑なんだよ。」
呆れたような口調。
けれど、それは本音ではないとアドラーはわかっていた。ウルリッヒは、ただ面倒だからここにいるわけじゃない。
アドラーがちゃんと休めるように、ちゃんと生きていけるように——
そう思って、こうして側にいる。
「——ちっ」
アドラーは舌打ちし、乱暴に布団を引っ張った。
「……わかったよ。寝りゃいいんだろ、寝りゃ!」
「そう、それでいい。」
ウルリッヒは微笑み、静かに頷いた。
アドラーはふてくされたように布団をかぶる。
だが、そのまま目を閉じると、驚くほど簡単に眠気が訪れた。
疲れきっていたのだと、今さら気づく。
まぶたが重い。
意識が遠のく直前、微かに思った。
——こいつ、マジでずるい。
こんな風に、何気ない言葉で人を縛る。
でも、それが今のアドラーには少しだけ、救いだった。
§
——後日——
アドラーが肩に感じた異変、それはまるで何かが目覚める瞬間のようだった。右肩タイプライターが震え、そこからじわりと流れ出すような奇妙な感覚。まるで何かが全身に広がるような感覚に、アドラーは息を呑んだ。
「なんだこれ?」
彼は肩の違和感に触れながら、それがただの違和感ではないことを理解し始めた。
しかし、どうして肩のコレがこんな状態に陥ったのか、その原因は全く分からなかった。信じられないことに、右肩タイプライターはウルリッヒと同じように変化している。その事実に恐怖を覚えると同時に、どこか興奮も感じていた。
「こんなこと、あり得ないだろ…」
アドラーは静かに呟きながら、肩に触れたまま固まってしまった。その時、突然、部屋のドアが開かれた。ウルリッヒだった。
「アドラー、大丈夫か?」
ウルリッヒの声には、明らかに心配の色が漂っていた。その顔を見たアドラーは、何も言えずただ黙ってうなずいた。ウルリッヒはその変化に気づくと、一歩踏み込んで近づいてきた。
「キミのタイプライター何が起きたんだ?」
その問いかけに、アドラーは言葉を詰まらせる。今何が起きているのかすら理解していなかった。右肩タイプライターが突然、ウルリッヒのように覚醒者になったことも、理解の範囲を超えていた。
「いや、わからない…」
アドラーの声はかすかに震えていた。ウルリッヒは彼の肩に手を置き、その変化をじっと見つめていた。
「これは…」
ウルリッヒは何か言いかけて、再び口を閉じた。その磁性流体には困惑と、何とも言えない不安が浮かんでいた。そして、思わず口から漏れたのは、予想もしなかった言葉だった。
「せ、責任に責任は取る」
ウルリッヒは顔を赤くしながら、動揺した様子で言った。自分が何を言っているのか分からないが、何故かその言葉が出てきてしまったのだ。
「責任、取るって…」
アドラーはその言葉に、ただ呆然とする。ウルリッヒが何を言っているのか、全く理解できなかった。ただただ、彼の言葉に対する困惑と共に「あ、あぁ」と返事をするしかなかった。
その返事にウルリッヒはさらに混乱したようだ。顔が真っ赤になり、うろたえながら「いや、でも、ボクちゃんと…」と続けようとしたが、言葉が出てこなかった。まさに、思いも寄らぬ事態に、二人とも全く予想していなかった反応を見せている。
「こ、これ…ほんとに、どうすればいいんだ?」
アドラーは困ったように肩をすくめた。今の右肩タイプライターの状態も、ウルリッヒの反応も、まるで理解できなかった。しかし、少なくともお互いに何かが起こったことだけは確かだった。
「ウルリッヒ何か知ってるのか? こんなこと、あり得るわけないだろう?」
アドラーは今度は少し強い調子でウルリッヒに問いかけた。ウルリッヒもその言葉にうろたえることなく、ただ頭をかきながら答えた。
「いや、ボクもわからない。でも、確かにそのタイプライターから意識覚醒者特有の意識体が……」
二人の間にはしばらく沈黙が流れた。その後、アドラーが口を開いた。
「なぁ、ウルリッヒ。これ、俺ら、どうすんだよ…?」
ウルリッヒは再び顔を赤くしながら、何も言わずにただ彼の肩を見守っていた。その沈黙の中、二人とも、この不思議な状況をどう受け入れればいいのか、全く見当がつかなかった。
しばらくして、ウルリッヒが少し気を取り直して言った。
「まぁ何だ、普通に意識覚醒者としてラプラスで雇われるだろうな。」
その言葉に、アドラーは少しだけ肩の力を抜いた。そして、ぼんやりと笑いながら言った。
「まぁ、確かに………」
そして、その瞬間二人の間に少しだけ安心感が広がった。どんなに混乱していても、二人ならば何とかなる。そう、心のどこかで確信していた。
§
その日のラプラスはまたもや忙しさに追われ、いつも通りの混乱と騒音が交錯していた。しかし、何かが違った。オフィスの一隅に座っているアドラーとウルリッヒの姿を見て、同僚たちの様子が何だかおかしくなっていたのだ。
彼らは明らかにいつもと違う空気を感じ取っていた。それは二人の間に何かが起こったことを示唆しているような気配だった。アドラーの顔にはまだわずかな疲れと混乱が浮かんでおり、ウルリッヒはいつもの冷静さを欠いていた。だが、それでも彼らの姿に同僚たちは何かを感じていたのだ。
そして、その違和感がとうとう爆発した。
「おぉ!お前たち、なんだこれ!」
同僚の一人が突然声を上げた。その声に周囲が振り向くと、何も知らない同僚が目を見開いて叫ぶ。すぐに他の同僚たちが集まり、その場に変な空気が漂い始めた。
「なんだよ!それ!!祝うべきことか? ほら、クラッカー!」
同僚iが声を上げ、周囲が一斉にクラッカーを引き抜いて鳴らし始める。その音は異様に大きく、耳障りなほどだった。しかし、誰もその音が気にならないように振る舞っていた。
「ウルリッヒ、お前、ついにやったな! 新しい家族だ!祝福しろよ!」
同僚iiがウルリッヒを肩を叩きながら叫ぶと、周囲の同僚たちも一斉に拍手を送り、アドラーとウルリッヒに向かって「おめでとう!」と声をかけ始めた。その声は、まるで本当に子供が生まれたかのような騒ぎを巻き起こしていた。
アドラーは呆然とし、ウルリッヒは何かを言おうとしたが、言葉が出なかった。彼らの間にはまだ多くの疑問と混乱が渦巻いている。しかし、同僚たちは何もかも気にせず、二人を祝福し続けた。
「これからも二人で頑張れよ! あんたらならきっといい家庭になるさ!」
同僚iiiが笑いながら言うと、他の同僚たちも賛同するように頷いていた。誰もが、この騒動が一時的なものではなく、真剣に祝福しているように見えた。
アドラーとウルリッヒは、ただその場に立ち尽くしているしかなかった。自分たちの身に何が起こったのか、そしてこの騒動がどこに向かうのか、全く理解できていなかった。
「いや、違うんだ…!」
ウルリッヒがようやく声を絞り出した。しかし、その声は周囲の騒音にかき消され、ほとんど意味を成さない。アドラーも混乱した顔をしながら、なんとか言葉を出す。
「ちょっと待ってくれ、俺たちの子供じゃなくて…!」
しかし、周囲はもはや聞いていない。むしろ、その反応がさらに拍車をかけ、祝福の輪は広がり続けた。同僚iiiが笑いながら「何だ、照れてるのか?」とからかうと、同僚iiが嬉しそうに頷き、「二人は確かに似合ってるわ!」と続けた。
その場の空気は、まるでまるで大切な何かが生まれたかのような温かさと祝福に包まれていた。そして、アドラーとウルリッヒはますます混乱しながらも、ただその状況を受け入れるしかなかった。
ウルリッヒは、祝福を受けるという言葉が今までにないくらいに重く感じられた。しかし、それでもその瞬間、彼は確かに感じていた。自分が何も分かっていないのに、周囲の人々が、無邪気にそして真摯に祝ってくれていることに、どこか温かさを覚えていた。
そして、何も分からないままで、二人と右肩タイプライターは職場での新しい「家族」としての一歩を踏み出すことになった。
§
メスメルとメディスンポケットは、オフィスの片隅でその光景を目撃していた。二人の顔に浮かんだのは、完全に理解を超えた混乱の表情だ。メスメルは自分の目を疑い、メディスンポケットは一瞬、無言で固まった後、両手で頭を抑えて深い溜息をついた。
「……何、これ。」
メスメルの声は低く、まるで自分がどこか違う次元に来てしまったかのような戸惑いを隠せなかった。彼女の水晶体越しに見える光景は、あまりにも現実離れしていて、頭の中で何度も反芻するも答えが出ない。
「——気味が悪ぃマジで気持ち悪いな。」
メディスンポケットは、手のひらで顔を覆い、目を閉じて、耳を塞ぐようにしてその場を見守っていた。今の状況がどういうことなのか、少し考えるだけで頭の中がぐちゃぐちゃになり、どうにも整理がつかない。彼の頭の中に鳴り響くのは、ただただ「まじキモ」という言葉だけだった。
周りの同僚たちが喜び、笑い、クラッカーを鳴らしている中で、二人はそれとは無縁の世界に立ち尽くしていた。
メディスンポケットは思わず、声を出して言った。
「これ、マジでどういう事だ? 何でアドラーとウルリッヒが…祝われてるんだ?」
メスメルは口を閉ざしたまま、どうしてもその答えを出すことができずにいた。確かに、アドラーとウルリッヒが恋人としてお互いに異常な結びつきを持つことはあり得るとしても、それがこのような祝福の嵐になる理由は全く分からなかった。
「…もしや、あのただでっかくて邪魔な右肩タイプライターが意識覚醒者になって、ソレが二人の子供扱い……と?」
メディスンポケットがようやく口を開くと、その言葉がまたさらに混乱を呼んだ。彼は思わず目を見開き、二人の様子をじっと見つめた。
「マジで気持ち悪ぃな。ここの奴らは全員気がおかしくなってるぞ、おい、メスメル!聞いているのか?」
メスメルはしばらく黙って考えた後、ようやく口を開いた。
「……私の仕事がまた増えるわ。リハビリセンターの人工夢遊装置、足りるかしら?」
二人は言葉を交わし合いながらも、その場に立ち尽くし続けた。クラッカーが鳴り響き、アドラーとウルリッヒを祝う声が遠くから響いてくる中で、彼らにはただその状況を受け入れるしかなかった。
メディスンポケットは手をひらひらと振って、冗談を言う気にもなれなかった。
「もはや笑うしかないのか。」
「——そうね。」
メスメルはすぐには答えられなかったが、ようやくその言葉を呟いた。その言葉が二人の現実を正確に表していた。
「マジで全員頭がやられてるのか。」
メディスンポケットは最後に呟き、メスメルと共にその場から離れた。どこかで怪訝そうにこの騒動を整理しなければならないのだろうと思いながら。