親密度A+++ーー守護の節。
フェルディアの街は深い雪に包まれ、静寂があたりを支配していた。凍える寒気が王城の窓を白く曇らせ、外の景色はぼんやりとした輪郭を残している。この調子では、明日の朝には雪がさらに降り積もり、地上を白銀の静けさで覆い尽くしてしまうだろう。
暖炉の中で踊る炎にあたり薪がパチパチと爆ぜる音だけが響いていた。それ以外に聞こえるものは何もなく、冬の夜の静寂がディミトリの居室全体を支配していた。
ディミトリは部屋の一角にある椅子に深く腰掛け、手元の書簡をじっと見つめていた。しかし、その青い瞳は文字に焦点を合わせることなく宙を漂い、指先でペンの軸を弄びながら、動き出す気配を見せないままだった。考え事に囚われたような、なにも考えていないようなその姿は、数刻にわたって続いていた。
やがて、ハッと我に返ったディミトリは深くため息をつき、疲れたように額に手を当てた。
冬を迎えるにあたり、フェルディアではここ数日、市民総出で冬支度に追われていた。大変ではあったが、雪が本格的に降り始める前になんとか準備が整ったのは幸いだった。しかし、度重なる業務や対策に追われ、どうやら疲れが隠せなくなっていた。目は冴えているのに、思考はぼんやりと散り、視線も定まらない。それに、まだ手を付けなければならない仕事が山のように積み重なっている。
ディミトリはしばらくの間、静寂そのものと一体化していたが、その空気をふっと破ったのは、柔らかな声だった。
「疲れているなら、少し休んだ方がいい。」
暖かな飲み物を手にしたベレトが、静かに部屋へ入って来た。その声に、ディミトリははっと我に返ったように顔を上げた。
「どうしたんだそれ」
「暖かい飲み物が欲しいといったら淹れてもらえた。毒味は済んでる。安心してくれ」
オレが飲んだと、控えめに微笑むベレトの姿に、ディミトリは思わず肩の力を抜き、つられて笑みを浮かべた。
「フェルディアは寒いと聞いていたが、本当に冷えるな。」
そう言いながらディミトリにグラスを手渡したベレトは、暖炉の前へ歩み寄り、そっと手をかざした。その仕草はどこか落ち着いていて、柔らかな炎の光に照らされた横顔は、冬の冷たさとは対照的な温もりを帯びて見えた。
「雪のせいで予定が狂ってしまい申し訳ない。先生。」
ディミトリが申し訳なさそうに呟くと、ベレトはそっと首を横に振った。
「いや、構わない。これで正々堂々と休暇が取れる。雪のせいならセテスも何も言えないだろう。」
そう言ってベレトは嬉しそうにふふと笑みを浮かべた。最近、ベレトの表情が以前より豊かになったように感じる。かつては感情をほとんど表に出さなかった彼だが、今では微笑みや冗談すら自然に交えるようになった。張り詰めた戦乱を終結させた導き手が、ようやく重荷を下ろし、心の平穏を取り戻しつつあるのか。その柔らかな表情が暖炉の炎に照らされ、ディミトリの心を少し軽くした。
「ただ、雪のせいで皆に会えなかったのは少し残念だけどね。」
ベレトはそう言いながら、窓越しに見える雪景色に目をやった。
当初の予定では、今日は青獅子の学級の旧友たちが王城に集まり、ささやかな宴を開く予定だった。しかし、この雪では各地の領地からフェルディアに向かうことは難しく、特にファーガス神聖王国最北端の辺境伯であるシルヴァンに至っては、来春までフェルディアに来ることはないだろう。
「明日はゆっくりしよう。ディミトリ、お前も少し休むんだ。」
ベレトが優しく促すと、ディミトリは少し困ったように眉を寄せながら首を振った。
「いや、俺はまだやらなければならないことがある。この間にある程度捗らせておきたい」
その言葉に、ベレトは小さくため息をつきながらディミトリを見つめた。彼の瞳には疲労の色が濃く刻まれている。そう見えないよう、王としての威厳を崩さないよう努めているのだろうが、ベレトにはその無理が痛いほど伝わってきた。
「そんな顔色をして、何を言っている。お前は少し休むべきだ。」
ベレトはわずかに声音を厳しくして再び声をかけた。その言葉に、ディミトリは微かに眉を下げ、困ったように微笑んだ。
「これくらい、大したことではない。お前に心配をかけるほどのものではない。」
ディミトリの静かな声には、彼なりの気遣いと強がりが混ざっていた。だが、その言葉にベレトは胸の奥が痛むような感覚を覚えた。そして強く言い返したい衝動を必死に抑えた。
こうした無理が、どれほど彼の心身に負担をかけているかを、ディミトリ自身が気づいていない。それが何よりも歯痒かった。
「ディミトリ……」
ベレトは静かに名前を呼んだが、それ以上の言葉は胸の内に飲み込んだ。ただ、彼にどう伝えればこの無理を止められるのか、その答えを探るように、じっと彼を見つめていた。
「…オレはお前に、無理をしてほしいわけではない。」
ベレトはディミトリに一歩近づき、書簡に置かれた手にそっと触れた。
「ほら、手だってこんなに冷たい。お前は今や一国の国王だ。もうすこし自分の立場を考え、自身を大切にしろ。国民のためにも…オレのためにも」
ベレトの眼差しは、とても穏やかだった。厳しく叱るわけでもなく、責めるわけでもない。ただ静かに、彼を心から案じる気持ちが込められていた。
「お前一人が全てを背負い込む必要もない。お前は一人ではないのだから」
ディミトリはその言葉に驚いたように目を見開き、ベレトを見つめていた。暖炉の炎がベレトの表情を照らす。ベレトのまつ毛は微かに震え、その表情には少し困ったような戸惑いが浮かんでいた。何も言わずとも、彼がどれほどディミトリを心から案じているのかが、その瞳から伝わってくる。
こんなにも深く自分を心配してくれる人がいる――その事実に、ディミトリは胸が詰まる思いだった。自然と体から力が抜け、彼はそっと息を吐き出した。どこか張り詰めていた感覚が、ベレトの眼差しの前でゆっくりと解けていくようだった。
「……先生がそう言うなら、少しだけ隣で休ませてもらおう。」
ディミトリは観念したようにそう呟くと、微かに照れた笑みを浮かべた。その笑顔を見たベレトもまた、穏やかな表情で微笑み返す。
「よかった。これでもまだ休まないというなら、オレはこのままガルグ=マクへ帰ろうと思っていた。」
ベレトの穏やかな声が少しだけ冗談めいた響きを帯びると、ディミトリは思わず目を見開いた。
「……え?それは……困る。」
焦ったように言葉を返すディミトリに、ベレトは少し悪戯っぽく肩をすくめた。
「いや、だってお前が仕事しかしないなら、オレがここにいる意味がないだろう?」
その言葉に、ディミトリは再び言葉を失った。確かに多忙なのはベレトも同じだ。次に会うとしたら、数節後になってしまう可能性すらありえる。そんなの耐えられない。
「それは……困る。本当に困る。」
ディミトリはそう呟きながら、再びベレトの顔を見つめた。その瞳には焦りと、言葉にしきれない感情が滲んでいた。
ベレトはそんなディミトリを見つめ直し、少し優しげな微笑みを浮かべた。
「なら、今は素直に休んでくれ。オレもここにいる意味がほしいんだ。」
その一言が、ディミトリの心にじんわりと温かく染み渡った。自分のためにここにいてくれる――その事実が、張り詰めた胸を静かにほぐしていくようだった。
ディミトリは静かに頷き、ほんの少しだけ肩の力を抜いた。その様子を見たベレトは、微笑みながらそっと手を伸ばし、ディミトリの金色の髪を優しく撫でた。
「よくできました。」
柔らかな声で耳元に囁かれたその言葉に、ディミトリの頬が微かに赤く染まる。恥ずかしさを隠すように視線をそらしたが、どこか嬉しそうな表情がその顔に浮かんでいた。
「……先生、まるで子ども扱いだな。」
照れ隠しのように呟くディミトリに、ベレトはくすっと笑いながら肩を軽く叩いた。
「それくらいがちょうどいいんだよ、お前には。」
その冗談めいた言葉に、ディミトリは思わず苦笑する。けれど、ベレトの優しさに甘えてみ流のも悪くないと思っていた。
このあと休ませる気まったくない話です
※二人はこの時点では付き合ってません
◾️
ベレトは自然と手を伸ばし、ディミトリをそっと抱きしめた。彼の体躯は自分よりも大きく、しっかりとした腕がその広い背中に触れるたびに、その存在の確かさを感じる。それでも、ディミトリは抵抗することなく、まるで子どものように素直にその抱擁を受け入れていた。
その様子に、ベレトの胸はじんわりと温かくなる。「愛しい」という感情が、どこからともなく湧き上がり、彼の中を満たしていった。
戦乱の中、幾度も傷つきながら苦労を重ねてきたこの男が、今こうして安心しきった表情で自分の腕の中にいることが、純粋に愛おしかった。
「ディミトリ……」
ベレトは彼の名前をそっと呼びながら、さらに腕に力を込めた。自分にできるのは、ただこうして彼を甘やかし、その疲れた心を癒すことだけ。それでもいい、そう思えるほどに、目の前の男がどても大切だと思えた。
「ここまで頑張ってきたな。本当に、よくやったよ。」
耳元で囁くように言うと、ディミトリはわずかに目を閉じ、静かに息を吐いた。その姿がどこか幼さを残して見えて、ベレトはさらに強く「守りたい」という気持ちを抱いた。彼のすべてを包み込み、もう二度と心が張り詰めることのないように――そんな願いを胸に、ベレトはディミトリの背中をそっと撫でた。
「先生は……俺を狂わせる……」
ディミトリの声が低く漏れ、どこか苦しげに響いた。その言葉に、ベレトは驚いたように目を瞬かせる。抱きしめたままの彼の体がわずかに震え、胸元で握られた拳に力が込められているのが分かった。
「ディミトリ……?」
静かに名前を呼ぶベレトの声には、戸惑いと心配が滲んでいる。だが、ディミトリはその声に応える代わりに、さらに強くベレトに身を寄せた。
「お前の優しさが、温かさが……時々、俺の理性を揺さぶる。」
ディミトリの低い声には抑えきれない感情が混ざっていた。まるで、これ以上抑え込むことができないと言わんばかりの必死さが伝わってくる。
ベレトは一瞬、彼の胸の奥にある混乱と葛藤を感じ取った。そして、彼の背中を優しく撫で続けた。
「お前がその感情を隠さずに伝えてくれるのは、オレにとって嬉しいことだ。」
その言葉に、ディミトリは一瞬息を詰まらせた。その後、ゆっくりと顔を上げ、青い瞳でベレトを見つめた。
「先生は……どうしてそんなに優しくしてくれるんだ。」
ディミトリの問いかけに、ベレトはわずかに目を細めて微笑みを浮かべた。
「ただ……お前のことを守りたい。それだけだよ。」
その言葉には、どこまでも真っ直ぐな気持ちが込められていた。そして、ベレトは少し言葉を詰まらせると、視線をディミトリの瞳から外し、静かに息を吐いた。
「……後、二人の時はせめて、先生じゃなくてベレトと呼んでほしい。」
ディミトリの肩に手を置いたまま、どこか戸惑いがちにそう告げる。その言葉に、ディミトリは目を瞬かせ、しばらく言葉を失っていた。そして、ディミトリは小さく息を吐き、微かに赤くなった頬を隠すように視線を逸らし、低く響く声で囁いた。
「……分かった。これからは、ベレトと呼ぼう」
ディミトリの低く真剣な声に、ベレトの表情が柔らかくほころぶ。その瞳には喜びと照れが混ざり合い、微かに揺れていた。そして、ほんのわずかに肩を震わせながら、小さく笑みをこぼした。
「はは……なんか、いざ呼ばれると恥ずかしいものだな……。」
ベレトがぽつりと漏らした言葉は、照れ隠しのようにも聞こえた。
「恥ずかしいかもしれないが……その方がいい。ベレトと呼ぶことで、少しだけお前を特別に感じられる。」
その一言に、今度はベレトが目を逸らすように視線を落とした。
「……そう言われると余計に恥ずかしいだろ。」
ベレトは静かにディミトリを見上げた。その瞳には穏やかな光が宿り、普段の冷静な表情とは少し違う柔らかさが浮かんでいる。
普段はどんな場面でも揺るがない彼が、こんなにも無防備な姿を見せる。それが自分にしか許されていないという事実に、ディミトリの胸には優越感が静かに広がっていった。彼はその思いを抑えることなく、自然と手を伸ばす。
「……ベレト。」
囁くように名前を呼びながら、ディミトリはそっとベレトの顎に手を添えた。驚いたように目を瞬かせるベレトだったが、その仕草すらディミトリにとって愛おしかった。そして、迷いのない動きで彼の唇に軽く触れた。
最初は短い啄みだったが、その瞬間、ベレトがわずかに身を固くしたのが分かった。それでも何も言わず、拒絶もしない。その受け入れるような静けさに、ディミトリの胸が熱くなった。
「……悪く思うな。」
そう低く呟き、再び唇を重ねた。先ほどよりも深く、確かめるように。そして次第に、彼の動きは感情に引き寄せられるように大胆になっていく。ベレトの唇の温かさと柔らかさを感じながら、ディミトリはさらに深く絡め取るようにその唇を奪っていく。ベレトはディミトリの温もりを感じながら次第に緊張を解いていった。
唇が深く絡み合う中、ベレトは息をつこうとわずかに口を開いた。その瞬間、小さく漏れた声が部屋の静寂を破る。
「あっ……ん。」
控えめながらもどこか艶やかなその声が、ディミトリの耳に届いた途端、胸の奥に熱が走るような感覚が広がった。
ディミトリの瞳がわずかに揺れ、彼の手に自然と力がこもった。抱き寄せたベレトの体温が、自分の中に伝わってくるたびに、彼の心はさらに深く引き込まれていく。
「……ベレト。」
低く囁くように名前を呼びながら、ディミトリはもう一度唇を重ねた。その動きは、先ほどよりも深く、そして確かなものだった。互いの熱がじわりと伝わり合い、二人の距離がさらに近づく。
ベレトの腰に添えられたディミトリの手は、優しさと力強さを兼ね備えたものだった。それはまるで、彼を守ろうとする意思と、決して手放さないという決意を込めたようでもあり、彼の存在を自分の中に確かめているかのようだった。
ベレトの体は小さく震えながらも、逃げることなくディミトリに身を委ねていた。ディミトリの青い瞳が一瞬揺れ、彼の中にさらなる熱が生まれた。ベレトの様子は、彼の無防備さと受け入れる心を如実に表しているようで、ディミトリは胸が締め付けられるような感覚を覚えた。
「今更こんなことを言うのもなんだが……愛してる、ベレト。」
ディミトリの低く真剣な声が静かな部屋に響いた。その青い瞳には迷いのない熱が宿り、まっすぐにベレトを見つめていた。
しかし、その言葉を聞いたベレトはふっと吹き出し、口元を押さえて肩を震わせた。
「このタイミングで言うのか?それ。」
「いけなかったか?」
困惑したように眉を寄せるディミトリに、ベレトは笑いをこらえながら首を振る。
「いや……悪くはない。むしろ、お前らしくもある。」
くつくつと笑いながら、ベレトはそっとディミトリの首筋に唇を寄せた。その仕草にディミトリの体が僅かに震えた。
「オレもお前が好きだ。……たぶん。」
「…?!多分?!」
ディミトリは目を見張り、驚きと戸惑いがその表情に浮かぶ。その様子にベレトはさらに小さく笑い、ディミトリの肩を軽く叩いた。
「俺は感情らしい感情をあまり持っていなかった。笑うことも、怒ることも、泣くことも……何もなかったんだ。そんな中でも、お前に関わることすべてにおいて、心が揺さぶられるようになった。それは…きっと、愛なんだろう。…おそらく。」
ベレトの静かな声が、暖炉の揺れる炎の中でどこか優しく響いた。その言葉に、ディミトリはしばらくじっとベレトを見つめていたが、やがて深く息を吐き出し、微笑んだ。
「たぶん、か。……だが、それでも嬉しい。お前のその言葉だけで、俺はこれからも生きていける気がする。」
ベレトはその言葉にまた少し笑みを浮かべ、今度は優しくディミトリの頬に触れた。
「オレはお前が愛しくて仕方がない。難しいことは考えずに、オレのそばにいてくれればそれでいい。」
そう言ってベレトは微笑みながら、今度は自分からディミトリの唇にそっと口付けをした。
唇が触れ合うたびに、互いの体温が溶け合うような感覚が二人を包み込む。ディミトリの大きな手が自然とベレトの背中に回り、その繊細な体を優しく抱き寄せた。
唇を離した後も、二人の距離はほとんど変わらず、ベレトの息遣いがディミトリの耳元で感じられるほど近かった。
「……これで、たぶんじゃなくなったかな…」
ベレトは少し照れくさそうに微笑みながら言う。その瞳には、かつての無表情では見られなかった柔らかな感情が浮かんでいた。ディミトリは一瞬驚いたようにベレトを見つめたが、次の瞬間には穏やかな笑みを浮かべ、額をそっと重ねた。
「……ああ、これで十分だ。もう何も疑う必要はない。お前は間違いなく俺を愛してる」
堂々と言い切るディミトリにベレトは小さく微笑んだ。
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この二人はいつも初々しく
まるで初恋のように愛を語り合うんです。
正直、見ている方は、しんどいというか…勝手にしてくれって感じですかね
(ゴーティエ辺境伯談)