【鳴保】チョコレートディスタンスこれまでバレンタインに特別関心を寄せたことはなかった。
毎年ある季節イベントの1つ。せいぜい、チョコに翻弄され乱闘を始める部下たちを眺めては、腹を抱えながら目尻に涙を浮かべるといったお笑いイベントみたいな立ち位置だった。
そう、去年までは。
まさか自分がチョコに振り回される側にまわる日が来るとは思っていなかった。
有明りんかい基地の隊長室を眺めつつ、保科は布団の上で胡坐をかきながら思わず苦笑いをこぼした。
ここが事件現場なら証拠だらけやな。
電源が入ったままのゲーム機本体と、床に放置された別機種のコントローラー。腰高まで積まれたダンボールに占拠された部屋の中心にはシングル布団が敷かれ、掛け布団の上には脱ぎ捨てられていた隊服や部屋着がグシャリと山を作っている。
サボり魔のあの人のことだ。仕事を放棄してゲームに没頭し、そこを長谷川に見つかったとかで今頃説教でも食らっているんだろう。
しゃーない人やな。
まぁ、こっち来るって連絡はしとるし、そのうち戻って来るやろ。とりあえず待っとくか。
暇を持て余すことになった保科は、膝に乗せていた大型クッションに頬杖をついた。
チラリ。引き寄せられるように保科は執務机に視線を遣る。
今にも雪崩を起こしそうな書類の間には、控えめなピンクのリボンがかけられたダークブラウンをした正方形の小箱が1個。
どう見ても浮いている。
自分で置いておいてなんだが、肩身が狭そうを通り越して場違い感しかない。
自分とは縁遠いイベント。そう思っとったんやけどな。
「自分で思うてるより浮かれとんのかな、僕は」
溜息を吐きながらゴロリと布団に寝転び、抱えていた大型クッションを脇に置く。隊長室の中で一番きれいな部分といっても過言ではない天井が視界いっぱいに広がった。
「ラズベリーに近い味やて説明書きされとったけど、鳴海さんの好みやろか」
自分以外は誰もいない中での一言。聞き手がいない確かなひとり言だった。
それでも素直な気持ちを声にした途端、胸のあたりで居た堪れなさが一気にぶわりと膨れ上がった。
今日、人生で初めてバレンタインチョコを購入してしまった。
有明に向かう前に馴染みのパティスリーに足を運ぶと、ハッピーバレンタインの文字の下に特設コーナーができていた。物珍しさにショーウィンドーを覗けば、馴染みのないチョコレートが目に留まった。
ドーム型をしたスモークピンクの塊は、きらきらと特別なチョコレートらしく上品な光を放っていた。
ルビーチョコ、いうんか。へぇ……なんや鳴海さんみたいやな。
心の中でぽつり、そう呟いていた。
味も口当たりも期待を裏切らない、自分は絶対に美味しいチョコレートだ。そんな自信に満ちた声がショーウインドーを貫通して聞こえてきそうなくらい、目の前にある一粒が堂々としているように見えたからかもしれない。
気づいた時には「これを1つ」と、ダークブラウンの箱をガラス越しに指差していた――。
つい買ってしもうたとはいえ、こうカタチにしてしまうとあかんいうか。格好つかんいうか……。大好きみたいやろ。いや、好きは好きやし、あの人に抱いている感情に嘘はないんやけど。
チョコはチョコいうても、僕が渡す側やとか……いよいよ話のネタ案件やろ。
はぁ、いつの間にこない惚れ込んでしもうたんかな。
寝転びながら今日の行動を自重気味に振り返っていると、ガチャリと音を立てて隊長室の扉が開いた。
この部屋にノックなしで入って来る人物といえば一人に決まっている。
布団に寝転んだままドアの方を仰ぎ見れば、仁王立ちでこちらを見下ろしている鳴海と視線がかち合った。
「人の部屋でよくもまあ、そこまで羽を伸ばせたものだな」
鳴海から降ってきたセリフには嫌味がたっぷりと練り込まれていた。だが、保科を見下ろす鳴海の表情筋に強張りは感じられない。目を細めながら片側の口端は持ち上がっている。
どうやら今日の隊長様は上機嫌らしい。
機嫌が上向きな鳴海に便乗するように、保科は目と口にきれいなカーブを描いた。
「これはこれは鳴海隊長。部屋におらんかったんで、のんびり過ごさせてもろうてましたわぁ」
仰向けのまま返答すれば、鳴海の機嫌はあっという間に崩れた。短めの眉がムッと中央に寄る。そして鳴海は大袈裟に肩を下げながら、わざとらしく息を吐いた。
「まったく、ヒマを極めている第三の奴の思考はこれだから。重要な任務があればそっちを優先するに決まっているだろ」
「重要な任務って、まさかその腕に持っとるダンボールのことだったりせんよな?」
身体を起こして胡坐をかきながら訊けば、鳴海は前髪の奥にある目を軽く見開いてから「ほう」と感心の声をもらした。
「その糸目も、今日はそこそこ働いているみたいだな」
鳴海とYAMAZONと印字されたダンボール。
ある意味見慣れた光景にあえて切り込んでみれば、鳴海は鼻歌を歌いながら腕に挟んでいたダンボールを布団のすぐ横にドンと置いた。
ここまで堂々とされるといっそ清々しい。そう感じてしまうのは、鳴海弦という人間の言動が絶対的自信で構築されている所以なのだろうか。とはいえ、職場を私物の届け先に指定するのはどうかと思うが。
日々の鳴海の自由奔放さを脳内で反芻しつつ、保科は恋人が意気揚々とダンボールのガムテープを剥がしていく様子を眺めていた。
だが、保科が副隊長を務める中で培ってきた平静を保っていられたのはここまでだった。
鳴海がダンボールから取り出した箱を目に映したのと同時に、保科はそれが何を意味しているかを理解してしまった。
自分の中にあった平常心が音を立てずに凍りついていくのがわかった。
自分のことに夢中な鳴海はこちらを気にする様子もなく、ダンボールから取り出した箱を布団に並べる、という単純作業を繰り返している。それも乱雑に投げ置くのではなく、ご丁寧に等間隔を保ちながら二列に整列させて。
形もサイズも見た目も違う、統一感のない箱がどんどん白いシーツを侵食していく。
合計10箱。
リボンがかけられたもの。繊細な金色で英語が書かれたもの。ピンクと水色で可愛らしさを演出しているもの……エトセトラ。
大きさも厚さも何もかもが異なる箱の共通点。その答えは、わざわざ鳴海に訊かなくても明らかだった。
そうか、鳴海さんにチョコを渡そう思う人は僕以外にもおったんか。
そない物好きは僕くらいかと思うとったわ。
怪獣討伐以外は残念さが目立つ人だ。常日頃の周囲からの扱いとのギャップもあったのかもしれない。
好意を向けられるのも、モテるのも悪い気はしないどころか嬉しさもひとしおだったに違いない。
隊長室に戻って早々、ロボットアニメの主題歌を鼻歌で奏でながら大量のチョコが届いたことを恋人に報告するくらいには。
シーツに並ぶ箱の列を無言で見つめていると、やけにハキハキとした口調で鳴海が止めを刺してきた。
「どうだ保科! ボクは日本最強だからな! 数も種類もそこら辺の隊員共とは訳が違うだろ!」
ズラリと広がる箱の前で鳴海は腕組をしながら声を張った。顎を上げ、憎たらしさを覚えそうになるほどの満面の笑みを浮かべながら、正面に座る保科を見据えている。
――自堕落なところも目を瞑ってくれるなんて、鳴海さんのファンは懐が広いんやなぁ〜。
通常であれば、息をするように鳴海へクリーンヒットを的確に叩き込める反撃ワードがするすると口にできる。
なのに、何も出てこない。
鈍い色をした泥に言葉が沈んでしまったみたいだ。
濡れ雑巾のような、じとりと重い湿り気が喉を覆う。
チョコ、そない嬉しかったんか。
「……なんや、鳴海さんは受けと」
沈黙の先で、本音を口走りそうになっていたことに気が付き、即座に全力でブレーキを踏み込んだ。
危なかった。不覚にも情けないセリフを吐露するところだった。
ギリギリではあったが追突事故は防げた。そう安堵の息を吐いたのも束の間。恋人の顔がすぐ目の前に迫っていた。
「今なにを言いかけた?」
鳴海の顔からはもう笑顔が消えていた。前髪の奥にある目も威圧するように据わっている。
緩んでいたはずの室内にわずかな緊張が走る。
睫毛の一本一本の長さまで認識できる距離に心臓がギクリと鈍く跳ねた。
首から上がカッと熱くなり、髪の生え際にも汗が滲む。
隊長室の布団で寝転んでる間にうっかり募らせてしまった想いが、今になって悪さを始める。
「なんでもない、です」
自分で発言しておいて呆れる。敬語になっている時点で嘘だと証明しているのと同じだ。
当然、こんな軽い嘘は恋人にも見透かされているに決まっている。特別な目を発動しなくてもお見通しだろう。
伸びてきた鳴海の手に顎を掴まれ、顔と視線が固定される。
「保科、隠し事はなしだ。言いたいことがあるなら言えばいいだろ」
凄むわけでも怒鳴っているわけでもない。淡々と自己主張をぶつけられているだけだ。
それでも顔を固定されているためか、外堀を埋められているような、自白を迫る空気がじりじりと密度を増していくのを感じた。
例のルビーチョコよりも透明で、鋭い眼光に威圧感を覚えたわけではない。
ただ、居た堪れなくて目を逸らした。
嘘どころか隠し事も無駄、か。
どうせ自白させられるなら、ここはさっさと観念して暴露した方が後に響かないかもしれない。
保科はたっぷりと肺に空気を送り込んでからじっくりと時間をかけて細く息を吐き出し、ゆっくりと声にした。
「別に大したことやないで。ただ、僕は受け取らんかったけど、鳴海さんはチョコもろうたんやなぁ思うとっただけや」
勤めて明るく、そして軽く口にした。
それでも軽快な口調とは裏腹に、言葉にしたことで自分のちっぽけな独占欲が具現化してしまったような感覚が強まり、今度こそ鳴海の顔を見れなくなった。
保科は顔を振って鳴海の手を解き、横にあったクッションを勢いよく掴んで、そのまま柔らかな弾力に顔を埋めた。
こんなん拗ねて臍曲げてるガキがすることや。
顔を埋めているクッションに指が食い込む。
顔を晒すよりはマシだと判断しての行動だったが、燃えるような羞恥心が休みなく湧いてくる。
このまま気持ちが落ち着くまでやり過ごそう。
そう考えていると、「なんだそんなことか」と溜息を交えたあっさりとした声が聞こえてきた。
「チョコならボクもお前と同じで断ったが。恋人が泣くから受け取れないとつけ加えてな」
「別に泣いてへんわ‼︎ て、~っ⁉︎ ぐっ……その顔やめてや」
反射的にクッションから顔を上げれば、待ち構えていたニヤつき顔とまんま目が合ってしまった。
クソ、さっきから踊らされてばっかでほんま腹立つ。
「受け取ってない言うんなら、ダンボールから出てきたチョコたちはなんです? ……まさか通販で買うといて、モテてとるって自作自演したんや……」
驚愕の事実。初めてゴミに占拠されている隊長室を目にした時と同じ衝撃をフラッシュバックさせていると、鳴海が大声を上げて抗議してきた。
「んなわけあるかい‼︎ たく、これを食べるのはボクじゃなくてお前だ」
「は? なんやて?」
鳴海から返ってきたのは日本語のはずなのに、言葉の意味をほとんど理解できなかった。
予想外の返答に呆けていると、鳴海は滑らかな口ぶりで布団に並べたチョコの説明を始めた。
「これは確かコーヒー味だかで、こっちは抹茶に……そうだそうだ! 保科見ろ! わさび味だぞ⁉︎ めずらしいだろ⁉︎」
成分表を見ろと箱を寄せられ、黒いインクで書かれた何かで視界が埋まる。
近すぎて何も見えん。てか鼻の頭が潰れてんねんけど。
にしても、わさび1つではしゃぎ過ぎやろ。そりゃあコンビニチョコとかや見かけんかもしれんけど、割とメジャーな組み合わせやで。
そもそも数も数や。
どんなルートを通れば「恋人にチョコを10個買う」に行き着くんや。常識外れもええところやろ。実行して偉ぶってるあたりは、さすがは第一部隊隊長様やけど。
まったく、どういう思考回路しとんねん。天才とちゃうんかい。……ほんまアホやろ。
僕にチョコ10個も寄こしてどうすんねん。
脳内では饒舌な一方で、現実では鼻先を押し付けてくる箱の底を黙って目に映し続けることしかできなかった。
顔が、胸が熱い。
燃え盛る炎のような激しいものではなく、じんわりと体温に馴染んでいくような静的な熱で全身が熱い。
保科から応答がないことを退屈に思ったのか、視界を覆っていた箱がなくなり目の前が開けた。
視界が開けた先にあったのは、心配そうにこちらを見つめる鳴海の顔……ではなく、好奇心に満ちたピカピカと輝く目だった。
「感動のあまり声も出ないか?」
「勝手に決めつけんでくれます? 僕はただ、鳴海さんが包容力全開の恋人しとるから、午前中の出撃で怪獣に頭殴られたんかなぁ~、医務室連れてかんとあかんかなぁ~て心配しとっただけですけど?」
「ッ⁉ 日本最強のボク様が雑魚怪獣ごときにそんな凡ミスをする訳ないだろうが」
「まぁ、鳴海さんの自慢演説は耳タコなんでこの辺でええんやけど」
「おい! 貴様から吹っかけておいて勝手に話を切り上げようとしてんじゃねぇ ボクより自由にすんな!」
「…………さっき断った言うてたチョコ、相手誰やったん?」
鳴海の顔を直視しながら言えるはずもなかった。
布団に並んでいる特別な箱に視線を落としながら零した声は、自分の喉から出てきたとは思えないくらい小さかった。
直前まで交わしていたはずの口喧嘩まがいの会話は止み、なんとも言えない沈黙が一秒、二秒……。
満足そうに細まる目と視線がぶつかってしまった。
「なんだ気になるのか?」
「……僕はあんたの恋人やからな。訊く権利くらいあるやろ。プライベートな話題やし義務やないけど」
「ふふん、ボクは心が広いからな。特別に教えてやってもいい」
上から目線な態度には思うところがあったが、話題を振ったのは自分だ。
偉そうな態度に口を挟みたくなるのを堪え、黙って鳴海の話に耳を傾ける。
「食堂で飯を食ってたら、デカい紙袋を持ってチョコを渡してまわってる隊員がいたからな。『ボクはいらん』と宣言してやった」
……ん? 今、話が急に飛ばんかったか?
なんらかの偶然とか現象とかで、たまたま自分が聞き逃しただけかもしれない。念のためと保科は鳴海に訊いた。
「あげますとか、もろうて下さいて言われたから断ったんよな?」
「どっちも言われてないが?」
「え? なら、チョコ渡されてもおらんのにわざわざ自分から断りに行ったんか?」
「逆に訊くが、今の話のどこに別の見解が存在する? ボクは第一部隊の隊長様だぞ。チョコを渡そうと思い至るのが当然だろ」
保科に向けられた鳴海の顔には、太字の黒いマジックではっきりと「理解不能」と書かれている。どうやら今の鳴海の発言は、ふざけている訳でも煽り文句でもないらしい。
その紙袋の中には隊長用のチョコがあったのか、なかったのか……。
実際のところは分からないが、後者だった可能性も無きにしも非ず。
チョコを配っている部下と遭遇しただけで、即座に自分にも順番がまわってくると確信を得られるのは、ある意味幸せなのかもしれないが。
それに今の話だと別口でチョコをもらってはいなさそうだ。
なんや、そうだったんか。
「ワハハ! 断ったってそういう流れやったんか。おめでたい人やなぁ。鳴海さんらしいっちゃらしいけど」
「こんのクソオカッパァァ 人が親切丁寧に応じてやったと言うのに、腹を抱えて爆笑だとか舐めてんのか⁉ ボクに対する敬意はどうした⁉︎」
「え~っと、いつも敬意はいらんて言うてるのは誰でしたっけ?」
鳴海は「ぐっ」と鈍い音を上げながら胸を突かみ、布団に突っ伏すように身体を二つ折にして沈黙した。
はしゃいだり、喚いたり、オーバーリアクションで撃沈したり忙しい人やな。
こんなに見てて飽きん人は、そう滅多におらんわ。
「けど、そんなおめでたい隊長さんからチョコもらうなんて国宝級やしな。楽しませてもろうたし、記念に受け取らせていただきますわ」
つらつらと言葉にしてから心の内で小さく溜息を吐いた。
長年かけて染み付いた習慣はそう簡単にはアップデートできないみたいらしい。
僕も素直やないな。
自身に呆れつつ、さてこの大量のチョコをどう持ち帰ろうかと頭を切り替える。
なにせサイズの違う箱が複数ある。それなりの大荷物だ。上官、部下が出入りする有明りんかい基地で不必要に目立つのは避けたい。
なんなら半分は隊長室に置かせてもらうのもありかもしれない。
チョコの持ち帰り方法に大方目途が立ったところで保科の意識が別のところへ向いた。
さっきから何やら視線を感じる。それも威嚇や嫌悪の類いではない。一点をじっと見つめるような、熱視線というか……。
「保科」
「ん? なんやその手」
手つなぎたいんか?
そう思い差し出された手を握れば、鳴海は「そうじゃない」と答えてから保科の少し奥、執務机を指差した。
「あれはお前からじゃないのか?」
しまった。凡ミスとはこのことだ。
少し前まで脳内を埋め尽くしていたはずが、いつの間にか存在がごっそりと頭から抜け落ちてた。
「ーーーー、えっと……なんやたまたま入った店で目について。その、鳴海さんの目に似とるな思うたら会計済ませとる自分がおって」
「ふぅん。じゃあ、ボクのモノなんだな」
「まぁ、はい。そうやね」
「ははっ! 口調がごっちゃだな」
「うっさいわ! て、もう開けとるし」
会話の途中にも拘わらず、鳴海は鼻歌を歌いながら手にした箱を開封し始めていた。
鳴海は箱から取り出したルビーチョコを親指と人差し指で掴み、ビー玉を光にかざすようにしてドーム型のチョコを目の高さまで持ち上げた。
「へぇ、つやつやしてて美味そうだな」
「モンブランが美味いパティスリーのチョコやから、味は保証するで」
「お前は食ったのか?」
「いや、買う時に説明読んだだけやからな。僕は食うてないねん」
保科が喋り終えるかどうかのタイミングで、鳴海がチョコを口に放り込んだ。鳴海の口内からコリッといい音が響く。
「あんまりチョコっぽくないな。糖分の塊みたいな色をしていたクセに、そこまで甘くもない」
率直な感想ではあったが、おそらく鳴海なりにチョコの美味しさを表現しているつもりなんだろう。
不快感を覚えた時には遠慮なく、そして容赦なく自己主張をするのが鳴海弦という人間だ。
箱を突き返してこないということは、きっと食べてやってもいいと思える味だったのだろう。
鳴海がチョコを味わっている様子を眺めていると、不意に目が合い、その目が怪しく細まった。
「物欲しそうな顔だな。そんなに懇願するなら、欲しいなら分けてらんでもない」
心を見透かしてるような意地の悪い笑顔を浮かべつつ、鳴海がルビーチョコを1粒つまみ上げた。スモークピンクの塊が保科の口元に近づいてくる。チョコが唇に触れる寸前のところで保科は口を開いた。
「せっかくやけどお断りしますわ」
「……は⁉ 今いらんと言ったか⁉ せっかくボクが分けてやると言っているのにお前って奴は」
チョコを食った直後とは思えない落ち着きのなさで怒りを燃やしている鳴海を無視して、保科は布団に並ぶ1箱を指差した。
「今食べるならそのチョコがええわ。それ、僕にくれたんやろ?」
ピタリ。保科の声を合図に鳴海の動きが止まり、怒号も止んだ。そして逆さのU字を描いていたはずの鳴海の口端が、両頬を高く持ち上げた。
「ふーーーーん。そんなに言うなら仕方ないな」
そう言うと鳴海は意気揚々と布団にあるチョコのうちの1箱を手に取り、5本の指でリボンを掴んで外し、いそいそと開封した箱のフタを後ろに放り投げた。
ゴミ部屋に仲間を増やしてしまったな。などと暢気に一部始終を眺めていると、なぜか鳴海はつまんだチョコを自分の口に運んだ。きれいに並んだ上下の前歯にチョコが挟まれている。
鳴海の要求を察した心臓がドッドッドッと胸を叩き、首まわりに汗が滲む。不敵な笑みの影響もあってか、チョコが人質に見えてきた。
「欲しいならボクから奪ってみたらどうだ?」
「……普通に手渡しすればええやろ」
聞こえるように溜息を吐くも、そんなの知ったことかと言うように手首を掴まれ、引かれる。
逃げ道はいくらでもある。わかっていて無言の催促に応じた。
目を開けたまま顔を寄せ、キスをする時みたいに顔を少しだけ傾ける。口を開く動作が勝手に緩慢になったのがわかり、あらゆる細胞がまた燃える。
くそ、目ぇ閉じろや。
八つ当たりを交えながら人質状態のチョコに歯を立て、顎に力を加える。その間、唇同士の接触面積はわずか数センチ。その存在したからしないかレベルの瞬間的な触れ合いにも拘わらず、自身の唇は確かに震えていた。
カリッ、と耳に心地いい乾いた音が空気を揺らす。
コリ、カリ。固形物特有の咀嚼音が口内で響く。舌で転がしながら表面を溶かせば、日常的な香りが顔まわりに広がった。
「思うてたよりしっかりコーヒーやな」
「つまらん感想だな。……ふっ、顔が赤いぞ」
愉快そうに笑っていた鳴海は再びルビーチョコをつまみ、スモークピンクの塊をまた自分の口に含んだ。
流れるように鳴海が顔同士の距離を詰めてきた。
保科の唇に乾燥気味の親指があてがわれ、下方向の誘導に応じて口がわずかに開く。
「ボクは寛大だからな、こっちも分けてやろう。ほら保科、口を開けろ」
おかわりなんて言うてないやろ。
保科が眉を寄せて反論するよりも先に、鳴海の形のいい唇が覆い被さってきた。気づいた時にはもう距離がなくなり、熱を帯びた舌が唇を割り、口内へ滑り込んでいた。
絡み合う舌の動きに合わせて、唾液にまみれたチョコの欠片が口内を転がる。
呼気が甘い。
唾液もとろりとしていて、ノンアルコールと分かっているのに見ている世界がくらついてくる。
くちゅ、くちゅと唾液が絡む音に合わせてチョコが口の中を泳ぎ、顔の角度を変える度に特別な香りの濃度が増していく。
ベリーの甘酸っぱさにコーヒーとチョコ。チョコというよりケーキに近いかもしれない。甘さも苦味も角が取れてまろやかで、いくらでも口に含んでいられそうな気さえしてくる。
甘くて熱くて……鳴海さんとのキス、気持ちええんよな。
普段よりチョコが早く溶けている気がするのは、自分の体温が上がっているせいか、それとも二人分の熱に転がされているせいか……まぁ、どれでもいいか。
口内を満たす複雑で贅沢なチョコの味に呼応するように、思考もとろとろと輪郭を手放し始めた。
保科は布団にうつ伏せになったまま気怠さを訴える瞼を押し上げ、布団から床に追いやられて山を作っている箱を数えた。
鳴海から贈られたチョコは、未開封のものがあと9箱。さっき開封したコーヒー味のチョコもあと10粒以上残っている。当分はチョコの消費に追われる毎日になりそうだ。
しばらくモンブランは制限せんとあかんな。
好物を我慢しなくてはいけない日々に溜息を吐いたものの、吐き出した空気にマイナス感情は含まれていなかった。
どうやらバレンタインは自分が想像していた以上に糖度が高く、あらゆるものを許容してしまうような甘いイベントだったのかもしれない。
初めて経験した甘さを脳内で反芻していると、放置していた服を拾い終えたらしく鳴海がこちらに戻ってきた。
「そういや、鳴海さんがくれたチョコけっこう有名店のばっかりやったよな? よお持ち合わせあったなぁ」
隣に座った鳴海が誠意Tシャツから頭を出したところで、保科は地味に気になっていたことを鳴海に訊いた。すると鳴海は、勝ち誇った顔で保科を指差してからミネラルウォーターを豪快に開封した。
「ボクを甘くみるなよオカッパ。今月は新作ゲームもフィギュアの発売もなかったからな。余裕だ」
まだ汗ばんでいる喉が軽快に上下するのを眺めながら、保科は深く息を吐き出した。
年中金欠なクセして何を威張ってんねん。たまたま出費が少なかった月やったからて、チョコ爆買いするとかアホやろ。あんた社会人何年目や。
そもそも、思うたところで実行する大人がおるかいな。それも一人のために……。
呆れながら正面にある顔を見つめれば、水分補給を終えた鳴海の目がにんまりと弧を描き、当たり前のように唇が押しつけられた。不意打ちを食らい心臓が無邪気に跳ね上がる。
触れるだけのキスを交わせば、鳴海は何事もなかったように床にあったゲーム機へ手を伸ばし、布団にゴロリと仰向けになった。前回会った時にも流れていたBGMと銃撃音が隊長室に響き渡る。
なんやねん、今の。……心臓の音うっさいわ。
こちらの気も知らずにマイペースを謳歌している恋人の横顔をじとりと睨みつけていると、保科の頭に名案が浮かんだ。
そういえば、前にモンブラン販売店の新規開拓をしていた時に唐辛子入りのチョコの情報を見た気がする。
わさびのチョコであれだけはしゃいでいたんだ。きっと鳴海も知らないはずだ。
来年のチョコはそれで決まりやな。
次のバレンタインは鳴海を出し抜くことができそうだ。
心のうちでニヤリとしながら未来の鳴海のオーバーリアクションを想像していると、くしゃりと髪が潰れる感覚があった。
驚いて鳴海を見る。恋人の視線は液晶画面に固定されていて腕だけがこちらに伸びていた。ノールックで髪を数回、わしゃりと掴むようにして乱してきたと思えば、それだけで。保科の髪を撫で終えた手はまたゲーム機に戻っていった。
鳴海が触れた部分に手を当てると、そこだけ髪が変にまるく盛り上がっていた。
愛が重いんだか軽いんだか、距離感がよおわからん人やな……。
保科が唇をキツく結べば、共鳴するように胸がぎゅっと甘く収縮した。
心臓の駆け足はもうしばらく止まなそうだ。