逃げ場無し…またやってしまった。
寝起きとはいえこのヘマをやらかすのはこれで二度目だ。ギラギラと目障りな照明が目に刺さり、女客の高い笑い声が鼓膜を揺さぶり思わず眉間の皺を深めた。
他の店ならまだしも、前回といい何故よりにもよってここに辿り着くのか、自分自身へのヘイトが募る。
レビューの店名は嫌というほど確認しろとあれほど自分自身に言い聞かせたはずだったが、効果はなかったらしい。
目の前にいる前髪の長ったらしい男は切れ長の目を一層細めて、呆れ果てたように薄い唇を開いた。
「見ての通り営業中だが。何か用でも」
「…あー……」
こいつの邪険な態度には毎回カチンとくる。また店を勘違いしたとは言い難い。こいつに1ミリでも間抜けだと思われるのは癪だ。
寝起きでボヤつく頭で他の言い訳を思案していると、視界の端にチラリとピンク色がチラついた。
「びっくりしたー!まさかルーイが僕を指名するなんて。ルーイって全っ然こういうの興味なさそうなのに」
「…やむを得ずってヤツだ。勘違いすんじゃねー」
営業開始間も無くで席も空いていたせいか、苦し紛れに颯を指名すると案外すんなり席に通された。
照明に照らされた颯のアクセサリーの反射が寝起きの目に痛い。視線を合わせないまま悪態をつくと、そんなのお構いなしに隣に座ってくる。
派手なスーツから微かに人工的なムスクの匂いがして、匂いまであの頃と変わってしまっていることに微かに歯噛みした。
「コーヒー飲みに来たの?またブラックしか飲まねーとか言うんでしょ?」
悪戯っぽく笑うその表情には、確かにあの頃の面影がある。でも今目の前にいるこの男は、あの日思い描いていた加納颯太の将来像とはあまりにもかけ離れていて。
こんなことで上手いこと言い返してやれなくなる自分が酷く情けなく思えて、カフェで会ったあの日みたいに思わず背を向けたくなる。
…やっぱあのまま帰りゃよかった。
後悔し始めた頃に颯がメニューを開きながらまた話しかけてきた。
「コーヒーもいいけどさ、僕今カクテルの練習中なんだよね」
「カクテル?」
「浄に教わってるんだ〜。どう?一杯。練習台にしようとかじゃないんだけどさ」
練習台にする気でしかないだろ。そもそも目を覚ますために外に出たのに、酒を飲んで眠くなっちゃ元も子もない。
コーヒーで良いと言いかけたところで、前に出されたラテアートのことを思い出して口を噤む。
あの頃のことをチラつかせるのに、『過去なんてどうでも良い』と言い放つコイツの姿が脳裏に焼き付いていて、それが酷く虚しくて、気づけば親指を口元に運んでいた。
「…もうなんでも良いから飲み物出せ。飲んですぐ帰る」
「じゃあ決まりね!ちょっと待ってて」
大きな目を輝かせてカウンターに向かう颯を見送る。あの日の狭かった背とは比べ物にならないそれに、肺いっぱいの溜息をつく。
時間にすればたった数分だったんだろうが、待っている間のあまりの落ち着かなさに軽く膝を揺すっていると、颯が片手にグラスを持って戻ってきた。
「綺麗でしょ〜!バイオレットフィズってカクテルなんだ。どうせなら炭酸のほうがいいかと思って」
テーブルに置かれたそれは、透き通った紫色をしていて、水面に浮かんだ鮮やかな黄色のレモンに炭酸の泡がまとわりついている。
静流なら詳しいんだろうが、俺はこの手の話題には疎い。普段から酒はビールぐらいしか飲まない人間がカクテルの種類なんて知る由もない。
冷えたグラスをとって中身を口に流し込むと、レモンの酸味とシロップの甘味に油断したところで、リキュールが喉の粘膜を焼いた。
大した度数じゃない筈なのに、空きっ腹に流し込んだせいかキツく感じて、一気飲みして終わらそうと握ったグラスを一度置く。
「どう?気に入った?」
興味深そうに覗き込んでくる青緑色の大きな瞳が、酩酊と覚めない眠気で滲んでぼやけた。
アジトに戻ると、静流とランスが迎えた。眠くてしょうがないからベッドに直行しようとしたところで、静流に肩を組まれる。
「ど〜こ行ってたのさ。珍しいじゃん?酒の匂いなんかさせちゃって」
「別に外で酒ぐらい飲むだろ」
「でもリーダーが一人で飲むことってないでしょ。しかも…さてはビールじゃないね。カクテルかな〜誰と飲んだんだろ。ねぇランス」
何で分かるんだよ。そんなに強い匂いはしない筈だろ。酒に関する勘の良さじゃコイツにはどう足掻いたって敵わない。
ニヤつく静流に対し肯定も否定もできず黙っていると、酷く複雑な知恵の輪をいじっていたランスが口を開く。
「そういえば…カクテルにはそれぞれ込められた意味があって、意中の相手にそれに対応する銘柄を出すことで想いを伝えようとする文化があるらしい」
「あ〜カクテル言葉ってヤツね。女の子に教えてあげると盛り上がるんだよな」
「くだらねー」
酒に意味なんかあるわけないだろ。他ならともかく、アイツだし。
心底馬鹿馬鹿しいと思いつつも、戻った部屋で一人ブラウザを開く。…意味なんかあるわけない。だから頓珍漢な言葉であってくれ、そう願った。
どのサイトを見ても、どのソースを辿っても、バイオレットフィズの意味は統一されていて、毎度表示されるその一文に、後頭部を殴られたような感覚を覚えて、手のひらに汗が滲む。
スマホをベッドに放り出して、俺もそこに倒れ込んだ。やるせ無さに枕を掴んで、重くなった頭をそれで覆う。
「…覚えてる、嫌ってほどにな」
「忘れてるのはお前の方だろ」
誰にも聞こえないように呟いた言葉は、自分でも分かるほど震えていた。