ロッカー背後から聞こえる足音は、確かに”探している”音だった。規則的すぎるそれは巡回ではない。意図的に、粘っこく、じわりじわりと、追跡のリズムを刻んでいる。
金属音が近づいた瞬間、アドラーはウルリッヒの腕を掴んで強引にロッカーへと引きずり込んだ。ガコンと鈍い音を立てて扉が閉まり、急場しのぎの避難が完了する。だがそこからが本当の地獄だった。
狭い。いや「狭い」などという言葉では到底表現が足りない。2人で入ることなど設計段階で想定されていない古い型のロッカーだ。ウルフヘアーの毛先が金属の壁に押しつぶされ、アドラーの首が天井の鉄板に圧迫されている。
「……おい、ウルリッヒ。アンテナ……目に刺さるだろうが。」
低く、息を殺した声でアドラーが囁く。その眼前には、ぴくぴくと微細に揺れる集音器のアンテナがあり、瞬きするたびに恐怖が走る。
「ん?あぁ、しゃがもうか。」
ウルリッヒは義体の構造に従って静かに姿勢を落とす……が、どうにもスペースが足りない。結果、ウルリッヒの義体の腰がアドラーの膝に乗るような形になり、そのままギシリと重量がかかる。
「……お前、座ってる……」
「うん?まあ、物理的にこうなるのは当然だろう?文句は設計者に言うべきだよ。」
「俺の膝の耐久度、軍用じゃねえんだけどな……」
アドラーは内心、吐き捨てたい気分だった。だが外にいる“何か”の気配は、確実にこちらを探している。吐息一つが致命的になるかもしれない緊張感。何かが金属の壁をコツン、と叩く音に、神経が爪で削られるような感覚を覚える。
その時、不意にアドラーの下腹部に微かなチリリ、という刺激が走った。
「……っ、なあウルリッヒ。今、なんか当たったんだが。」
「電気だよ。念のために思考電流をチャージしてるのだよ。」
「何チャージしてんだよ……っ。静電気が……くすぐった……!」
「静かにしたまえ、アドラー・ホフマン。万一の時、ボクがキミを守るために必要な処置であってだな。」
「せめて……もう少し……内側に溜めるとかできねえのか……下腹部ってお前……っ!」
アドラーは顔を引きつらせながら、息を呑んだ。外では何かが立ち止まり、ロッカールームの中にじっと耳を澄ませているような気配がした。
ウルリッヒの磁性流体が、静かに振動しているのがわかる。それはまるで不安が形になったように揺れていた。
「……聞かれてないよな……今の……」
「ボクは最善を尽くしている、アドラー。」
「お前な……もう一発下っ腹来たら、俺が騒ぐぞ。」
「それは困る。」
外の足音が、一歩だけ近づいた。2人は同時に息を止めた。重なる呼吸音すらも殺し、わずかに触れ合う額の熱だけが、生きている証のように感じられた。
死と隣り合わせの緊張が、じわじわと、濃度を増してロッカーの中を支配していく。アドラーの汗が首筋をつたうたびに、ウルリッヒの膝がかすかに動き、またあのチリリというくすぐったさが襲う。
こんな状況でくすぐったいとか、気が狂いそうだった。
(まじで、こいつのせいでバレたら——)
ギリ、と歯を食いしばったアドラーの指が、ウルリッヒの裾を握っていた。
ウルリッヒはそれに気づいたが、黙っていた。磁性流体がそっと、ほんの小さく震えた。
ロッカーの外では、まだ“それ”が、息を潜めている。
空気が、異様に重たい。
ロッカーという密室がこれほどまでに”生きたままの棺”のような圧を持つとは、アドラーも想像していなかった。肩が、首が、膝が、全ての関節が軋む。だが一番重たいのは、外に立つ”それ”の存在だった。
床板を隔てた向こう。何かの靴音が止まった。
「……動いてねえな。」
アドラーは唇だけで呟いた。喉の奥が粘つくような乾き方をしていた。
「じっと……耳を澄ませているようだね。音を立てたら、終わりだよ。」
ウルリッヒが、静かに答える。声のトーンは一定して落ち着いている。だがその声音の奥に、研ぎ澄まされた神経の色が透けていた。
アドラーの両膝に、ウルリッヒの体重がじんわりとのしかかっている。義体のくせに地味に重い。しかも、例の集音用アンテナがまだ目の数センチ前にあって、少しでも頭を動かせば角膜が切れそうだった。
その上──
「……また当たったぞ」
「何が?」
「お前のその、充電。下っ腹にチリッて来てんだよ。なんなんだよ、マジで……!」
「仕方ないだろう。放電量は最小限に調整している。むしろボクの制御がなければ、今頃その腹が焦げてる。」
「焦げるなら、てめぇのケツで先にやれっての……っ、くすぐった……!」
「我慢したまえ。キミの体格なら、誤差の範疇のはずだろう?」
「体格関係ねぇ……どこ当たってんのか分かってて言ってんのか……っ」
そう呟いた直後だった。
ギィ……と、ロッカールームの扉が、ゆっくりと開いた音がした。
2人の全身から、一瞬で血の気が引いた。アドラーの腹部が、ウルリッヒの胸部に押しつけられ、ほとんど動かない心臓の鼓動が互いに伝わる。
足音が、一歩、近づく。
床に細く鳴る金属の擦過音。ドアのきしみ。ロッカーの列に何かが近づいてくる音——それは、一歩ごとに死の気配を濃くしていた。
アドラーは目を閉じ、声も出さず、呼吸を喉の奥に沈めた。汗が背中を滑る感覚が、やたら鮮明に思えた。
カチ。
隣のロッカーの扉が開いた音。中を探っているのか、何かのパーツが壁に当たるような軽い音が響いた。
「……やべえな……」
喉の奥で、吐息のようにアドラーがつぶやくと、ウルリッヒがすぐ耳元で囁く。
「ノイズキャンセリングを最小にしている。耳を塞いで、静かにしろ。」
「……今さら班長ムーブすんな。死ぬのは俺の膝のせいだっつの……っ」
「キミの愚痴は命よりしぶといな。」
「うるせぇ……」
その瞬間——ロッカーのすぐ目の前で、誰かが立ち止まった。
アドラーの脳内で、何かが「終わった」と確定した。
ドアの向こうの影が、ゆっくりと動く気配。
扉が開く。今にも——その緊迫が臨界点に達した、まさにその刹那。
「——反応なし。次に回る」
その声が、部屋の外に溶けた。
足音が遠ざかっていく。長い沈黙のあと、扉が閉じられた音が響いた。
生き延びたのだ、と理解するまでに、十数秒を要した。
呼吸が、ようやく、戻ってくる。
「……あいつら、まだあそこまで動き回ってるのかよ……本気で潰す気か……っ」
「どうやら、我々は優秀すぎるみたいだね。」
「……こっちは生き延びるのに必死なんだよ、ウルリッヒ……っ、ていうか、どけ。膝、痺れて感覚ねぇ。」
「すまない。重力は公平だからね。」
そう言いながら、ウルリッヒはようやく腰を浮かせる。アドラーの足の上で、義体の重量がじわりと抜けるその解放感に、アドラーは思わず天を仰ぎかけた──が、ロッカーの天井が頭をぶつける距離にあることを忘れていて、「ゴン」という音を立てた。
「っああああっ、もォお前のせいだろそれぇ!!」
「……大声を出す余裕が出たなら問題ないね。回復の兆候だよ、アドラー。」
「俺はお前の尻で足痺れたぞ。慰謝料出せ。」
「ふむ、それは残念だ。後でリバビリーセンターに付き合おう。」
その声音には、皮肉でも冷笑でもない、珍しく柔らかい響きがあった。
アドラーは黙ったまま、それに反応しなかった。