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    asaki

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    大我の胸元を凝視してしまう浮葉様の話

    ##大浮

    【大浮】The more puzzled you are,(いまさら、なんだと言うのです……)
     浮葉はふいっと視線をそらした。
     恐らく大我には気付かれていないはずだ。彼はクライアントのご機嫌取りの最中である。にこにこと普段見ないような愛想笑いを振りまいて、浮葉の知らない表情カオをしている。
     不思議に思うのは、心にもない愛想笑いを振りまいても一切の愚痴を言わないことだ。『ああしときゃ、悪い気しねぇだろ』とは言うものの、面倒くさい・やりたくないということは言わない。割り切っていると言えばそうなのかもしれないが、普段の姿からすると黒橡として立ち回る彼はまるで別人だった。
     それがプロだというのであれば、浮葉も倣わねばならない。自らの内に弱さを内包していることは自覚していて、いつか誰かに絡めとられないよう優雅さと幽玄さを微笑みに乗せて立ち回る必要があるだろう。悔しいが、いまだ心無い問いに口籠ってしまう時があり、それを大我に救われることも多いのだ。
     そうやって苦々しく思っているというのに――視線が、とある箇所に吸い寄せられてしまう。
     また見てしまっていて、浮葉は視線をそらした。
     見たことがないわけではない。撮影の折には何度も目にする。だというのに――。
    (…………ッ!)
     大我の胸元が気になって仕方ない。
     シャツを着ているのに、第二――いや、第三か、ボタンを外してサングラスを下げている。
     そこから見える胸板――つまり大胸筋、次に鎖骨に胸鎖乳突筋がきれいな陰影を描いている。大胸筋は厚みがあるわけではなさそうだが、差異があるのか下部には影が見えた。柔らかいタイプの筋肉ではないにしろ、バランスよく身についているそれはスタイルの良さを強調していて、胸板以外も整っているのだろうと想像させる。
     大我は二人が暮らしている部屋で無防備な姿をさらさない。風呂上がりにパンイチくらいあるだろうと予想していた浮葉は、意外に思ったものだ。粗野に見えて、所作は荒れていない。マナーも身についているし、どこに出しても困らない男であった。
     着替えの時の姿を見ても何も思わないのだが、衣服の着用があるとやけに気になってしまう。チラ見えしているのが悪いのだろうか。だったら浮葉の精神衛生の為にもシャツの着用を禁止にするべきかもしれない。
     あまりにも吸い寄せられるように見てしまうので、自分は筋肉フェチなのかと思ったこともあるが大我以外には反応がない。源一郎も武道を嗜むので体つきはしっかりしていたが、特段気になるという思いはなかった。
     どうやらあの胸元だけが浮葉の視線を吸い寄せるのだ。
     胸元だけでも、大我の謎が詰まっている。タトゥーについて、トレーニングについて、着るものの好みについて――二人の間には不要で、知ってどうするのだという内容ではあるが、誰かが知っている素振りがあるとなぜだかもやもやする。ピリッとヒリつくように感情がざわめくのだ。
     大我は誰のものでもない。
     ただ浮葉の隣にいるだけの男なのだ。
     いい加減、視線を向けてしまうのが嫌で目蓋を閉じた。それでも鮮明にあの胸板が浮かび上がるものだから、浮葉はとうとう深い溜息を吐いた。


     ■


     やけに疲れたなと、浮葉は帰宅するなり早々に部屋に引っ込んだ。
     ベッドに寝転がっているとその柔らかさにつられて目蓋を閉じ、次にはっと目を覚ました時には一時間ほど時間が経過していた。
     精神的疲労は浮葉の思う以上に体へと圧し掛かっていたらしい。
     短時間ではあったが目覚めはすっきりしている。体だけは少し重いが、入浴してしまえば明日には残らないだろう。
     先に飲み物でも飲もうかと自室から出てリビングに向かうと、ソファで読書に耽る大我がいた。着替えておらず、その胸元は相変わらず無防備にぱっくりとあいている。
     浮葉は見なかったことにして、声もかけずにそのままキッチンへと向かった。キッチンカウンターから大我は見えるが、ソファの背側に当たるので顔は見えない。跳ねている髪だとか、背もたれに伸ばした――腕、だとか。
    (腕……)
     浮葉の目が大我の腕に吸い寄せられる。シャツをまくっているので前腕の逞しさが剥き出しだ。大きな手に、長い指。演奏者として申し分のないそれが、どんな熱を孕むのか――。
    (…………はっ、今何を)
     なにやらいけない領域に足を突っ込みそうだった気がした。
     浮葉は少しだけかぶりを振ると、冷茶を淹れようと準備を始めた。
     家事はてんでだめだが、お茶を淹れる程度ならば浮葉も難なくこなせる。冷茶の淹れ方もよく分かっていなかったが、今ではすっかり慣れたものだ。お湯で濃いめに抽出するために、急須に注ぐ。今度は氷出しも試してみようかと、作業に集中していると「おい」と声をかけられた。
     呼ばれているのは分かるが、大我の方は見たくない。会話をしながらあらぬ方に視線をやってしまいそうだ。
    「坊ちゃん、聞こえてんだろ」
    「……私は君に用はありませんが」
    「へぇ」
     含みのある返しをされて、浮葉は少しだけむっとした。
     ほんの少し視線を投げると、ソファの背から乗り出すようにこちらを見ている大我が目に飛び込んできた。
     ソファの背へ組んだ腕を載せて身を乗り出しているということは、腕の上に胸を乗せるようにしているということで――それもうダイレクトに胸元が浮葉の目に映る。
     出そうになった呻きを喉の奥で必死に押し留めて、カッと体に灯った熱を追い出すようにほうと息を吐く。
    (目の毒!)
     あからさまに目をそらしてしまえば不審に思われてしまうが、今はそれどころではない。キュッと口を閉じ、必死に耐える。
    「……やっぱり。最近のいかがわし~い視線、あんただったか」
    「は!? いかがわしい!?」
    「自覚がねぇときたか」
    「わ、私はなにも……そもそも、いかがわしいとはどういうことですか。失礼ですよ」
     見ていた自覚はあるものの、いかがわしいとは心外である。ただちょっとチラチラ見ていただけだ。
    (それがいかがわしいということに……?)
     見ていた時は無だったはずだ。なぜか視線が吸い寄せられてしまうが、そこに感情はなかった――と思う。
    (鑑賞! そう、ただ鑑賞していただけです!)
     実際口にして言えばいいのだが、そうなると見ていたことを認めなければいけないので心の中で言い募る。
     そんな浮葉の葛藤など、無駄な抵抗だというように大我は「舐めるように見られれば分かる」と宣うものだから「破廉恥です!」と反射で言い返した。
    「破廉恥だと思われるようなで見てたのはあんただろ」
    「だから、それは誤解だと」
    「誤解ってンなら、ちゃんと俺の方を見て言ってみろよ」
     大我の顔を見る。なんだか不可解な生き物でも見るような表情カオで浮葉を見ていた。
     じっと緋色の瞳を見ていたはずなのに、浮葉の目はついっと下方に向きそうになり――慌てて顔ごとそらした。また胸元を凝視してしまうところだった。
    (ボタンを留めれば……)
     たかが布一枚ではあるが、ボタンを留めて大胸筋をしまってくれれば浮葉の視線も正常に戻るのに。
    「君に何を言っても無駄でしょう? 勘違いなのだから放っておいてくださいませんか」
     なんとも苦しい言い訳であるが、とにかく知らぬ存ぜぬで通すしかない。〝なぜ〟と問われても、浮葉には全く分からないのだ。
     会話を打ち切って浮葉はくるりと背を向けるとグラスを持ち、製氷機から氷を掬う。その手はかすかに震えているようにも見えて、浮葉は再びなぜだとひとりごちる。
    「あっ」
     ガラガラと音を立てて氷が床に散らばった。ついでにごとりと持っていたグラスも落ち、浮葉を中心に惨状が広がる。
    (動揺してる……? 私が?)
     ありえないミスに呆然としていると「なにやってんだ」と大我がキッチンに入ってきた。
     製氷機を閉め、落ちたグラスを拾い上げると屈みこんで散らばった氷を拾ってはシンクに投げ入れる。カツンカツンと氷を投げる大我を見下ろしていると、ふ、と瞳がかち合う。下から見上げる形で浮葉を見る大我の顔面と胸元が、セットで浮葉の視界を占有した。
    「~~!?」
     声を出さなかっただけ褒めて欲しい。ぐっと喉に力を入れなければきっと変な声が漏れていた。
    「ほら、その顔――そのだ。俺が欲しくて堪らないって言ってるぜ」
     そんなことはないと言いたいのに、口を開けば余計なことを口走ってしまいそうで抗議できない。
    「坊ちゃんはそんなに俺の体がお気に召したってか。素直に欲しがれば、くれてやってもいいぜ?」
    「は、」
     『くれてやってもいい』と言いながら、大我は捕食する側のギラついたをしている。
    「――なぁ、どうする?」
     大我が立ち上がって、浮葉へ一歩距離を詰める。少し高いところから見下ろされ、後退ってもすぐにシンクに阻まれた。
     目の前に胸板があるはずなのに、今はあかから視線が逸らせなかった。まるでスローモーションのように近付く大我の顔に見入っていると「ひぁっ!」と浮葉は体を跳ねさせた。
     大我の手が浮葉のうなじを撫でたのだ。それは氷を掴んで冷え切った手で、浮葉はぞわりと鳥肌を立てる。弄ばれたことに憤り、睨みつけると大我は嬉しそうに笑った。
    「はっはっはっ! 坊ちゃんにはまだ早ぇな」
     浮葉の耳元に唇を寄せる。触れてしまっているのではないかと錯覚するほどの距離で「覚悟が決まったらいつでも言いな」と囁き、浮葉の背をぐっと引き寄せる。混乱する浮葉の頬が大我の胸元にぴとりと触れた。
    (~~~~ッ!?!?!)
     数回ぽんぽんと背を叩かれて、浮葉は解放された。
     だがあまりの衝撃に浮葉の意識はすっかりどこかへ飛び去ってしまった。
     肌と肌がぴとりと触れ合う感触、合わさったところから伝わる体温と鼓動――情報が一気に押し寄せて、処理が追い付かない。なにか言わないといけないのに、浮葉は空気を求める金魚のようにはくりと口を開けて閉じただけだった。
     大我は浮葉の反応を面白がったあと、「じゃあな」と自室へ戻っていった。

     その後、よろよろと作りかけの冷茶をグラスに注いだ。
    「にが、い」
     すっかり時間が経ってしまったそれは口の中にざらりとした感触を残し、先程までのことが現実だと浮葉に示したのだった。

    fin.
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