虹と紫陽花「……虹には性別があるんだよ」
雨水をとっぷりと吸い込んだ独特なコンクリートの匂いのする通学路で、私は彼にそう話しかけた。先ほどまでザアザア降っていた天気雨がようやく止んで、校舎から出て二人で並んで帰っていた時の話だ。
「何それ。生物じゃないのに男も女もないだろ」
あなたは私の与太話に、さしたる興味もなさそうな声でそう呟いた。眩いばかりの日差しに照らされた桔梗色の髪がキラキラ光っている。その様はまるで、水の滴る紫陽花のようであった。
「夢がないね」
「生憎俺はリアリストなんでな。ロマンティックを求めるなら違う男に話してやれ」
紅色の瞳をフッと細めながら、そう言ってあなたは意地悪そうに笑う。その全てを見通すような瞳が大好きで、とても気に食わない。
こうやって二人で話していると、彼は私の好意に気づいているのかなぁなんてくだらないことを考えてしまう。たまたま委員会の仕事が被ったことで出会った13歳の頃からはや4年。数多の人間と出会って別れてをを繰り返してきたけれど、なんだかんだで彼とは4年間交流を続けている。
たかが4年、されど4年。
でも、たった一人への恋心を拗らせるには充分すぎる時間だ。むしろ長すぎるくらいだった。オレンジ色の夕陽が差す教室で初めて彼を見た時から、私はずっと心を奪われ続けている。
「ロマンティックを求めるからあなたに話してるの」
「お前の見たておかしくない?」
「おかしくないよ」
自分より頭一つ分高い位置にある彼の顔に向けて笑いかける。そうだ、おかしくなんてない。私がロマンを求めるのはあなたにだけだ。……なんて。ここまで言えてしまえたら、4年間も思いを拗らせるような面倒な女にはなっていないというのに。
そんな自嘲気味な思考をしながら、私の思いなんて素知らぬ顔で歩く彼に話を続ける。
「折角だから見分け方を教えてあげるよ」
「いや別に興味ねぇんだけど」
本当にどうでもよさそうな声で、あなたは気だるそうにそう呟いた。それでも私のことを置いて先に歩いて行かないあたり、機嫌は悪くなさそうだ。少なくともこの無駄話に付き合って帰宅してくれるくらいには興が乗っている。
その事実に、少しばかり心から浮き足立つのを感じた。今日は運が良いと心の中でほくそ笑む。
実のところ、彼とこうやって二人で話すのは実に一ヶ月ぶりだった。友達(本人曰く違うらしいけど、側から見たら友達以外の何者でもない。)も多くて普段から人に囲まれている彼と、生来の人見知り故友人なんて片手で数えられるくらいしか居ない私は普段違う世界にいるからだ。
じゃあなぜ今日こんな風に二人で帰宅しているのかというと、下校時刻に突然降り始めた天気雨が原因であった。私は委員会の仕事で先生に呼び止められたせいで帰宅が遅れ、そんな折に玄関口で出会ったのが彼だったのだ。
久しぶりだねとか、傘持ってきてないんだとか、天気雨だからすぐ止むかな、なんてたわいなく愛おしい会話を交わし、予想通り見事に雨が止んだから共に帰宅しているというのが今の話である。
「よく見る普通の虹は雄の虹なんだよ」
「雌は?」
「んーとね、……あ、見える。アレだよ」
「どれ」
「濃い色の虹の上にあるやつ。雌は赤が外側で紫が内側に来るの」
「ふーん」
まるで興味のなさそうな声であなたはそう相槌を打つ。もうちょっと人の話を聞けよという気持ちと、そんなに興味なさそうなくせに相槌は打ってくれるんだ、という相反したような気持ちが心の中でないまぜになった。
だって私の話に興味がないくせに相槌は打ってくれるということは、もうそういうことじゃないか。恋心で鈍った思考回路が楽観的な考えに傾く。期待しすぎるのは毒だと分かっているけれど、それでもやめられないのが辛いところだ。
「……あ、」
「どしたの」
「ワリ。俺今日こっちだわ」
そう言って、あなたがひらっといつも通らない方の道を指差す。彼の家がある方向では勿論ないし、彼の相棒であるルビー君の家がある道でもない筈だ。確かあちらは繁華街の方向だったと思うが、一体全体なんの用事だろうか?
聞いても良いのかななんて考えながら、抑えきれなかった好奇心が口から零れ落ちる。
「何か用事?」
「ン、ちょっと誕プレ買いにな」
その返答に、ズキりと心が痛むのを感じた。先に言っておくと、彼は誕生日プレゼントを易々と他人に渡すような人間じゃない。ルビー君とかザキ君とか、彼が本心から友達と呼ぶような人間にしかプレゼントなんて渡さないから。
そして、私が知る限りその『友達』の中に11月産まれの人間なんて居ないのだ。ルビー君は七月、ザキ君は五月、キラ君は二月で紅葉ちゃんは九月……。考えを巡らせて可能性を潰していく度、自分の心に負荷をかけていくようだった。
それでも耐えられなくて、私が知らないあなたの一面があることが傲慢にも許せなくて、私は震える声を誤魔化すように、できるだけあっけらかんとした調子になるよう口を開いた。
「…………11月産まれの人って、誰かいたっけ」
「え?何言ってんの。お前の誕生日11月だろ」
一瞬、自分の心臓の音が止まったような気がした。
今の言葉が頭の中で反響する。また別の震えに体が襲われた。嬉しさと困惑と、言いようのない高揚感がグルグルと胸の中に渦巻いて息が苦しくなる。顔が火照ったのが自分でも分かり、小さく吐き出した自分の息までもが熱い気がして、頭がのぼせたように鈍くなった。
「それ、って」
「ハハ。ンじゃ、また明日な」
あなたは小さくそう笑って、タッタッタと向こうの道に駆けて行ってしまった。運動神経の悪い私ではきっともう追いつけない。
私は遠ざかって行く彼の背を見つめながら、鞄の奥底に仕舞ってあった折りたたみ傘を握りしめた。
私は彼に嘘をついた。私は傘を持っていた。それなのに言い出さなかったのだ。あの校舎の玄関で出会った時、私は本当はあのまま帰れる筈だった。
それでもあなたの姿を見つけたせいで、出しかけていた傘を鞄の奥底に無理矢理沈めたのだ。どうしてもあなたと話す口実が欲しくて、あなたと話しても許される状況が欲しくて!
火照った頬を冷えた風が掠める。ヒートしそうな程に茹だった脳みそが徐々に冷やされて行くのを感じた。
フッと顔を上げると、空にかかる二つの虹が見えた。雄の虹と雌の虹。二つは寄り添うように青空にかかっていて、それが泣きたくなるくらい綺麗だった。
あの二つの虹は夫婦なんだよ、と言ったのは誰だったか。記憶を辿っても思い出せない。昔何かの本で読んだ言葉だったと思うのだけど、とうに忘れてしまった。
彼は自身ことをリアリストだと言っていたけれど、それを言うなら私は多分ロマンチストだ。
二つの虹に自分の恋心を重ねながら、暫くぼうっと空を眺めていた。