月島さんと尾形がこっそり甘いものを食べる話疲れた。
今日も今日とて、定時とは仲良くできないようだ。
腕の金属も、皆が持つ四角い鉄の塊も見たくない。何時かなんかは考えなくていい。肩にぶら下がるバックパックは前抱きにしても、重力を一身に受け、疲労感を倍掛けしていく。
電車の窓に映る顔は、鉄面皮と呼ばれる顔に拍車がかかり、目は落ちくぼんで、目の下の溝は色濃く深まるばかりだ。
黒い鞄に黒いスーツ、夜の真っ暗な景色に映りこむ白い顔は、心霊写真にも見えるだろうと、我ながら考えてしまう。
しかし、普段と違うのは今日が華の金曜。そう華金だ。一週間の疲れも少し軽くなる気がする。
せっかくだからと、酒を飲みに夜の街に繰り出すのも良いが、いかんせん、疲れが酷い。こんな日は悪酔いしたり、すぐに酔ったり次の日に響くのが目に見えている。
ならどうするのか。疲れを癒すのは酒だけではない。
そう。
ドーナツを買いに行く!
自分の家はあまり裕福とも言えないどころか貧乏の名にふさわしく、全てにおいての環境も良くなかった。
そんな家では子どもへの娯楽やお菓子なんてなかったのだ。
記憶のほとんどない頃に亡くなった、写真でしか知らない母。体が弱い人と聞いたことはなかったが、心労に無理がたたったのだと後になって聞かされた。昼から出かける時もあれば、夜から出ていくこともあった、何の仕事をしているのかよくわからない父親。最低限の収入はあるようだったが、家にいるときは常に酒を浴びては、気分のままに罵声や罵倒が飛んで来るのだった。今思えば傍から見ても、完全に虐待児だっただろう。ただし、誰も助けてくれなかったし、俺も助けを求めなかったから、あんな男でもギリギリ犯罪者にならずに済んだのだろう。そんな父も俺が成人して少しした頃に、変ないびきをかいて寝ているのを最期に、あっけなく死んだ。
今思えば、そんな父親の機嫌がいいときはパチンコで勝ったときだったのだろう。端数で交換できるものがチョコレートくらいだったんだろう。
茶色の包装紙と銀紙に包まれた薄い板。それをこちらに渡す太い指に武骨な手。かすかなアルコールの匂いに蒸せるような煙草の匂い。
初めてのものに開け方がわからず、くるくると回せば、ひょいと取り上げられ、包装紙が取られる。そのまま、銀紙ごと折れば、溝に沿って綺麗に割れた3ピース繋がった茶色の板が顔を出す。
そっと受け取り、そっと口に運ぶ。
甘露。
手の体温で柔らかくなっていたそれは、口に入れれば、歯を立てる前に、とろりと溶け出し、舌の上を滑っていく。すぐに口いっぱいになる唾液に押し流され、甘さが遠のいていく。最初の恐る恐る口に入れたのがウソのように、放り込むように口に入れる。
あの時の父親の笑い声は覚えている。大口を開けてカラカラと笑っていた。ずしりと感じた頭のあたたかさ。頭に手を乗せ、指先で弄ぶようにトントンと坊主頭を叩かれていた。あれはあの人なりの撫で方だったのだろう。
一度知った甘味は、子どもの時分には、十分な中毒性を帯びた麻薬の様なものだった。ましてや欠食児といっても過言ではない食生活だったのだ。食事よりも強く心を満たすものがあれば欲しくてたまらない。それでも基本的に機嫌の悪い父親は、強請っても飛んでくるのは拳だけだった。
それからは、父親の気まぐれを望む日々だ。
高校生になりバイトを始めた。父親に毟られつつも、家を出るための貯金を始められた。
貯金の額を増やすためにも、父親に負けないよう体つくりも始めたのも、この頃からだ。通帳やカードは学校の置き勉の中だった。家より安全な場所とは皮肉だ。
そんな頃に、二つ上の幼馴染と出かけることになった。幼馴染と云えど、家がたまたま近かっただけで、向こうは一般家庭。裕福な家のお嬢さん。くりくりした髪を「いご草」と呼ばれ揶揄われていたのを庇ったところから、向こうが気にかけてくれるようになった。庇うと言っても、ランドセルに遊ばれているような身の丈の頃だ。強さは力でしかないし、自分の父親の真似にしかならなった。他のやり方がわからなかった。あんまり酷いときは相手も自分もあざやひっかき傷だらけだったが、学校で呼び出されるのは決まって俺だけだった。親が呼び出される事態になれば、家に帰った時にもっと酷い怪我をした。
悪童と呼ばれていた、当時の俺が人間でいられたのは俺を「基ちゃん」と呼ぶ彼女がいたからだ。
それでも、あんな男のこんな子供。彼女の家族は俺が近づくことを良しとしなかった学校の帰り道にちょっと遠回りして帰るくらいしか話す機会もなかった。
自分より先に卒業した彼女は、本人の意思という態で私立の中学校へと進学していった。「行きたくない」と泣かぬように堪えて溢した言葉を覚えている。
しかし、蓋を空けてみれば、向こうで友人ができたようで、問題はなさそうだった。さらには実家から通うので、朝は分かれ道までの道のりはほとんど一緒だった。早起きしていたのは内緒だ。
それから、数年、小学校を卒業し、中学生時代は友達と遊ぶと言って、二人でこっそり出かけたこともあった。懐かしい限りだ。さらに数年経ち、話は戻る。
さすがに俺も、悪童が抜けきらないとはいえ、教師や同級生に信頼を得るくらいの人間にはなっていった。それでも、昔から知っている人は色眼鏡をかけたままだ。彼女の親もその一人で。
だから、何でかは覚えていない。
こっそり出かけるでもなく、学校帰りに出かけるなんて。向こうの買い物に付き合った気がする。文房具だか参考書だか、多分学業に必要なものを買いに行ったはずだ。二人ならなんでも楽しかった。
乗らない自転車のハンドルを、学校の帰りに家やバイト先とは反対方向に、進路を向ければ、気分が高揚したのを覚えている。
今思えば、学校帰りに出かけるなんて初めてだった。
そして、更に初めての衝撃的な経験を得たのだ。
買い物が終わったならと、後ろ髪を引かれる想いで駐輪場へ向かおうとすれば、幼馴染に引き止められて、あれよあれよとしている間にフードコートにいた。
暑いからアイスでも食べようと。
奇数の数字が2つ並んだ有名なアイスクリームのチェーン店だ。
彼女は暑いとは建前で元々来るつもりだったのだろう。何を食べるか決まっていると言わんばかりに注文をしている。
それに対して俺はといえば、
困惑した。
ショーケースには綺麗に並べられた、少し離れたところから見える、カラフルなアイス。色を見ても味の検討もつかない。
自分の腕を握りこんで、体を縮こまらせて、そこから動けない。視線をうろうろさせてしまう。
「やっぱり、基ちゃんは甘いもの嫌い?」
声をかけられて顔を上げる。
坊主頭にお世辞に良いとは言えない顰めしい顔つき。筋トレを始めた今は余計、甘いものが似合わないんだろう。「やっぱり」にはそれが含まれている。
「違う!好き!…なんだが、その、初めてで…。」
自分でも思ったより大きい声が出てしまい驚いた。そのあとは高校生にもなって、アイスクリーム屋が初めてなのは恥ずかしいと思う頭があった。
自分の声にびっくりしたように目を真ん丸にする幼馴染と女性店員の顔も忘れられない。また、それに気づいては顔が熱くなったのも思い出せる。
幼馴染は冗談だよ。甘いの好きだよね。とカラカラと笑って、なら定番がいいよ!と、勝手に頼んでいた。
店員さんも大きめにしますね!と笑顔のトッピングもくれた。
良いのかな…無駄遣いじゃないか…。
考えていたことが口から出ていた様で。
「何で?基ちゃんが頑張って稼いだお金でしょ?自分に使っていいじゃない!」
私はお小遣いだから自慢して言うことじゃないけど…。と小さく続いた言葉ほとんど聞いていなかった。
彼女のその言葉に、当たり前だが目から鱗だった。
確かにいずれ家を出るための貯金もいるにせよ、自分で稼いだものだ。借金にならない限り、何に使うも自分に権利があるのだ。
それがあってからは、バイト代は貯金と甘いもの代になった。
それでもやっぱり、自分を甘やかしてしまいそうだから時々買うに留めたし、人の目が気になるので、今と変わらずこっそり買いに行くだけだったが。
そうして受け取ったアイスクリームはピンクのカップにキチキチと2つ詰められている。
ラズベリーとホワイトチョコのアイスクリームにゴロゴロと入るハート形のチョコ。店の名前が入ってるだけあって本当に定番なんだろう。
もう一つはミントとチョコのフレーバーに、細かいキャンディが混ぜ込まれた緑と白のアイスクリームだ。
ニコニコ顔でこっちを伺う幼馴染に見守られながら、カップと同じピンクのスプーンで掬い口に入れる。
あの衝撃と言ったら!
口入れたとたんに広がる、冷たい温度のクリーム。今まで食べたことがないぐらいのわかりやすく贅沢の味をしたアイスクリーム。濃い乳製品にこってりとしたホワイトチョコ。くどいと感じる前にラズベリーの酸味が舌を刺激する。もっとと大きく掬えば、一口目と変わらぬ感動にまた感動する。下の体温で溶かして喉奥に流し込めば、口に残る塊。歯を立ててやれば、コリッと小気味の良い音を立ててミルクチョコレートの香りが広がる。こんなにおいしいのか…。
緑のアイスクリームにスプーンを差す。同じようなものだろうかと心なしかウキウキしているのがわかる。
パチッ!
「」
思わず声が漏れてしまったのは仕方なかったろう。
口の中で何かがはじける。柔らかな口内にパチパチと小さく音を立てては爆ぜるのだアイスの味よりも想像しえない食感に目を白黒させてしまったことだろう。
向かいの幼馴染が、ふふっと笑みをこぼして、「飴だよ。」と教えてくれる。
そうか、飴。こんな飴もあるのか。口の中の小爆発をなだめるようにアイスクリームを含めば、即座に鎮静化されていく。こちらも濃いが先ほどよりさっぱりとしている気がする。…ミントはわからん。
2種類のアイスクリームはどっちも同じで似ていて、それでも違うもので。思わずパカパカと口に運ぶ。もったいないや味わうなんて頭から消えていたし、脳内麻薬とでもいうのか、ジャバジャバと脳内を侵食している。次を次をと手が止まらない。最後に溶けだしたアイスクリームもちまちまと舐めとる勢いでスプーンを使いこそいで、完食。思わずきっちりと合掌をする。勢いあまってそこそこな音がフロアに響いて、俺よりも幼馴染に恥ずかしい思いをさせてしまったな。
食べるのがのんびりな彼女を待つ。ゆっくり食べてくれて良い。いつの間に持っていたのか、この店のメニュー表を見せて話してくれる。自分が食べているのは季節のフレーバーだから今しか食べられないとか、これも俺が好きそうな味だとか…。
「…また連れて来る気か…?」
「うん!」
ニィッといたずらっ子の顔。つられた俺も同じ顔だったはずだ。
どちらともなく笑い声をあげたのだ。
暑い季節だったが、とっぷり暗くなっていた帰り道。もう大人しく怒られようと、二人で頷きあって帰路に着いた。
それでも、女の子だから少しだけでも早く返さなきゃなと、大通りを避け、車もひと通りも少ない裏道を、自分の自転車に彼女を乗せて走った。
腹に回る自分とは比較にならない白く細い腕、背中のぬくもり、いつもより大きい声。耳に届くアイスクリームの感想。肺を満たす生温い空気。立ちこぎが出来す、いつもより上がる心拍数。汗の量と比例する体温。彼女の涼やかな声が空に注意を向ける。
「基ちゃん、きっと金平糖好きだよ!」
小さいときにお前がくれただろう。好きだよ。
青春の1ページとでもいうのか、その経験があってからは、何かあればご褒美と称して度々、幼馴染を伴って食べに行った。
彼女はアイスクリーム以外にもお小遣い範囲のスイーツを教えてくれたものだ。
彼女が高校を卒業するときには、彼女の希望する学業と親の転勤の兼ね合いで、遠くへと引っ越してしまった。彼女と疎遠になれば、思春期の男子にかわいすぎる店は、一人では気恥ずかしく頻度が減ってしまった。
そんな俺も今では、三十路を超えた厳ついおっさんだ。
やっぱり働いている会社でも甘いものは苦手だと思われているようで、お土産なんかも用意がなかったり、しょっぱいものだったり少し寂しい思いをしている。
そして図太くなっても良いはずの心臓も、そうはならず、やっぱり恥ずかしいのだ。
というより、元々図太い神経をしていると実感しているし、心臓に毛が生えていると言われることもある。
でも、お菓子にだけはずっと思春期の男子なのだ。
そういう訳で、今回みたいな疲れ切った時のご褒美に、会社や家とは離れた、普段使わないような駅に買いに行くのだ。
疲れで羞恥心も鈍いのだ。
ちなみに、今日アイスクリームではなくドーナツなのは、女性社員が季節の新作が出るとかで騒いでいたのを聞いてしまったからだ。すっかり口がドーナツになっている。
自動改札機の定期券の範囲ではない音を聞きながら、足を進める。
こんな時間ではあるが、さすがに金曜日の夜。大きな駅前はまだまだ人が多い。
目的の店は夜中まで開いているうえに、早朝から開くというとんでもない時間設定のしてある、男性の敬称がついたチェーンのドーナツ屋だ。他の店舗がこんな時間で動いてないことはさすがに知っている。
ワンタッチの自動扉を潜れば、明るい照明が迎えてくれる。見渡せば、自分の様な仕事帰りの者や夜行バスまでの時間潰しか、大きな荷物を携えた大学生くらいの者だろうかが席をいくつか埋めている。それでも酒を出すような店でもないため、商品棚と同様にガランとしている。棚の方はざっと見ても、さすがに新作はないようだ。お決まりのトレイとトングを持ち、レールの上を滑らせる。
ついトングはカチカチと音を立てたくなるが、あまりに幼い行為なので我慢する。
こういうスイーツは学生の頃にハマったからだろうか大人になってからも少しジャンキーなものの方が好きだと自覚がある。大人になってからは余計と背徳感でうまい気がする。
お、まだあるな。ラッキーだった。
黄金色をした砂糖の塊がふんだんに、まぶされたチョコレートドーナツをトレイに乗せる。食べにくさは、もはや愛嬌といってもいい。全てが完璧なんだ欠点もいるだろう。1番好きだ。
腹も減っているし、甘やかしに来たので、まだいくつか選びたい。
マスコットキャラクターのライオンの立髪にもなっている、もちもちとしたドーナツにしよう。味もいろいろあって、どれもうまくていい。特に普通のとチョコレートのが好きだ。コラボ商品の抹茶も好きだ。昔より砂糖の量が減ったなと手に取る度思ってはさみしくなる。お目当ての品に手を伸ばせば、先に手を出している人に気づいて、慌ててトングを引っ込める。
すまない、自分しかいないと思っていた。本当に申し訳ない。心の中で独り言ちる。
ほとんど一方通行の棚の前でドーナツばかり見て、周りを見ていない自分に少し顔が熱くなる。
さて先人も行ったかと視線を戻せば、ドーナツを取るでもトングを引く訳でもなく固まっている。
なんだと思い顔を上げれば、
目を見開いたのがわかる。
鏡合わせの様に相手と同じ表情になっているのもわかる。
ツーブロックの髪型。猫の様な瞳。事故でできたとかいうシンメトリーの傷跡に、整えられた顎髭。
同じ会社の尾形百之助である。
2人して口も開いてポカーンとしてしまう。傍から見れば相当滑稽だろう。
その静寂を打ち破ったのは、尾形のほうだ。
「あー…、いりますか?」
小さな球体が連なったドーナツをトングで持ち上げて聞かれる。
人のこと言えないが、かわいいもの似合わないな。
「ん?あ、あぁ、そうだな。」
返事を聞いて、俺のトレイと自分のトレイにドーナツを乗せる。
トングで運ばれるドーナツ越しに棚を見れば、今日はプレーンしかもうないようだった。
また元のように隣に並んだまま、しばし見つめる。……お互いのトレイを。
お互い無言のまますれ違う。場所を入れ替わって目当てのドーナツを取ってそのままレジにトレイを置き、振り向く。
「時間あるな?何にする?」
レジ上のドリンクメニューを指さす。
「ははぁ、同じことを言おうと思っていましたよ。」
そう言って尾形が自分の持っていたトレイを隣に並べる。
「このドーナツ屋ならなぁ…。」
「話も長くなるでしょうしなぁ…。」
「「カフェオレ2つ。」
魅惑の金色の砂糖塗れのチョコドーナツに小さなボールが手を繋いだもちもちドーナツ、最後に足したホイップクリームがたっぷり詰められダメ押しで粉糖が大量にかかった穴の開いていないドーナツ。
濃い目の牛乳がたっぷり入った、絶対外せない濃厚なカフェオレ。
それが乗ったトレイが2つ。
自分のことがあるから、人を見た目で判断しちゃいけないとはわかってはいる。いるんだが!それでも、差し入れとかも断ってなかったか?なぁ?
尾形!お前も甘いもの好きなんだな?!
理解者というか共犯者というかができた気がして、足取りが軽くなった気がする。肩にぶら下がる背中の重りも、羽根になったとは言わないが、いくらかましになったような気がする。
いつもは無表情ではないが、不機嫌そうに見えることも多い尾形。今、下から盗み見る、尾形の表情もいつもよりまろい気がする。
席も空いているしと、4人掛けのテーブル席のソファに荷物を放って腰掛ける。
トレイをテーブルに置き、スーツのジャケットを脱いで、体制を整える尾形を見上げる。
さて、何から話そうか。
(甘いものが好きだけど隠してる月島さんと尾形の話)