【飯P】蝋の翼 夕陽が今にも沈まんとし、濃い赤に変じた地平線が視界をくっきりと切り分けている。太陽の最後の光が天頂を目指して伸びていたが、空の東側は既に、夜に染まりつつあった。
たまには身体を動かしたいという悟飯に付き合って、ピッコロは広々とした草原にいた。本気で打ち合えば、もはや勝負にならないことは互いに分かっている。とはいえ充実した時間を過ごし、身体には快い疲れが満ちていた。
「イカロスの物語って、知ってます?」
服を整えながら、不意に悟飯が言った。
「鳥の羽を蝋で固めた翼の、地球人の神話だな」
「そうそう! 太陽に近付きすぎて……翼が溶けて墜ちてしまう」
夕陽を背中から受ける悟飯の表情は、影となりおぼろげだ。まだ少年だと、子供だとばかり思っていたピッコロの記憶を裏切り、瞳はいつの間にか大人びていた。
「何故急にそんな話を? 宗教学はお前の専門じゃないだろう?」
悟飯はほんの少しだけ考える素振りを見せ、目を撓ませて答えた。
「子供の頃からずっと、僕にとってピッコロさんって、太陽でした。守って導いてくれる、眩しい光……」
「……そんなに立派なものではないが」
夢見るような穏やかな口振りにくすぐったくなり、ピッコロは肩を竦めた。
「ううん、僕にとってはそう。だから触れちゃいけないって……イカロスみたいに墜ちちゃったら、二度と近付けなくなるからって、思ってて」
明るく話す悟飯の言葉には、言葉以上の意味が含まれているように思えてならなかった。笑顔なのに、真意が読み取れない。ピッコロはかすかな戸惑いを覚え、悟飯のまなざしを静かに受け止める。
悟飯が歩み寄り、ピッコロの片手をとった。抵抗せずにいると、指と指を絡められる。決して強い力ではないのに、振り払えなかった。
「でも、考え方が変わったんです。気付いた、って感じかな」
「……気付いた?」
ぐっと引き寄せられ、腰に腕を回される。強く抱きすくめられて、こんな風に全身で密着するのは、子供のころ以来だと思い当たった。抱き寄せる力も、触れた身体の厚みも、ひ弱な少年のものではなく青年のものだ。あのころとは、まったく違っている。腰を固定している腕が、広範囲に触れている身体が、妙に熱い。
……ピッコロとて、地球人の欲求について何も知らないわけではない。悟飯の中に、いつ境界を乗り越えようかと機会を窺い続ける獣があることも、いつしか気付いていた。
しかし、師弟の関係を逸脱した欲望を、こんなにもあからさまに向けられるのは初めてだった。咄嗟に逃れようと身を捩ると、悟飯の腕の力が強くなる。
「悟飯、放せ……」
「本当に放してほしければ、もっと抵抗できるでしょう」
先程までの明るさとは一転して、昏いほど熱っぽい声が返ってくる。胸元で顔を上げた悟飯の瞳には、宵のほの暗さでも隠しきれないような、情欲の熾火が宿っていた。悟飯のためにならない、やめさせなければ、と頭で考えているのに、ピッコロの身体は思うように動かない。
指を絡めていた片手を離して、悟飯はピッコロの頬に手のひらを当てた。触れるか触れないかで肌に触れている手のひらが、頬から喉へ、喉から首筋へゆっくりと下ろされる。薄く無防備な皮膚を撫でられ、怖気に似た未知の感覚がピッコロの背筋を走り、全身が粟立った。不覚にも息が詰まる。反射的に悟飯の手首を掴もうとしたが、やはり腕が動かせない。
「イカロスは、太陽に近付きすぎて墜ちた。僕も同じように近付きすぎて、溶けて墜ちちゃうとしても」
互いの吐息が混じり合うほどの距離で、甘く囁く悟飯の声が、ますますピッコロの自由を奪う。
「こうして捕まえさえすれば、ピッコロさんはきっと一緒に墜ちてくれるって気付いた。そうなればもう、翼なんて要らないですよね」
首筋にあった悟飯の手のひらが、今度は指先だけで喉を這い上がり、顎を辿って唇に触れる。軽く指を当てられているだけなのに、全身の血が熱されたように思考が麻痺する。
夜の藍色は、いつしか空全体を覆っている。イカロスを決して近付けなかったという太陽は、既に光を失い、闇の中に呆気なく沈んでいた。