泥沼試合ウルリッヒの義体の手が、アドラーのタートルネックを掴んだ瞬間、部屋の空気が一気に張り詰めた。磁性流体の本体がウルリッヒの頭上でざわめき、黒い波紋を描きながら不規則に形を変える。感情が昂ぶると、流体の動きが荒々しくなるのは、周囲の誰もが知るところだった。
「キミというやつは、いつもそうだな。」
ウルリッヒの低い声が響く。握り込まれた布地がきしむ音とともに、タートルネックが引っ張られ、アドラーの喉元に皺が寄った。
「は? 何がだよ。」
アドラーはいつもの調子で鼻を鳴らし、気怠げな目つきでウルリッヒを見下ろす。
「とぼけるな。」
「いや、マジでわかんねぇんだけど。」
「皮肉を言えば全てをやり過ごせるとでも思っているのかね、アドラー?」
ウルリッヒの指先がさらに力を込める。タートルネックの生地がさらに引っ張られ、首元がだらしなく伸びていく。アドラーの肩がわずかに引かれ、身体が前傾する。
「いちいち絡んでくんなよ、面倒くせぇな。」
アドラーが舌打ちしながらウルリッヒの手を払いのけようとしたが、ウルリッヒの義体はその動きをものともせず、逆にぐいっと胸元を引き寄せた。
「ふざけるな。」
「そっちこそ、いい加減離せっての!」
アドラーもついに我慢の限界が来たのか、ウルリッヒの腕を掴んで振りほどこうとする。だが、ウルリッヒの義体はラプラス製の高性能義体だ。生身の人間が引き剥がせるはずもなく、むしろウルリッヒの力を込める動作に呼応するように、アドラーのタートルネックがさらに伸びていく。
ビリ……。
嫌な音がした。
アドラーが一瞬、目を丸くする。ウルリッヒも磁性流体の動きを一瞬止めた。二人の視線が、伸びきったタートルネックへと向かう。
「……おい、」
「……あっ」
アドラーの鎖骨が完全に露出している。それどころか、布がでろりと伸びすぎて、胸の半分ほどまでがはだけてしまっているではないか。
アドラーはウルリッヒを睨んだ。
「なぁ……お前、俺の服、今、完全に死んだよな?」
ウルリッヒの磁性流体がざわめき、不規則に波打つ。やや狼狽している証拠だった。
「……キミが悪い。」
「は?」
「キミが無駄に高身長だから、服の生地が負けたのだよ。タートルネックに罪はない。」
「……はぁ?」
アドラーのこめかみがピクリと跳ねる。
「俺のせいにすんなや、この流体野郎。」
「ボクは事実を述べただけだ。」
「事実だったら何言っても許されると思ってんのか?」
「当たり前だろう?」
「お前、マジでぶん殴るぞ。」
「やれるものなら、やってみたまえ。」
「上等だ、クソが。」
アドラーがウルリッヒの襟を掴み返し、二人は完全に取っ組み合いの状態に突入した。ウルリッヒの義体の制御機構が作動し、余計な力が働かないようになっているが、それでもアドラーの引きはがそうとする手に逆らうように動く。
「ったく、離せっての!」
「キミこそ、ボクの襟を掴んでいるだろう!」
「お前が先に掴んだからだろ!」
「因果関係を整理したまえ!」
「うるせぇ!」
二人はもみ合いになりながら、ついに部屋のテーブルへと雪崩れ込んだ。資料がばさばさと床に散らばり、ウルリッヒの磁性流体が弾けるように揺れる。アドラーが片膝をつきながら体勢を立て直し、ウルリッヒを押し返す。
しかし、ウルリッヒはすぐに体勢を整え、アドラーのタートルネックをもう一度掴んだ。
「……まだ掴むか!?」
「キミのタートルネックは掴みやすい形状をしているのだよ。」
「マジで黙れ。」
「キミこそ。」
そして——。
ビリッ!
とうとう、タートルネックが完全に裂けた。
ウルリッヒは少しだけ手を緩めた。アドラーの胸元は完全に露出し、引きちぎられた白い布がだらしなくぶら下がっている。
ウルリッヒの磁性流体が困惑するように揺れた。
「……ああ……やってしまった……」
アドラーはゆっくりと深呼吸し、青筋を立てながらウルリッヒを睨みつけた。
「……お前、今すぐ、俺の服を元に戻せ。」
「ボクにそんな芸当ができると?」
「できねぇなら新しいのを持ってこい。」
「ボクの手先の器用さを侮辱するのかね?」
「お前の裁縫を信用できるやつなんかいねぇよ!」
「……ボクが補償しよう。」
「現金で頼む。」
「交渉の余地はないのかね?」
「ねぇよ!!」
その後、二人はようやく取っ組み合いをやめたものの、部屋の中は完全な戦場のようになっていた。アドラーのタートルネックは無残にも引き裂かれ、ウルリッヒの義体の袖口にはしわが寄り、磁性流体はまだ微妙に揺れている。
数秒の沈黙の後、ウルリッヒがぽつりと呟いた。
「……ところでキミ、裸のままではないか。」
「お前のせいだろうが!!」
アドラーは深く息を吸い込み、額に指を押し当てた。引き伸ばされたタートルネックの残骸が、まるで役目を終えた抜け殻のように肩からぶら下がっている。
「……なぁ」
アドラーは低く呟く。
「ん?」
ウルリッヒはまるで自分のことではないかのような顔をして、磁性流体をふわふわと揺らめかせた。
「お前、これ、どうしてくれんの?」
アドラーは自分の胸元を指差した。そこには、露わになった大胸筋とうっすらと浮き出る腹筋。通常ならばタートルネックの影に隠れているはずの肌が、容赦なく晒されている。
「キミのその無駄な高身長が悪いのでは?」
「まだ言うか、お前……!」
アドラーはぐっと拳を握りしめ、思わずウルリッヒの義体の胸ぐらを掴もうとする。しかし、ウルリッヒはすかさず後退し、義体の精密な動作で器用にアドラーの手をかわした。磁性流体が楽しげに波打つ。
「まったく、キミは短気だね。」
「誰のせいだと思ってんだよ……」
アドラーは溜息をつき、伸び切ったタートルネックの裾を引っ張る。だが、もはや服としての機能を果たしておらず、ちょっと力を入れただけで肩の部分がだるんと下がった。
「……あー、くそ。もういい。上着を羽織る。」
アドラーは椅子の背にかけていたロングコートを手に取り、肩に羽織る。だが、ボタンを留めるのも面倒だったのか、そのまま前を開いたままでいる。ちらりと覗く肌が妙に無防備に見えて、ウルリッヒは磁性流体を微妙に揺らした。
「なんだよ。」
「いや、キミは案外筋肉質なのだな、と思ってね。」
「お前なぁ……」
アドラーはこめかみに手を当て、心底疲れたように頭を振る。
「……それより、お前、俺のコーヒー淹れてこいよ。」
「は?」
「お前が俺の服を台無しにしたんだから、せめてそのくらいしろ。」
「ボクは悪くないと言っただろう?」
「悪いに決まってんだろうが!!」
アドラーの怒鳴り声が響く。ウルリッヒは磁性流体をくるくると渦巻かせ、仕方なさそうに肩をすくめた。
「仕方がないな……まぁ、ボクのコーヒーの腕をもってすれば、キミの機嫌もすぐ直るだろう。」
「別に直す必要はねぇんだけどな。」
「ならばなぜ要求する?」
「そりゃ、お前のコーヒーはうまいからだよ。」
アドラーは素直でない口調のまま、椅子にどかっと腰を下ろした。ウルリッヒはその様子を眺めながら、すっとコーヒーメーカーの方へ向かう。
「仕方がない。特別に、最高の一杯を淹れてやろう。」
ウルリッヒが軽やかに言う。アドラーはふんと鼻を鳴らしながらも、ロングコートの襟を少しだけ直して、まだ伸びきったタートルネックの名残を気にしていた。
こうして、平衡傘部門のトップ同士の取っ組み合いは、またも無益な消耗戦として終焉を迎えたのだった。
§
翌朝、平衡傘部門のオフィスに入った瞬間、アドラー・ホフマンは深々と溜息をついた。
「……あー、クソ」
昨夜、ウルリッヒに引き伸ばされたタートルネックは、もはや布の束と化していた。着るにはあまりにも無惨な姿になっており、仕方なく新しいシャツを着てきたが——
それでも納得がいかない。
というのも、昨夜のウルリッヒの態度があまりに無責任だった。服を破った張本人のくせに、「ボクは悪くない」としれっと言い切り、挙げ句の果てには「キミの無駄な高身長が悪いのでは?」などと戯言をぬかした。
「……クソッ、思い出しただけでムカつく。」
アドラーはガリガリと頭をかきながらデスクへ向かった。
その時——
「おはよう、アドラー」
のんびりとした声が部屋に響いた。
その声を聞いただけで、アドラーのこめかみがピクリと跳ねる。
「……ウルリッヒ」
振り向くと、ウルリッヒがいつもの白いぴっちりとしたスーツ姿で立っていた。磁性流体の本体は、彼の頭上でふわふわと揺れながら、なめらかに波打っている。
昨日と何一つ変わらない、涼しげな顔。
「どうしたんだい? 今朝はやけに仏頂面だな。」
ウルリッヒはくすくすと笑いながら、自分のデスクへ歩いていった。その余裕たっぷりな態度に、アドラーは拳をぎゅっと握る。
「お前のせいだろうが。」
「何のことだい?」
「この服だよ、服!!」
アドラーは新しく着てきた白いタートルネックの襟を引っ張りながら、ウルリッヒを指差した。
「お前が昨日俺の服をでろでろに伸ばしたせいで、仕方なく新しいのを着てきたんだぞ!」
「おや、それは気の毒だったねぇ」
ウルリッヒはまったく悪びれる様子もなく、磁性流体をくるくると円を描くように動かした。
「でも、ボクはあくまで正当防衛だったと思うが?」
「はあ!? どこがだよ!!」
「キミが先にボクの義体に手を出そうとしただろう? だから、ボクはキミを抑え込んだだけだ。」
「それで俺の服をでろでろにしたのか?」
「キミが抵抗するからだよ。」
ウルリッヒは肩をすくめ、まるで「ボクは何も悪くない」とでも言いたげな表情を浮かべる。
アドラーは血管が切れそうな勢いで額を押さえた。
「……お前なぁ……」
「まあまあ、怒るなよ、アドラー」
ウルリッヒは気楽な調子で言いながら、ひょいと立ち上がった。
「そうだ、昨日のお詫びに、今日はボクがコーヒーを淹れてやろう。」
「……昨日も淹れたよな?」
「何か問題でも?」
「いや、別に」
アドラーはため息をついた。確かにウルリッヒの淹れるコーヒーは美味い。それだけは認めざるを得ない。
ウルリッヒはカップを二つ手に取り、コーヒーメーカーに向かった。磁性流体が僅かに揺らめきながら、静かに彼の周囲を漂っている。
アドラーは椅子に腰を下ろし、腕を組みながらウルリッヒの動きをじっと見つめた。
「……お前さ、」
「なんだい?」
「本当に、俺の服を台無しにしたこと、悪いと思ってんのか?」
「もちろん。」
「……絶対思ってねぇだろ」
「ふふ」
ウルリッヒは楽しげに微笑み、コーヒーを一杯ずつ丁寧に注ぐ。
「まぁ、キミが機嫌を直すまで付き合ってあげるよ。」
「はぁ……もういい。とっととコーヒー持ってこい。」
アドラーは椅子の背に体を預け、ぼそりと呟いた。
結局、どれだけ喧嘩をしても、こいつとはこんな調子なのだ——。