殿下と先生のレベル0 新任の担任についての噂は、瞬く間に士官学校の生徒たちの間を駆け巡った。新しい教師が来るという知らせだけで、好奇心旺盛な生徒たちの中ではさまざまな憶測が飛び交い始める。
「セイロス騎士団の元団長らしいぞ。屈強で、厳しい指導をするらしい。」
「いや、それどころか伝説の魔道士だって聞いたけど?」
「それはないだろう、3クラス全員魔道系の教師になる」
そんな憶測の数々は、実態を伴わないまま独り歩きをしていく。現在士官学校で教鞭をとっている教師陣の年齢や経歴を考えると、屈強で経験豊富な人物が着任するだろうというのが大方の予想だった。しかし、いざその「新任教師」が青獅子の学級に現れると、多くの生徒たちは驚愕した。
扉を静かに開けて入ってきたのは、予想とはまるで異なる姿だった。年齢的には自分たちとさほど変わらないように見える若い青年。教壇に立つ彼の姿は端正で、確かに美しい。しかし、その端正な顔立ちに浮かぶ表情は、驚くほど乏しかった。その姿にその場にいた多くの生徒が息をのんだ。
「もしかして、間違いとか……?」
教室に漂うざわめきをよそに、青年は静かに口を開いた。その声は驚くほど落ち着いていて、余計な抑揚を排した淡々としたものだった。
「今日から、この学級を担当することになった。ベレト=アイスナーだ。」
それだけを告げると、青年──ベレトは生徒たちの顔を見渡した。だが、その瞳には感情の色が宿っているようには見えない。どこか空虚さすら感じさせるその視線に、生徒たちは思わず身を引き、最初に抱いた「不安」をますます強くしていった。
「……なんか、怖くないか?」
「何考えてるのかわからない感じ、苦手だな。」
そんな声が小さく交わされる中で、ベレトは静かに教鞭を手に取り、教材を手に取るる。そして、それ以上はなにも言わずに淡々と授業を始めた。
生徒たちはその先を知る由もなかったが、これが士官学校における「特別な学級」の始まりであり、彼らにとって生涯忘れられない日となるのである。
ただ一人、ディミトリ=アレクサンドル=ブレーダッドだけは、周囲のざわめきをよそに静かに微笑んでいた。
(教団に加入したとは聞いていたが……まさか、教師とはな。)
青獅子の学級の級長であるディミトリにとって、その青年の姿は予想外でありながらも、どこか腑に落ちるものがあった。彼が知る限り、ベレトの実力は群を抜いている。剣士としての腕前はもちろんだが、冷静な判断力や実行力もまた、彼がこれまで共に戦場に立った誰よりも信頼できるものだった。
とはいえ、この学級の担任として彼が選ばれたことに、ディミトリは心の底から安堵していた。どこか近寄りがたい雰囲気や、感情が乏しいように見える表情に不安を抱く者もいるだろう。しかし、彼の真摯さとその実力を知る者なら、そんな不安はすぐに消えるはずだとディミトリは確信していた。
(彼ならきっと、この学級を導いてくれるだろう。)
ディミトリは目を細めながら、ふと教壇に立つベレトを見つめた。その姿には微塵の動揺もなく、ただ淡々と自分の役目を果たそうとしている。教鞭を手にした彼は、どこか厳粛で、それでいて飾らない自然な佇まいをしていた。生徒たちの不安げな視線にも動じず、平然とした様子を保つその姿に、ディミトリは心の中で小さく息をついた。
(本当は王国で雇用したかったのだが……)
ディミトリは教壇に立つベレトを見つめながら、心の中でそんな未練を抱えていた。あの日、彼と共に戦い生死を乗り越えた出来事が、今も彼の胸に深く刻まれている。だからこそ、彼が王国へと身を置いてくれたなら、どれほど心強かっただろうかと思うのだ。
とはいえ、それでもディミトリは、こうして教師として青獅子の学級を彼に任せることができたのは、何よりの幸運だった。
(少なくとも、今はこうして共に時間を過ごすことができる。それで十分だ。)
ディミトリは軽く息を吐き、心を鎮めるように教室の様子に目を向けた。新任教師の着任という特別な日もあってか、生徒たちの間にはどこか浮ついた空気が漂っていた。それでも、教壇に立つベレトだけは静かにその役目を果たし、彼の声は確かに教室全体を包み込んでいた。
教室のざわめきは、彼の思索を妨げることなく続いていたが、ディミトリは静かに目を伏せ、椅子に身を預けた。久しぶりに得た自由な時間の中で、彼の存在が、自分にとってどれほど大きな意味を持つのか。その答えを今すぐに出すことはできないが、ディミトリの心には確かに一つの願いが浮かんでいた。
(これから先、どんなことが待ち受けているのだろうか。)
ベレトが教壇の上で話す声が穏やかに響く中、ディミトリはただ物思いにふけり、その背中を見つめ続けていた。