鬱っぽいラプラス本部の夜は、冷たく静かだった。空調が低く唸る音と、遠くで機械が作業を続ける規則正しい音が、静寂の底に小さく波紋のように広がっている。
きっかけは些細なことだった。業務用のコンソールを囲んで、冗談交じりに肩をぶつけ合って、いつものように口喧嘩をして、そして——そのまま、不意にハグをした。
それは、どちらが先に手を伸ばしたのかも曖昧なほど、唐突なもので。だが確かに、その瞬間、互いの距離は、今までになく近かった。
「……なんだよ、この体温のなさ。」
アドラーは小さくつぶやいた。無意識に、ウルリッヒの胸のあたりに顔を寄せていた。額が触れ、耳が密着するほどに。
ぴたり、と密着した義体の奥から聞こえてくるのは、人間の持つ心臓の鼓動ではなかった。
低く、回転するモーター音。
圧をかけて流体を送る、規則的なポンプの駆動音。
そこには、“生きている”と感じられるような温もりも、どくんどくんと皮膚を打つ鼓動もなかった。
ただ、精密機械としての”生命維持”が、冷たく静かに機能しているだけだった。
「……」
アドラーは息を殺すように、耳を離さないまままぶたを閉じた。
(ああ、そうだったな)
何を今さら、と自嘲のように思う。
義体のことは知っていた。ウルリッヒが人間でないことも、意識覚醒者であることも。
最初から、知っていた。
だがこうして——こうして触れて、音を聞いて、改めて思い知らされる。
(やっぱり、こいつは……“あっち側”の存在なんだ)
自分は人間だ。
神秘学も、神秘術も使えない。
どれだけ理論に食らいつこうと、実践の門は開かれない。
限界がある。生物として、遺伝子として、ただの”人間”なのだ。
(オレは、こいつと同じ場所には……立てねぇ)
ふと湧き上がる、理屈じゃない感情があった。
醜い嫉妬。
悲しい焦り。
埋められない距離を認識した絶望。
ウルリッヒの寿命は、明らかに長い。
自分より遥かに。
理論上、アドラーが年老いて、死に至るそのときも、ウルリッヒはほとんど変わらぬまま、生き続ける。
けれど——皮肉にも、ウルリッヒの行動は、いつもその寿命と正反対だ。
危険に突っ込み、ストームの真理を解き明かそうとし、必要とあらば自らの命すら差し出す。
何度も、あいつの命の灯が揺らぐところを見てきた。
(……結局、どっちが先に死ぬかなんて、分かんねぇんだよ)
“一緒に”なんて、できる保証はどこにもない。
「アドラー?」
ふいに、ウルリッヒの声が落ちてきた。
音に籠もった柔らかな磁性流体が、頭上でわずかに揺れる。
その感触が、アドラーの思考を引き戻す。
気がつけば、ウルリッヒの指が、自分の髪にそっと触れていた。
繊細な手袋を外した義体の指が、まるで壊れものに触れるように、優しくアドラーの髪を梳いてくる。
あの無機質な音のする体が、今はやけに、あたたかく感じられるのが癪だった。
「どうしたんだい? キミ、すごく静かじゃないか。」
「……なんでもねぇよ。」
「嘘だね。」
やけに断言するその声音に、少しだけ苛立って、少しだけ泣きたくなる。
だがアドラーはそれを声に出さない。ただ静かに、目を伏せる。
(なんでお前は、そんな顔でこっちを見るんだ)
何も知らないくせに。
何も感じてないくせに。
お前は、永く生きて、俺を忘れて、ある日ぽつんと笑っているんじゃないか。
アドラーの喉の奥がひゅっと鳴る。
声にならない思いが積もっていく。
ウルリッヒは、何も言わないまま、ただ優しく、指先を繰り返し髪へ滑らせていた。
心臓のない義体の胸に抱かれながら、それでもアドラーの鼓動だけが、苦しげに、叫ぶように響いていた。
§
そのまましばらく、ふたりの間に言葉はなかった。
ウルリッヒの義体の手が、静かにアドラーの髪を撫でるたび、鉄と静電気の匂いが鼻をくすぐる。冷たいはずの金属の指先が、何故だかぬくもりに似た感触を残していくのが悔しかった。
「……なあ」
唐突に、アドラーが口を開いた。
声は少し掠れていた。自分でも、情けないと思うような響きだった。
「おまえってさ、本当に、なんかずるいよな。」
「……え?」
ウルリッヒの返答は、いつも通りの無垢な問い返しだった。
彼には、悪意も打算も、きっとない。
ただ、自分の心情が読み取れないだけだ。…あるいは、読み取れすぎて、気づかないふりをしているのかもしれない。
「なんでも持ってんじゃん、お前。頭も良いし、身体も強いし……そのうえ、死なねぇし。」
アドラーはそう言いながら、義体の胸に額を押し当てる。
耳の奥でモーター音が回り続けていた。
生の音じゃない。血が巡る音じゃない。ただの、機械の動作音。なのに、やけに近くて、やけに遠かった。
「俺なんてただの人間だ。神秘学の理論は覚えられても、使えやしねぇ。ストームにも適応できない。身体能力だって人並みだし……おまけに、寿命もおまえよりずっと短い」
「……」
ウルリッヒは、ただ静かにアドラーを抱きしめたまま、何も言わなかった。
その沈黙が、優しさなのか、それとも理解できないだけなのか——アドラーには、もう分からなかった。
「……おまえが死ぬなら、それは勝手だって思えるけどよ。もし、俺が先に死んだら……」
そこで言葉が詰まった。
喉が焼けるように熱くなって、唇が震える。
「おまえは、きっと何も変わらねぇんだろうなって、思うとさ。……なんか、たまんねぇんだよ。」
それは、悲しみだったのか。
悔しさだったのか。
それとも、自分だけが“生きている”ということへの恐れだったのか。
その全部だったのかもしれない。
ウルリッヒは、ようやく動いた。
少しだけ腕に力を込めて、アドラーの身体を引き寄せた。
義体の胸が、冷たい機械音を立てながらも、包み込むようにアドラーを支えていた。
「アドラー。ボクは……キミのことを大切に思ってるよ。」
「……ああ、知ってるよ。」
「キミが生きてる限り、ボクはキミの隣にいるし、キミが望むなら、ずっと守る。もし、キミがいなくなったら……きっとボクは、とても悲しいと思う。」
「“思う”、かよ。」
皮肉げに笑ったアドラーに、ウルリッヒはすこしだけ困ったような表情を見せた。
「ボクの感情は、ホルモンによるものじゃない。定義も、反応も、キミたちと違う。それでもね……キミを抱きしめると、少し胸が苦しい気がする。たぶん、それが“悲しみ”ってやつなんじゃないかと思ってる。」
アドラーはゆっくりと顔を上げた。
照明の下、ウルリッヒのヘッドタンクは相変わらず飄々としていて、中では磁性流体がうようよと動き続けていた。
(……なんだよ、それ)
思わず涙がこぼれそうになって、慌ててまぶたを閉じる。
ウルリッヒの腕は、何も変わらず、ただ優しくアドラーの背を撫でていた。
埋まらない。
どうやったって、埋まらない隙間だ。
けれど——今だけは、それでもよかった。
せめてこの夜くらいは、音のしない心臓の前で、ただ静かに“ぬくもり”を偽装していたかった。