お薬ラプラス南側、廃棄された実験ブロックのひとつ。警告灯も点かず、空調も最小限に絞られたその空間に、ひとつだけ煌々と明かりを灯すステンレスの手術台があった。
白衣の袖を捲り上げ、ペアンで髪を固定し直したメディスンポケットは、無造作に台の上へと腰かけた。その手には、濁った琥珀色の液体が入った注射器。シリンジの先端はすでに、自身の腕に埋め込まれたケーブルの受け口に接続されていた。
「さて……今度のは、自己免疫系の抑制を一時的に解除して、神経伝達の速度を倍に……うまくいけばな。」
彼──あるいは彼女、あるいはそのどちらでもない存在は、静かに目を伏せる。白衣の裾がわずかに広がり、機械接続部が艶めいた金属の光を放った。
「これで良しっと」
親指がプランジャーを押し始める。薬液が静かにケーブルを走り、まるで毒のように、しかし甘美な蛇のように、体内へと入り込んでいった。
数秒の沈黙。体内で何かが弾ける音を、内側から聴いたような錯覚。呼吸が、ひとつだけ深くなる。
「……ふ、ぁ、っ……」
頬が少しだけ紅潮する。薬の作用か、神経の錯覚か、それとも単なる期待の裏返しか。口元から漏れる吐息は妙に熱く、湿った。
そのときだった。
一瞬のうちに、胸の奥が収縮した。冷たい鋼で握られたような痛みが、神経の網を這い上がってくる。
「……っ、あ、っ、が……ッ!」
指がわななき、次の瞬間、全身が痙攣する。白衣がわずかに跳ね、採血ケーブルが引き攣る。喉の奥でなにかがせり上がり、だらしなく開いた唇から、白く泡立つ吐瀉がこぼれた。
肺の奥で、何かが狂ったように跳ねていた。
それは単なる錯覚ではなかった。メディスンポケットの胸郭は、外見上ほとんど変化していないにもかかわらず、内部では激しい矛盾が渦巻いていた。ひとつひとつの気泡が、まるで臓腑を掻き乱すように暴れ回っている。
メディスンポケット無意識に舌を出した。乾いた粘膜に、金属の味がじんわりと滲む。視界の端に、黒い縁取りが現れ始めた。瞳孔の収縮が一時的に解除されたのだろう。銀白の髪がぬらりと額に貼りつく。
「っ……こ、れ……は……」
言葉は息と混じり、濁った泡になってこぼれた。口角から流れ出たのは、無色透明な唾液ではない。乳白色を帯びた液体が、どろりと下顎を伝う。神経の伝達速度が意図せず上がりすぎ、筋肉の制御が局所的に破綻していた。
右手がぴくり、と跳ねた。反射弓が過敏に反応している証拠だった。膝が無意識に内側へ引き寄せられ、腰は台の上でわずかにのけぞる。
腹部では、腸の蠕動が制御不能になり、波のように筋肉がうねっていた。皮膚の下で、機械接合部が規定外の熱を発している。たまらず左手で腹部を押さえたが、そこにあるのはわずかな隆起と、冷却装置の作動音――頼るには、あまりにも心許ない。
そして、次の瞬間。
「――ッッ……ぁあ……!」
言葉にならない短い音とともに、喉が勝手に開き、空気がひゅっと滑るように吐き出された。その衝動に続くように、胃の内容物が逆流し、喉の奥からせり上がってくる。
泡立つ白い液体が、喉を焼くような熱をもってこみあげてきた。意識の中で何かがスパークし、光と音が交錯する。視覚が波打ち、五感が異なる周波数でバラバラに共鳴しはじめていた。
「……ぐ、っ――かはっ……ッ!」
その瞬間、メディスンポケットは堪えきれず身を丸め、口元から盛大に吐瀉した。白衣の胸元を汚し、ケーブルに沿って液体が滴り落ちる。舌の上はしびれ、味覚はとうに麻痺していた。
だが、その苦痛の中に微かに滲んだ快楽にも似た感覚——それは、自らを実験体とするこの科学者にとって、もはや麻薬だった。
視界は、断片化していた。
何かを「見ている」ようで、実際には像の断面を処理しているだけだった。メディスンポケットの脳——それは明確に”脳”と呼べるものかすら怪しいが——は、いま、五感の入力を強制的に切断しようとしていた。
シナプス間の電位が、溢れすぎた情報で飽和していた。
「思考回路、攪拌状態。抑制因子……逸脱。逸脱、逸脱……」
自動録音装置が淡々と記録を読み上げる声が、遠くで響く。その声は、誰かのものに似ていた。かつての上司か、あるいは亡き同僚か。
自らの脳内音響ホールに、自分以外の亡霊たちが住み着きはじめている。それすらも、記録すべきデータだった。
「ふふ……おい、見てろよ……お前の設計したタンパク分子、ちゃんと暴れたぜ……ああ、綺麗だ……」
メディスンポケットは吐瀉によって一度は空になった胃の奥からさらに痙攣を押し出し、再び白い泡を唇の端から漏らした。身体のどこかが熱を持っていて、そして別のどこかは冷たい。中心が失われたまま、熱と冷のシグナルだけが交互に走っていく。
そのたびに脳波が、ひときわ鋭い震えを記録した。
振幅:Δ15μV
周波数:β帯からθ帯へ推移——意識境界が融解中。
自らが設計したこの薬品、その成分のひとつにはポリニューロリポイド化合物が含まれていた。それはニューロンのシナプス膜に吸着し、意図的に感覚伝達速度を撹乱する作用を持つ。あくまで理論上の話だった。
だが、今、理論は現実になっていた。
「……最高……じゃねぇか、これ……っ」
唇をかすかに歪めた。
それは、嘔吐による苦痛に歪んだ笑みではなく、確かに「満足」だった。
科学は冷酷であるべきだ。
だがその冷酷さを、己が体温で測るとき——それはある種の、悦楽だった。
「快楽反応の定義……未定義項……補完対象……記録しろよな。ポンコツ機械。」
泡は、まだ止まらない。
内臓は、自らの存在を抗議するように痙攣し、筋肉の反射はばらばらなリズムで跳ねている。
だが、メディスンポケットの目はまだ潰れていない。
黒と茶のマーブル模様の内側から覗く眼差しが、わずかに静かに、ただし明確に、次の段階を探し始めていた。
「さて……この組成、まだ——調整の余地があるな……ふ、ふふ……」
身体の奥で、何かが「蕩けて」いた。
知覚の水面に浮かぶ熱は、ただ高いわけではない。
それは熱というより甘い電流だった。
舌の根に、芯を持った痺れがずっと残っている。もしかすると、舌の機能はもう死んでいるかもしれない。
けれど、それを確かめる気力は、今のメディスンポケットにはない。
「記録:皮膚温38.4℃上昇、自己触覚閾値:解放モード――」
白衣の内側、ラプラス式の採血用ケーブルが密に貼りついた腹部から、細かい振動が伝わってくる。
それは外部装置による測定ではない。身体そのものが、自律的に快感に似た反応を起こしているのだ。
この薬には、末梢神経の拡張作用も副次的に組み込まれている——つまり、「全身の膜」が神経そのものになった状態。
メディスンポケットは片膝を折ったまま、わざと深く呼吸した。
胸腔が上下し、肋骨がわずかに軋むたび、白衣の中に貼りついた冷却パッチがずれる。
それだけで、全身がふるえる。
「はぁっ……あ、あぁ……いいな……この、反応……」
皮膚の内側が熱を吐き出す炉のように、ぬるく、ゆるく、煮立っていく。
その温度は、性感とも発汗とも区別がつかない。
目を閉じれば、まぶたの裏に閃光が走り、脳の視覚中枢を直撃する。
それでもまだ、記録は続けられていた。手の甲に巻きつけた自己観測装置が、律義に音声を残す。
「視覚野過活性。GABA抑制機能の低下。快感因子分泌指数:1.84。興奮閾値……解除」
「……お前さあ……そんな数字で測れねぇもんを、記録すんじゃねぇよ……」
メディスンポケットは、白い髪の乱れた前髪をペアンで再固定しながら、口角を軽く吊り上げた。
その笑みには、明確な知性があった。
たしかにこの反応は「気持ちいい」に分類されていた——だが、それは快楽という単語に収まるものではない。
これは知覚の変容。感覚の「再定義」だった。
「もっと、欲しいな……この、境界の……際どいライン……」
頬に流れた汗がケーブルの隙間を滑り落ちると、まるで指先で撫でられたように背筋が震えた。
全身が、微細な性感帯として機能している。だが、それすらも実験の一部だ。
ケーブルの接続音が、ひとつ、ふたつと間延びしていく。
モニターに走る波形は乱れに乱れ、ついには平坦な直線になった。
音声記録もいつしか止まり、部屋の空気は微かな焦げた薬品の匂いと、乾いた静電気のざらつきだけを残していた。
§
メディスンポケットは、床の上に倒れていた。
白衣の裾がまるで羽根のように広がり、指先は反射的にひきつったまま、無言で震えている。
口元にはわずかに泡の痕——反応はすでに臨界を越えていた。
その表情には苦悶もあるが、どこか達成感にも似た痕跡が見て取れる。
「……ぅ……あ……ぅ……」
意識の残滓が、わずかに唇を振るわせた。
しかし、反応はそれで終わった。
身体の各部が次第に脱力し、目の奥に宿っていた微光も、徐々に消えていく。
静かに、崩れるように——メディスンポケットは気を失った。
――そして、約二分後。
「ん? ……ああ、またやってるのか、君は」
ドアが滑らかに開き、銀の髪を持つ発明家——Xがふらりと部屋に入ってきた。
右目の黒い白目が、床に転がったメディスンポケットの姿を静かになぞる。
無言で辺りを見渡し、次に彼が手に取ったのは——床に転がっていた「使用済み薬品ラベル」だった。
「うわ……これはまた……なかなか無謀な配合だね。しかも、データにない物質が混じってる。これ、君が調合したんだ?」
答えは当然、返ってこない。
メディスンポケットは完全に意識を手放している。
しかしXは、驚かない。まったく。
「ふふ……ま、またか。学習能力がないのか、それとも人体実験にしか快楽を見出せないのか……どっちでもいいけど、君ってほんと、“愚か”だね。」
言いながら、彼は装置のスイッチを丁寧に切り、接続されたケーブルを外していく。
その手つきは慣れていて、やさしく、まるで“何度もこの場面に遭遇してきた”ことを物語っていた。
「しかしこの泡の出方、今回はちょっと興味深いな……内分泌系と脳幹の境界が、どう反応したんだろう。あ、メモしとこ!」
Xは白衣のポケットからメモパッドを取り出し、無造作に何かを書きつけた。
その背後で、メディスンポケットの身体はゆっくりと、薄く、規則正しい呼吸を取り戻しつつある。
「生きてるならオッケー。じゃ、君の手帳に“生還”って印つけとくね」
そう言って、Xは軽やかにその場を離れようとする。
まるで、床に転がる同僚が“特に重要でもない”かのように。
でも、それがこの二人の日常なのだ。
§
視界が霞み、耳鳴りだけがやけに鮮明だった。
メディスンポケットは、まぶたの裏で滲んだ光を感じながら、意識の縁に手をかけるようにしてゆっくりと目を開けた。天井は白く、無機質で、蛍光灯の光が妙に冷たく見える。
「……んだ、ここ……」
喉の奥が焼けるように渇いている。口の端には、まだ乾ききらない薬液と泡の痕が残っていた。かすかなアルコールの匂い、そして皮膚に触れる冷たい空気。ここは——リハビリセンター。
視線を下ろせば、自分の腕はベッドの両脇に固定されている。腹部にも、脚にも、しっかりとした拘束具。左腕には生体モニターのコード、右脚には安全注入用のチューブ。
「……あの野郎……」
声はかすれていたが、明確な怒気が滲んでいた。
実験中に意識を手放した記憶が、断片的に蘇る。激しい痙攣、粘膜を焼くような感覚、喉の奥に逆流した液体。全ては予定通りだった。いや、それ以上に理想的だった。問題は——
「……勝手に……中断……しやがって……!」
その名を出さずとも、思い浮かぶ顔がひとつある。銀色の髪、機械仕掛けの目、やけに落ち着いた声と——無神経な優しさ。X。あいつが、余計なことをした。
「オレの実験に、テメェの判断なんかいらねぇんだよ……!」
拘束具が軋む。メディスンポケットは細身の体をベッドの上で起こそうと、力の限り筋肉をねじり上げる。だが、想像以上に体は重い。痙攣の余波か、薬の副作用か——指先まで力が入らない。
だが、それでも。
「……チューブなんざ、飾りだろ……ッ!」
右脚の注入用チューブを、歯で強引に引きちぎる。次に、手首の拘束具に肩をねじ込ませて無理やり外す。白衣の背中が汗で濡れ、ケーブルがずり落ちる音が、室内に生々しく響いた。
ベッドの上で四つん這いになりながら、メディスンポケットはほとんど動物のように息を荒げた。
「……オレの実験は……まだ……終わってねぇ……」
額から滴る汗を舐め、視界の端にちらつく安全警告を無視して、裸足のまま床に降り立つ。
そして——ふらつきながらも、にやりと笑った。
「さて……続きをやらなきゃな。X、お前にも付き合ってもらうぜ」