僕とレオンは何度目かの神威くんの呼び出しにより、工業地区の埠頭にやって来ていた。ただし、現在時刻は朝の五時だ。
「さむっ……」
車から降りると、強めの潮風が髪を揺らした。日中との寒暖差が激しい時期のうえ、海の近くとなれば冬に取り残されたようだった。海はまだ黒々として、生き物のようにうねっている。神威くんは何もない場所で波を眺めながら佇んでいて、僕たちに気づくと眉を顰める。
「なんだ。執事もいるのか」
「当然です! こんな暗いうちからノア様お一人でなんて、考えられません! 神威様、もう少しお時間というものを考えていただけませんと……」
立腹した様子のレオンの小言を聞き流して、神威くんは僕が持っていたキャンバスとイーゼル、画材一式に目を留めた。目を輝かせた彼が僕を見る。僕は苦笑で返す。
「このサイズで間違いない?」
「ああ、お前に頼んで正解だったな。あの馬鹿はともかく、阿形氏にもキャンバスのサイズの話をしても通じないだろうし……」
手渡したそれらの道具を確かめるようにしてから、神威くんはのけぞって笑った。
「これで夜明け前の月明かりに照らされる美しい俺を記すことができる」
彼からの呼び出しのうち最も多いと言って過言でないものが、「インスピレーションが湧いたが、相応しい画材を持ち合わせていないから用意しろ」というもので、今回もそうだった。寝起きでライダーフォンの着信に対応したとき、思わず「自分で用意すればいいのに……」と言ってしまったけど、浮かんだイメージが消えてしまうから無理だと一蹴されてしまった。こんな時間に外をふらふらしているということを知った以上放っておくこともできなくて、仕方なく準備をしてレオンに車を出してもらった。
神威くんは早速広げたイーゼルにキャンバスを立てかけて、パレットの準備をしている。もはや僕たちには背を向けているので、レオンからの目配せを感じる。もう少しすれば、「ノア様、我々はそろそろ……」なんて耳打ちされそうな雰囲気だ。しかし、僕はといえば、制作を始めた神威くんが気になってしまっていた。
埠頭に到着してから十分も経過していないはずだけど、重たいブルーグレーの空は確実に白みはじめているから、足元に広がる巨大な水の塊と融解した神威くんの真っ黒な輪郭は水平線との間に少しずつあらわになって、ときどき吹きつける風で膨らんだり閉じたりする。白い光を放つ街灯がたまに強烈にコントラストを作って……すっかり冴えた僕の目は、その微妙に異なる美しい色遣いに奪われて、離せなくなっていた。
そのことはレオンにはお見通しのようで、レオンはふう、と息を吐いて車に戻り、キャンプ用の椅子を二脚持ってきた。
「お身体が冷えるといけませんから、少しだけですよ」
「うん。ごめんね、ありがとう」
レオンは僕に甘い。今だって、神威くん用の椅子を僕にわざわざ渡してくれた。
レオンが僕用の椅子を広げてくれているのを横目に、僕はキャンバスに向かう神威くんに近づいた。
「神威くん、よければ椅子使って」
集中しているのか返事がない。もう一度声をかけようとしたとき、身体がよろめくほどの強い風が吹いて、勢い余ってたたらを踏んだ。そのとき、神威くんが振り向いた。
視界に広がっている美しい青のどれとも異なる、深い赤色が僕を見ている。たった今世界から失われていく夜よりも、輝きを取り戻していく海よりも黒い睫毛に縁取られた瞳は、名前のついた宝石よりずっと美しく思えた。
「あの月が見えるか」
不意に神威くんが口を開いた。
「え」
夢見心地から咄嗟に現実に戻れず、僕は気の抜けた返事しかできなかった。
「あの月だ!」
相変わらずびゅうびゅうと風が吹いているから、神威くんは聞き取れなかったと思ったのか声を張り上げた。午前五時とは思えない声量だった。
指差した方角に顔を上げると、だいぶ明るくなった東の空に月が浮かんでいた。頷くと、彼は口元を緩めて同じように見上げた。
「この時間帯に見える月を残月という。もうすぐ太陽に役目を明け渡す、衰えていくばかりの月だ」
横顔はどこか誇らしげだった。
「それでもなお美しい」
そんなことを考えながら空を見たことがなかったので、ただ彼の感性に圧倒されて、僕はもう一度月を——残月を見据えた。弱々しい光を受けて青白く存在を示す残月は、僕にはどこか幽霊のように感じられた。
神威くんのようにはいかないけど、彼に明け方の空の美しさを教えてもらったから、そんな詩的なことを感じたのかもしれない。
「あの月が見えなくなるまでに俺はこの自画像を完成させるぞ!」
僕が口を開くより早くまたキャンバスに向きなおった神威くんの、もう闇に混じることはない背中を見て、やはり敵わないな、と苦笑が漏れた。
「これ、置いておくね」
一応声だけかけて椅子を置き、僕は車のそばに戻って腰かけた。
レオンがブランケットを差し出してくれる。僕はそれを羽織りながら、彼の筆先からよく晴れた朝が始まっていくのを見ていた。