理想家を愛でる冷たい鉄の枷が、彼の手首を容赦なく固定していた。ベッドの両端に引っ張られ、細い手首はすでに包帯の上から擦れた跡を残している。白い包帯は所々血で滲んでおり、その中に隠された肌は、まるで触れたら壊れそうなほど脆く思えた。
理想家は、いつものように不安げに唇を噛んでいた。唇の端に刻まれた傷跡が、彼の過去を物語るように、少しだけ赤く滲んでいる。目元は包帯に覆われ、こちらを見ているのか、見ていないのかさえ分からない。ただ、息遣いだけが微かに緊張を伝えていた。
最初は身を強張らせていた。手を少し引こうとしたが、拘束具はそれを許さず、微かに鎖が軋んだだけだった。微かな苛立ちの気配が漂ったが、それ以上の抵抗はなかった。理想家はただ、小さく息を吐いた。
そっと、指先で包帯越しに彼の手を撫でた。ゆっくり、焦らず、包帯の下の肌を感じ取るように、優しく撫でていく。彼の手は細く、骨ばっているのにどこか柔らかい。包帯越しの温もりは微かなものだったが、それでも、確かに彼はそこにいた。
最初のうちは、その触れ方に戸惑っていた。息が少し乱れ、唇を噛む癖も治まらず、僅かに肩がこわばっていた。だが、ゆっくりと、撫で続けるうちに、次第にその緊張は薄れていった。
包帯越しの指先が、彼の指をなぞる。人差し指から、薬指へ、そして小指まで。何度も何度も、愛おしむように繰り返すたび、彼の指がほんの少しだけ力を抜いていくのが分かった。微かな温もりが、包帯越しに伝わってきた。
やがて、理想家の肩の力は完全に抜け、手首の周りの鎖もほとんど動かなくなった。彼の唇はかすかに開かれ、息は穏やかになっていた。包帯の下から漏れるその小さな吐息が、まるで子供のように安心しきっている証だった。
さらに、指先が彼の腕へと移る。包帯の隙間から肌のぬくもりを探すように、優しく、ゆっくりと撫で続ける。その動きは、まるで傷ついた心を撫でるようだった。理想家は、ほんの少しだけ首を傾けた。最初は小さく、けれど、だんだんと心地よさに身を委ねるように。
包帯に覆われた顔の向きが、無意識に撫でる方へと傾き始める。頭を撫でる手に気づいたのだろう。最初はほんの少し、触れるか触れないかくらいの距離だった。それが次第に、頭をそっと押し付けるようになり、体がベッドの上でわずかに力を抜いた。
撫でられるたびに、彼の息は次第に深く、穏やかになっていく。指が頭を優しく撫でるたび、彼の顔の下から漏れる吐息は甘く、緩やかなものになった。包帯越しでもわかる。彼の表情が、ゆっくりと和らいでいくのが。
「……ん……」
かすかに声が漏れた。震えるほど小さな音で、まるで夢の中で甘えるような響きだった。さらに撫で続けると、彼は完全に力を抜いて、枷で繋がれた手さえもほんのわずかに包帯越しの指を握り返そうとした。
そのまま、指先で額を撫で、包帯越しの頭をゆっくりとなぞる。額からこめかみ、耳の後ろへと、繊細に触れるたび、彼の呼吸はさらに深く、安らかになっていく。
「……ん……ぅ……」
再び、小さな声が漏れた。甘えるように、どこか名残惜しそうなその声は、まるでもっと触れてほしいと訴えているようだった。指を止めることができなかった。ゆっくりと、頭を撫で続けると、彼の頭は完全にこちらへと寄せられていた。
ぽわぽわ、とろとろ——。
それは、理想家の心の奥底までほぐれていくような感覚だった。まるで、冷たく凍りついていた心が、ほんの少しずつ、ぬくもりに包まれて溶けていくような——。
枷に繋がれ、自由を奪われたその身が、それでも、触れられるぬくもりに安心している。頭の奥でアレフの名を呼ぶこともなく、ただ、ぽわぽわとした感覚に溺れていた。唇の傷跡さえも、ほんの少し和らいだように見えた。
もう、理想家は何も言わなかった。ただ、包帯の下で、安らかな吐息だけを漏らしていた。
理想家の頭を撫で続けていると、包帯越しの顔が少しずつ熱を帯びていくのが伝わってきた。
「ん……んん……?」
微かに漏れる声は、どこか戸惑っている。それでも理想家の体は逃げようとせず、むしろ枷に繋がれた手首の力が次第に抜けていった。
額からこめかみ、耳の後ろへと指を這わせると、理想家の呼吸がふっと浅くなる。包帯越しでも分かるほど、体温がわずかに上昇していた。
「ん……なんか……変……」
小さく呟く声は弱々しい。頬に手を添え、親指で優しく撫でると、理想家はまるで磁石に引き寄せられるように顔を傾けてきた。
そのまま額から指を滑らせ、後頭部へと手を移す。包帯の下の柔らかい髪を撫でていると、理想家の体はびくりと震えた。
「っ……あ……?」
戸惑いを含んだ声が漏れたが、すぐに押し黙る。手のひらが髪をゆっくり梳いている間に、理想家の首筋からわずかに汗の香りが立ち上った。
それと同時に、ふわりと甘い香りが空気に混じった。
アロマ?
思い当たるものはなかったはずなのに、部屋の中にほんのり漂う香りは、まるで蜂蜜に似た優しい甘さだった。それが理想家の体から発せられているわけでもないはずなのに、不思議なほど周囲に広がっていく。
「ん……はぁ……なんか……あったかい……?」
理想家の声がわずかに掠れた。さっきまでよりも明らかに息が浅く、微かに震えていた。手首を縛る枷は変わらず冷たい鉄のはずなのに、理想家の指先は熱を帯びているかのようにぴくりと痙攣した。
包帯越しに触れる手は、僅かに湿っていた。
「……ん、んぅ……?」
耳の後ろを撫でると、理想家は小さく身を震わせる。今度は自分でも何が起きているのか分からないのか、困惑するように頭をかすかに振った。でも、その動きはすぐに止まった。
「は……ぁ……んん……」
理想家の息遣いが明らかに変わってきた。吐息が熱を帯び、ほんの少し荒くなっている。手を動かしているだけなのに、理想家の体の神経がどんどん敏感になっていくのが伝わってきた。
撫で続ける手を首筋へと滑らせると――
「っ、ん……!?」
理想家はピクッと体を震わせ、思わず枷を軋ませた。けれど、力が入らないのか、腕はすぐに弛緩してしまう。
「あ、あれ……なんか……ピリピリ……?」
首筋から肩へと指を這わせると、理想家の体は僅かに反応する。神経が過敏になっているのか、まるで微かな刺激でも電流が走ったように痙攣した。
「ふ、ふぁ……ん……」
吐息が熱っぽくなり、理想家の喉から漏れる声は、明らかに甘さを帯びていた。
アロマの香りがさらに強くなり、理想家の体の中に広がっていくかのようだった。
「んん……ぽわぽわ……トロトロする……」
小さな声でそう呟くと、理想家は完全に力を抜き、包帯越しの顔をこちらへすり寄せてきた。
撫でられるたびに、理想家の体はピリピリとした感覚に溺れていくようだった。
「……ふぁ……ん……もっと……友人……」
枷に繋がれたままの理想家は、熱っぽい吐息を漏らしながら、全てを預けていた。
理想家の首筋をゆっくりと撫でていると、彼の体がビクリと大きく震えた。
「んっ……んぁ……?」
僅かに震える唇から漏れる声は、どこか戸惑いを含んでいた。それでも手は止めず、指先でさらに優しく、首筋から肩へと指を這わせる。
「……っ、あ……!」
理想家の体が明らかに強張った。包帯越しの目元は見えないはずなのに、彼の顔が一瞬ぎゅっと歪んだのが分かった。
「……ま、待って……!」
声は弱々しかったが、はっきりと拒絶の色が滲んでいた。それでも撫でる手は止まらない。
「や、やめ……そ、そこは……!」
肩から鎖骨、胸元へと手が滑ると、理想家の体は大きく震えた。
「や、だめ……!あ、あ///おかしくなる……!」
理想家は必死に声を絞り出した。包帯に覆われた指先が枷を軋ませながらわずかに動く。でも、拘束具に繋がれた手首は逃げることができない。
「そ、そんな……そこは……だめ……だめだってばぁ……!」
声が少しずつ震え始める。体は明らかに過敏になっていて、触れるだけでビクリと反応する。
「ア、アレフ!アレフ!!」
理想家は必死にその名を呼んだ。
「アレフ!助けて……っ、んん……!」
包帯越しの顔が左右に激しく振られる。でも、その声が届くはずもない。
「んんっ……だ、だめ……!」
必死に枷を引っ張って逃れようとするが、腕は縛られたままで、か細い力ではどうすることもできない。
「アレフ……アレフ……っ!」
声が涙に濡れ、理想家は必死にもがく。枷に繋がれた手は次第に力を失い、体も次第に抵抗を諦めかけている。それでも撫でる手は止まらない。
「んぁ……や、やだ……おかしくなる……!」
理想家の声は震え、次第に泣きそうな響きが混じってきた。
「や、だめぇ……アレフ……アレフぅ……」
涙交じりの声は次第に弱くなり、理想家の体はじわじわと力を抜いていく。
「……ん、んぅ……も、もう……いや……」
それでも撫で続ける手は止まらず、理想家の神経を容赦なく撫でていく。
「……あ、ぁ……んん……」
理想家の体は最終的に震えながら、完全に力を失った。包帯越しの目元は濡れているはずなのに、すべてを受け入れるしかない状態になっていた。
「んん……ぁ……」
——乾いた音が響いた。
理想家の世界が、一瞬で白に染まった。
頬に直撃した衝撃。
それは単なる痛みではなく、骨の芯まで叩き割るような、破壊的な一撃だった。
「……ッ!」
頭が横に跳ね、包帯の隙間からかすかに息が漏れた。
理解が追いつかない。
何が起きたのか、なぜ殴られたのか——
理想家にはまるで分からなかった。
鼓膜の奥でまだ余韻が響いている。脳が衝撃に揺さぶられ、思考が霧のように曖昧に散っていった。
「……っ……?」
唇が震える。
古傷の痛みが蘇る。
ひび割れた唇の端が再び裂け、鉄の味がじんわりと広がった。
「……ゆ……」
声はかすれて、息の音に埋もれて消えた。
理想家は唇を舐めるように動かしながら、ようやく言葉を紡いだ。
「……ゆ、友人?」
——困惑と恐れに満ちた声だった。
彼は何も分かっていなかった。
なぜ殴られたのか。
何を間違えたのか。
どうして、どうしてこんなことに——
しかし、その疑問に答えは返ってこなかった。
次の瞬間、冷たい液体が鼻の奥に流れ込んだ。
「……っ?」
理想家は本能的に鼻をすする。だが、遅かった。
——赤い筋が、ゆっくりと鼻から垂れ落ちた。
鼻血だ。
ぽた、ぽた、と血の雫が床に落ちる音が、やけに大きく響いた。
「……ぁ……」
理想家は、ただ呆然とするしか無かった。
理解できなかった。
防御本能すら当然の衝撃に苛まれたのだ。
——だが、その時。
柔らかな感触が、彼の鼻先に触れた。
温かく、滑らかで、そして優しい。
「……っ?」
理想家は息を呑んだ。
鼻血が、舌でそっと舐め取られている。
理想家の頬はまだ殴打の余韻で痺れていた。だが、その痛みを忘れさせるほどの——奇妙な安堵感が広がっていった。
舌はゆっくりと、慎重に、まるで慈しむように血の跡をなぞった。
「……ぁ……」
理想家は声も出せなかった。
鼓動だけが早鐘のように鳴り響き、拘束された体は小さく震え続けていた。
——鼻血をすべて舐め取ったあと、
再び、手が彼の頭を撫でた。
理想家の包帯に覆われた頭を、まるで子供をあやすように、そっと撫でていく。
優しい。
それは先ほどの暴力と同じ手ではないように思えるほど、温かく、穏やかだった。
「……ぁ……」
理想家は理解できなかった。
殴られた痛み、血の匂い、そしてこの優しさ。
「……友……人?」
かすれた声が、震えながらその名を呼んだ。
しかし、答えはない。
頭を撫でる手は、変わらぬ優しさで、ただ理想家を慈しむように触れていた。
——理想家は、何も理解できなかった。
だが、彼の心の奥にある何かが、そっと壊れ始めていた。