甘いリカーに浸った日晩御飯の後片付けを終えてひと段落した依央利が、できたできたと嬉しそうに大きな瓶をひっさげてキッチンにやってきた。数ヶ月前に仕込んでおいた梅酒が美味しそうに浸かったのだ。
ハウスのみんなで飲もうと、梅酒をピッチャーに移す。梅の実はゼリーに入れたいから、とよりわけて冷蔵庫に入れたところで、洗濯機がピーと終了を知らせた。今日は天気があまり良くなかったから、乾燥かけたんだった。依央利はとりあえず梅酒はそのままに洗濯物を片付けに向かった。
そこへちょうど、理解が夜のウォーキングから帰宅した。長く歩いてきたからか、喉が酷く乾いていて、麦茶を飲もうとキッチンに向かった。そこには丁度、ピッチャーに入った麦茶があるようにみえた。
よく歩いたな、どれくらい歩いたのだろう、と時計に気を取られながら、ピッチャーの中身をコップにうつし、よく見もせずにごくっと…飲み干した瞬間、理解はむせ返った。鼻に抜ける梅と強いアルコールの匂い。すぐに梅酒だと分かった。しかし、勢いよく飲み干すつもりで口に入れていたから、気がついたらかなりの量を飲み下していて吐き出す余裕もなかったのだ。むせ返りながらも、その場で慌てて水を数杯コップに注いで飲み干すが、おそらく無駄だろう。理解は酒に弱かった。身体がドクドク脈うち、熱くなっていくのがわかる。あと少し水を飲もう。そうしたら部屋に帰ろう。そう思い、テーブルに水を準備して、椅子に座ったのだが、しばらくすると頭の中がぐるぐる回り、何も考えられなくなってしまった。
洗濯物の片付けを終えた依央利はすっかり梅酒のことなど忘れていた。ご機嫌でリビングに戻ってきた時に、机に倒れ伏している理解を見つけたときには、初めは訳がわからなかった。
ウォーキングに行っていたはずなのに、なぜ?と思い、起こそうと近づいた時に梅酒の匂いがぶわっと香り、ハッとした。キッチンのピッチャーの存在を思い出し、慌てて見にいくと、大きめのコップ一杯分ほどがまるまるなくなっていた。理解の手元にも、梅酒が入ったコップが残されている。
とりあえず理解を起こすために揺さぶる。
「理解くん、起きて起きて!」
理解ははっと身体を起こし、依央利を見たが、とんでもなく目元が真っ赤で、目がすわっている。依央利はギョッとして一歩下がった。
「…ねえ、あの梅酒飲んじゃったの?酔っちゃった?」
恐る恐る声をかけると
「理解はぁー酔っ払ってまーせーん!!」
目だけを依央利に留め置いたまま、理解の口からあり得ない声量で声が出た。酔っ払うとボリュームねじぶっ壊れるタイプか、と依央利は思わず耳を塞ぐ。
「こりゃダメだ。お部屋行こ、寝よ。」
「いーやでーーす!!ここにいますぅ!だってぇ、おへやでひとりなんかぁ、さみしいですからあ」
理解はテーブルの上によじ登りあぐらをかいて鎮座した。
「…ねぇ、梅酒、結構減ってるんだけど。理解くん以外にも他の人が来て飲んだ?」
「いやぁ、理解1人ですねーー、間違えて飲んだあと、けっこう美味しかったからぁ、おかわりしましたよぉ?もっと飲もうかなぁー」
原液の量でそこそこ減っているから、こりゃ効くわけだ。
さて、この泥酔状態で机にいるのも危ない。落ちたら怪我間違いなしだ。まずはおろさなければならないと、依央利は理解の腕を掴んで引っ張った。
「ほらほら、お部屋行くよ!テーブル降りて!」
「やーでーす!!でへへへ」
どこから出てくる力なのかわからないが、力がやたら強く、依央利には歯が立たない。不本意だが助けが必要だった。
「猿ちゃーーん!!猿ちゃーん!手伝ってぇ!」
廊下に向かって大声で叫ぶと、めんどくさそうにのそのそと幼馴染がやってきた。そして、机の上の理解を見ると
「うぉ、なんだこの状況」
と、口があんぐりと塞がらなくなった。
「あ、さるぅ!!はははは!!おまえ、あたま、めちゃピンク!!チャラついたやつはぁーー、死刑!はははは!!!」
「いお、これ…なに」
慧はドン引きの様相で、小声で依央利に問う。
「…僕が置いといた梅酒を原液そのままぐびっていっちゃったらしくて…べろべろなんだよねぇ」
「むぎちゃとおもったらぁ、おさけでしたぁ」
「うわ、…きっつ」
慧は眉間に皺をよせ、机の上でゆらゆら揺れている理解を、汚物でも見るかのような目線で見遣る。
「部屋に戻そうにもこれで動かないんだよぉ、猿ちゃん、悪いんだけど手伝って欲しいんだ」
「しゃあねえなぁ。おら、行くぞ理解。歩けっか?」
「ええーー、ヤですヤですー!!ここにいます!!」
「ガチでうるせぇ、いくぞ」
慧が力任せに理解をテーブルから引っ張り下ろしたが、理解の足は小鹿のようで支えていないとすぐに崩れ落ちていく。細いが背が高い理解を支えるのは大変で、半分背負うかのような形で、なんとか引きずりながらも理解の自室へ連れていくことに成功したのだった。
遠くはなかったが、力が入らない男を引きずって歩くのは骨が折れた。慧がベッドに理解を放り投げるように寝かせる。
理解は相変わらずヘラヘラと良くわからないことで笑ったりつぶやいたりしていたが、景色が変わったことに気がついたようだった。
「さるぅ、ここ、どこだあ?」
「お前の部屋だよ、寝てろ、うぜぇから」
「えぇー、へや、帰りたくないって、言いましたよぉ?ひとのはなし、聞かない奴は、むきちょおえきぃ」
「今のお前うぜぇから、帰したんだよ。大人しく寝てろ、早く酒抜け」
横になっている理解の頭をしばくと、オモチャかのようにケラケラ笑い出した。
「おら、水やるから。飲めよ、じゃな」
慧はベッドサイドに水のペットボトルを置いてやり、さっさと部屋から出ていったのだが、ドアを閉めたところで
「さるー!さーるぅ!!ふた!あーかなーい!」
と理解の大声が聞こえて、すぐに部屋に戻ることになった。
理解はベッドサイドに座って、ボトルをぷらぷらさせながらこっちを見ている。
「お手手に力入んないからぁー、あけられないんですうーー、あけて、さる」
「うわ、めんどくせえ」
仕方なく理解の隣に座り、ボトルを開けて手渡してやった。理解は口をつけて数口飲むが、口の端からぼてぼてと雫…よりもさらに大きな水の玉が落ち、理解の腹あたりを濡らしていく。ボトルを持つ手も危なっかしいので、飲むのが止まった瞬間に理解の手からボトルを回収した。布団が濡れると厄介なことになるんだよねぇと依央利が言っていたのを思い出したからだ。
「ありがとー、さる」
理解はへらへらと笑う。
「俺帰るぞ。もういいだろ」
「えーー、寂しいから居てくださいよぉ、あー、今帰ったらぁ、…ほら、お化け出ますよぉ?お化けぇ」
慧がホラーが苦手なことを思い出したのだろう。鬱陶しい絡み方をしながら理解が慧の腕に縋った。
「…まだ早えから出ねえし。出ても他の奴らもまだ起きてるから平気だし。それよりお前が早く寝ろって言ってんだろうがよ」
イラついた慧は、乱暴に理解の頭をぐいっと枕に押し付けた。
「そーーんなぁ」
と言いながらも、すぐに理解の瞼は下がり始めて、饒舌さは失われ始めていた。
「ほら、手ェ離せよ」
「嫌ですぅ…1人は、やだ、からぁ…」
慧の腕を掴んでいた理解の手が、ずるずると下がり、手の甲あたりに添えられた。
「いい歳したオトコが何言ってんだよ、寂しいとかねえだろ、1人で寝てんだろうがいつも」
「…さるぅ、なでてぇ」
「はぁ?」
「あたま。…なでてぇ」
「バッカじゃねぇの、ガキかよ」
「いーいーかーらぁ」
無理やり理解の頭の上に手を乗せられた。それだけで満足したのか、理解の瞼がすっと降りた。
それとほぼ同時に理解の手が口元に当てられる。慧は今度は何だと一瞬身構えたが、理解は自分の親指を根元まで咥えた。ちゅむちゅむと音を立てていたのもほんの数回で、手はぽろりと口元に落ち、口からは寝息が聞こえ始めた。
慧の目が少し大きく開いた。見てはいけないものを見た気まずさを感じる。あの自分にも他人にも厳しい理解が寂しさを露わにして、1人は嫌だと連呼していた挙句、寂しさを埋めるように指をしゃぶっていた。普段は見せないものが、酔いに任せて出たのだろうか。いつもの姿とのギャップに頭がごちゃごちゃして、なぜか心臓が少し速く脈打った。
理解の頭に載せたままの手をどうしようか迷って、数回、乱雑にわしゃわしゃと左右に動かしたのちに手をすっと引いた。理解の口元がにへぇ、とだらしなくゆるんだのをみて、あぁ、これで正解だったのか、と慧も少し口元が綻んだ。
それにしてもめんどくさい奴。舌打ちを一つ残して、慧はリビングへ戻った。
夜中遅く、はっと目覚めた理解は、怠さと頭痛に苛まれていた。梅酒を誤飲してからの記憶がない。着替えていないから風呂にも入っていないみたいだし、何故かお腹の辺りが湿っていて気持ち悪い。それに、口の中の感触から察するに、歯磨きもしていないらしい。
酔っている間に何があったかを誰に聞けば良いのかも、皆目検討がつかなかった。
ベッドサイドに置いてあったペットボトルの水をもう一口飲んで、まだふらつく足で洗面台に向かう。鏡に向き合って、ふと、髪が特に激しく乱れていることに気がついた。
何故髪だけがこんなにボサボサなんだろうか?
正解は、朝が来ても誰も教えてはくれなかった。