【保鳴】スプラッシュアワー止めどなく噴き出していた汗もやっと落ち着いてきた。
日陰になっていた縁石へ腰を降ろした保科は、隣に並ぶ鳴海の横顔へチラリと視線を流した。
黒と白の前髪が快適そうに揺れている。
どうやら杞憂だったみたいやな。
恋人にバレないよう、保科は密かに胸を撫で下ろした。
デートも後半戦。真っ青な空に貼りついている白い太陽は、まだ高い。
炎天下の遊歩道では、晴れやかな笑顔が行き交っている。
保科はたっぷりの氷に浸ったレモンウォーターで再び喉を潤し、鳴海へ声を掛けた。
「時短パス使わんで終わるかと思うてたんやけど、持ち直したみたいで安心したわ。いつ、『やってられん。ボクは帰る』て言い出すかてヒヤヒヤしとったんやで」
「ふん、よくそんな見え透いた嘘をつけるもんだな。さっきも土産だとか言って何か買っていただろ」
サングラス越しに睨まれたと思えば、手に持っていたショップ袋を鳴海がガスガスと突いてきた。
急な攻撃にも関わらず、ショップ袋にプリントされている赤い帽子のキャラクターは大人しく顔面を突かれている。
さりげなくショップ袋を反対側へ移動させれば、鳴海は不満気に足を組み替えながら「それと」と言葉を続けた。
「防衛隊に所属して何年になると思っているんだ? 第1部隊の隊長であるこのボクが、これくらいの環境で根を上げる訳がないだろ」
わかり切ったことを言わせるな、と言いたげな態度で溜息を付け加えた鳴海は、レモンウォーターを一気に吸い上げた。
見る見るうちに、輪切りのレモンが描かれたカップの中身が減っていく。
「おやおや~? 呪文みたいに繰り返し『暑い、眠い、人が多い』て唱えてゾンビになっとったのは、どこの隊長さんやったかなぁ?」
いつもの揶揄い口調で応答すれば、鳴海が掴んでいたプラスチックカップからズゴッと音が上がった。
吸い込み音にやや遅れ、ジトリとした視線が返ってきた。
「……暑さにやられて幻覚でも見てたんじゃないか?」
「おかしいなぁ、僕の記憶違いやったか。鳴海さんと瓜二つの人やったはずやけどなぁ」
瞼を押し上げ、ラフな格好をしている鳴海へ試験官の眼を向ける。
ネイビーのスラックスに、白いTシャツ。
下から上へと、シンプルながらも清潔感のある服装を辿っていく。
ゆとりのある首元を通過し、その先でサングラスの奥に潜む瞳と視線がぶつかった。
そうと思ったのと同時に、怪獣兵器を装着している瞳がパチリと瞬きをした。
「なら、あれだ。ドッペルゲンガーにでも遭遇したんだろ。そこら中に着ぐるみやら奇抜な格好をした奴がいるからな。怪獣はいなくても、モンスターの1匹くらい混ざっていても不思議じゃないだろ」
「わはは! いくらここがテーマパークやからって、魔法やゲームの世界やあらへんし。それにゾンビが蔓延るシーズンはまだ先やろ」
「はぁ? 先にゾンビがどうとか言い出したのは貴様だろうが!」
眉間に深い溝を刻みながら、前のめり気味に鳴海が大声を上げた。
ついでに胸へ人差し指をドスドスと突き立てられ、地味に痛い。ワハハ、痛いんやけど~と笑いを交えて棒読みするも、当然無視される。
それならば、と胸を突いていた鳴海の手首をパシリと掴む――が、即座に振り払われてしまった。
まるで猫やな。
テーマパークという場所やデートというシチュエーションに関わらず、良い意味で恋人の態度は変わらない。
相変わらずのマイペースさに口元を緩めていると、隣からガサゴソと紙が擦れるような音が聞こえてきた。
鳴海が取り出したのは、青と白のラインが入った細長い包み紙とソーダ色のチュロスだった。
エリア移動の道中にあったワゴンで購入したソーダ色のそれは、ホワイトチョコやきらびやかな何かでデコレーションされている。夏限定フードとあっただけに、奇抜――いや、豪華な見た目だ。
鳴海の手元をよく見れば、包み紙にいる王冠を被ったコアラも、本体と同じソーダ色のチュロスを握っていた。
テーマパークらしいフードだったが、鳴海はあっさりとソーダ色の生地へ噛みついた。
じっくりとチュロスを観察するでもなく、惜しむ様子もなく、肉でも食らうような勢いでソーダ色の先端をブチリと嚙み取った。
その一部始終を横目で観察していると、不意に恋人の瞼が持ち上がった。
言葉にこそしないが、どうやら期間限定コラボの一つは納得がいく内容だったみたいだ。
この人、こういうところは素直なんよな。
心を綻ばせながら、黙々と口を動かしている恋人を眺めていると、いつの間にか周囲のざわめきが大きくなっていた。
気づけば、ステージが組まれている広場だけではなく、遊歩道に至るまでウォーターガンを装備した人で溢れている。
「なんや、急に人が増えた気ぃせん?」
ソーダ色のチュロスを一口分噛み取ってから、鳴海が応えた。
「そろそろ14時だからだろ。期間限定イベントがどうのと言っていたのはお前じゃなかったか」
鳴海のセリフにつられて時刻を確認すれば、14時まで10分を切っていた。
どうやらイベントの開始時間に合わせて、あちこちのエリアから人が集まっていたらしい。
特に広場のステージセット近くの密集度が高い。
炎天下であの人口密度だ。
直射日光と地面からの放熱で、おそらく熱気も凄まじいに違いない。
けれど、キャラクターの被り物やウォーターガンを装備した人たちは皆、目を輝かせ、眩しいくらいの笑みを浮かべている。
「イベント……あぁ、せやったなぁ」
「ふっ、自分で言っておいて失念しているとは。やれやれ、こんな惚けたやつが副隊長だとは、第3の連中も大変だな」
恋人に小馬鹿にされているのはわかっていた。
わかった上で、口喧嘩には乗らなかった。
腹が立つこともなければ、むしろ笑っていた。
耐え切れず、ふはっと声を上げて。
「おい、何を笑っているんだ。暑さでとうとう頭がショートしたか?」
鳴海が怪訝そうな顔で首を倒す。
「いや……鳴海さん、ちゃんと僕の話し聞いててくれはったんやなぁ思うたら、なんや緩んでしもうて」
それこそ口も、心も。
サングラスの奥で鳴海が目を見開いた。が、すぐに顔を逸らされてしまった。
「……別に、たまたま記憶に残っていただけだ。どこを見てまわりたいかと、この数ヵ月間どっかのオカッパ頭が連呼してうるさかったからな」
「ほぅ。なら、そのオカッパ頭に感謝せんとなぁ。テーマパークは興味ない言うてた恋人が、チュロスを買うくらいデートを満喫してくれとるみたいやし、な」
下から覗き込むようにして鳴海へ顔を近づける。
すると次の瞬間、なぜか食べかけのチュロスが視界を占拠していた。
飛んでくると想定していたのは、照れ隠しの罵声だった。
それだけに、用意していたはずの煽り文句も吹き飛んでしまった。
歯型のついたソーダ色から鳴海へ視線を移す。
さっぱりとした笑顔と目が合う。
サングラスの奥で、淀みのない瞳がやわらかく細まった。
「お前も食うか?」
滅多に遭遇しないフレーズに思わず目を見張る。
「おや、珍しいこともあるもんやなぁ。鳴海さんが自分の食べもん人に分けるなんて。それも自分から。……今は晴天やけど、ゲリラ豪雨でも降るんやろか」
平静を装いながら、冗談を挟みながらニコリと笑顔を添えれば、鳴海の口がムッと持ち上がった。
「おい、食わないならボクが全部食うぞ」
「気ぃ短い人やなぁ。いらんとは言うてへんやん。ほな、お言葉に甘えさせてもろて――」
目を閉じ、差し出されたチュロスへ素直に口を開く。
だが、香ばしい食感やソーダ色の甘さは、いくら待ってもやって来ない。
おかしいなと内心で首を傾げつつ、瞼を押し上げる。
開いた眼に映ったのは、勝ち誇った顔でムシャムシャと口を動かしている鳴海の姿だった。
すぐ目の前で鳴海の喉がゴクリと上下した。
「これはボクの物だ。やる訳ないだろ。半日かけて浮かれた空気を浴びまくって、危機察知能力が鈍ったらしいな」
ふははとボスキャラみたいな声を出しながら、鳴海はバクバクとソーダ色を頬張っていく。
なんなら、その達成感に溢れたニヤつき顔は、今日一良い笑顔にさえ見える。
たく、なんちゅう悪役顔しとんねん。
憎たらしいくらいの笑顔に、思わずポジティブ感情のみで構成された溜息を吐いていた。
いじられる側に回るのは正直不本意だ。
どちらかと言えば、手のひらで転がす役は自分が担いたい。
だが、テーマパークという非日常な空間の影響なのか、デートというシチュエーションがからか、子供じみたイタズラが頭にカチンと石を落とすことはなかった。
エリアに流れる音楽が変わった。時間になり、イベントが始まったようだ。
音のボリュームが上がり、広場の温度が上昇する。
そして高まった期待に応えるように、ステージから大量の水が噴射された。
四方に水が放たれたのを合図に、広場の至るところから水が発射される。
水かけイベントと銘打っているだけあり、見た目にも派手なパフォーマンスだ。
参加者も手にしているウォーターガンで水をかけ合い出し、悲鳴に似た歓声を上げている。
イベントに参加していない通行人も、空を行き交う水飛沫を指差しては爽やかな笑顔を浮かべている。
夏を反射する水飛沫に呼応するように、胸の奥がチカリと白く光った。
「まぁ、せっかくのデートやしな」
夏の賑わいを遠巻きに眺めつつ、言葉を続ける。
「それと鳴海さんの言う通り、チケットを買うた期間も含めたら、数ヵ月前から浮かれとるのも確かやな」
鳴海へ向かって腕を伸ばす。
細長い包み紙を握る手を目指して素早く、そして触れるようにそっと手のひらを重ね、手元へ顔を寄せて無防備なソーダ色を噛み取った。
まったりとしたミルクの味とソーダの爽快感が口内に広がり、夏を連想する風味を追いかけるようにパチパチと何かが弾けた。
炭酸とは別の、新鮮な刺激を味わいながらスルリと目線を持ち上げる。
瞳に映り込んだのはもちろん、自信家で負けず嫌いな恋人の顔だ。
あ……鳴海さんの口、すぐそこやな。
唇、なびく前髪、そして見開かれた目。
全部が目と鼻の先にあった。
いつもの要領で後頭部に手をまわす。
そのまま物欲しそうに開いている口へ唇を――押し当てるつもりだった。
だが、鳴海が至近距離で怒声を放ったことにより、せっかくの甘さを帯びた緊張感はあっさり飛散してしまった。
「っ! この糸目野郎! 一口以上食いやがったな」
「先に吹っかけてきたのはそっちやん。それにさっきのレースでは、僕の方が鳴海さんよりコイン稼いどったやろ? 心の広い鳴海さんのことや、一口くらいもろうても目ぇ瞑ってくれる思うたんやけどなぁ」
「はぁ お前の方がコインが多かったのは偶然だろ! 貴様が投げたコウラがたまたま! 偶然! ボクより多く敵に命中しただけやろがい! ……はぁ~、運を実力と勘違いしてるとは。副隊長がこの有様だ。第3も先が思いやれるな」
「いやいや、運も実力のうち言うやんけ。まぁ、どうしても返せ言うなら――」
捕まえていた手を引き、耳元へ口を寄せる。
秘密を打ち明けるように声を低める。
「さっきの続き――キスで返しても僕はかまへんで」
内側の熱を辿るように指の腹で輪郭を辿り、顎の先端に指を添える。
だが、鳴海弦という恋人はそう簡単に唇を許してはくれなかった。
返答よりも先に顔を大きく振り、こちらの手を振り払うのと同時にギロリと鋭い睨みを飛ばしてきた。
デートらしい甘さは一変、警戒態勢に入った鳴海が放つオーラにより周囲の空気がピリリと張り詰める。
ギッと歯を喰いしばり、今にも「ガルル」と威嚇の声が聞こえそうな気迫でこちらを睨んでいる。
「真昼間からふざけたセリフをつらつらと並べやがって……!」
「えぇー? つれん人やなぁ~。よくある恋人のスキンシップやん。朝まで何回も仲良ぉしとったのに、今さらキスくらいで照れとるん?」
しゃーないなぁと、笑いを添えながら感情を剥き出しにしている鳴海を宥めつつ、突き攻撃から避難させていたショッピング袋へ手を突っ込む。
袋の中で、某ゲームの恐竜のキャラクターがくっついているカチューシャを掴み、取り出す。
そして緑色の恐竜が乗ったそれを、抵抗される前に素早く鳴海の頭へ装着した。
訝し気に曲がる顔。
その頭上には、愛嬌を滲ませる布製のつぶらな黒い瞳。
目を軽く上下させるだけでも、その温度差は凄まじい。
これは……思った以上にありやな。
「ワハハ! めっちゃ似合うてるやん! ちょ、せっかくやし写真撮らせてや」
腹を押さえながらカメラのレンズを構えようとすると、ようやく思考が追いついたらしい鳴海がギッと目をつり上げた。
「いらん!」
短く反発したと思えば、鳴海はベリっという効果音が聞こえそうな勢いで、迷う素振り一つ見せずに緑色のカチューシャを頭から取り外した。
不穏なオーラを纏い、ドスの利いた声が保科の名を叫ぶ。
「保科ァァ この糸目オカッパめ ボクの許可なしに好き勝手しやがって! 調子に乗るのもいい加減にしろ! プライベートが当たり前のように無礼講だと思うなよ」
「似合うてたんやから、そない声荒げんでもえぇのに。なんや照れたん?」
「誰が照れているだと どうやら直射日光を浴び過ぎて頭が沸いているらしいな? ――丁度良い、お前もあそこに混ざって、その茹った頭を冷やして来たらどうだ」
盛大な舌打ちを放った後、鳴海は名案を思いついたと言わんばかりの得意顔で、広場の方を指差した。
鳴海の指先が示した先には、盛り上がりのピークを迎えたらしいひと夏の光景が広がっていた。
イベントもクライマックスに突入したのか、夏っぽい衣装を身につけたスタッフもステージを下りて会場を盛り上げている。
よく見れば、一部のスタッフは大砲のような見た目をしたものを持っている。
あれはウォーターガンの一種なんだろうか。
一般客が手にしているサイズが通常だとすれば、かなりのサイズ感だ。
特殊なサイズとなれば、放たれる水の量も規格外なんだろう。
会場の盛り上がりに伴い、広場を越えて遊歩道のアスファルトまで黒く濡れ始めていた。
イベントの賑わいに反し、やけに真横が大人しい。
さっきまで声を荒げていたとは思えない静けさにつられて隣を見ると、映画鑑賞でもしているように水かけイベントを眺めている横顔が並んでいた。
ふと目線を下げれば、鳴海の手元には例の緑の恐竜が収まっていた。
無意識で行っているのか、正面を向いたまま緑の恐竜の頬を両手でグイグイと押し潰している。
いらんとか言うてたクセに。ちゃっかり愛用しとるやん。
笑顔もなければ、言葉もない。
黙り込んだ横顔だけでは、鳴海が何を考えながらイベントを眺めているのかは、正直読み取れない。
それでも、目尻にあった強張りは解けているように見えた。
「今日、一緒に来れてよかったわ。ホンマに」
「なんだ、刀を握るのは止めて、ロマンチストにでも転職することにしたのか? 猛暑のテーマパークに来れてよかっただとか、お前も物好きだな」
「せやかて、前に鳴海さん言うとったやろ。テーマパークとかレジャー施設は行ったことないて。隊長なってからもそうやけど、防衛隊入隊後も、それまでも」
前に……ゲームをしながら何気ない会話を交わしていた時に、淡々とした口調でその話題を口にしたことがあった。
きっと、あの時のセリフに嘘はなかっただろう。
それでも、ぽつりと口にしたセリフに鳴海の思いのすべてが反映されているとも思わなかった。
怪獣災害により天涯孤独。
本来は大人の支えが必要な段階で、一人で生き抜くことを選んできた人だ。
鳴海は言葉にこそしなかったが、おそらく「なかった」には時間だけではなく余裕も含まれていただろう。
安心や安堵に似た「余裕」が――。
束の間の沈黙を繋ぐように、テーマパークのグッズを身につけた人たちが目の前を通過して行く。
手を繋いで歩く家族連れ、色違いのアイテムを身につけたグループや恋人。
誰もが皆、思い思いのカタチで笑っている。
「別に他愛のないことでええんや。食べたいと思うたもんを食べるとか、買うてみるとか、実際に足を運んでみるとか……そない些細なことでもええから、鳴海さんが喜んどるところが見たいて、僕は思てるんや」
遠くの方で歓声が聞こえた。
透明な水を抱き込んだ風が、重みのある前髪を軽々と揺らした。
鳴海の手の中では、恐竜の顔がぐにゃりと潰れている。
「たった1年足らず恋人関係にあるだけで、随分とボクのことをわかっているような発言だな。そもそも、何故このボクが、お前の趣味に連れ回されんとならんのだ」
短く溜息を吐きながら鳴海は足を組み替えた。
口調と態度には、明らかに不満が充満していた。
口は拗ねたように小さく尖り、そして項から首筋にかけて光が浮いている。
その光の粒をじっと見つめる。
「クレームつけとる割には、ここに汗滲んどるように僕には見えるけどなぁ」
外堀を埋めるように速度を落として声をかけつつ、指先で首に浮いていた汗を引き伸ばせば、跳ねるような勢いで鳴海が縁石から立ち上がった。
手で首を押さえた鳴海がバッとこちらを振り返る。
「はぁ 日陰だろうが30度オーバーの屋外にいりゃあ汗くらい出るに決まってるだろ」
「鳴海さんは照れ隠しがホンマお上手やなぁ~」
それ以上行ったら暑いやろ、と直射日光に晒されている鳴海の腕を掴んだ時だった。
バッシャーンという破裂音が眼前で響き、次の瞬間には全身ズブ濡れの鳴海が完成していた。
頭から足元まで、見事に全部水浸しだ。
直前まで怒鳴り散らしていた鳴海は沈黙し、白と黒の毛先からはポタポタと水が垂れている。
周囲の状況から察するに、どうやらイベントで発射された水の塊が直撃したらしい。
流れ弾として飛んできた水は、例の大砲の見た目をしたウォーターガンから放たれたようだった。
水かけイベントの真っ最中とはいえ、場外に飛んできた水がクリティカルヒットを決めるのは、どれほどの確率だろうか。
それも怪獣スーツこそ着用していないが、第1部隊の隊長に対して。
自分の恋人は、ある意味強運の持ち主なのかもしれない。
こんな想定外、堪えろという方が無理だ。
腹筋崩壊は不可避。
悪気なく大口を開けてしまった。
「ぶはっ! 水もろ被りやん! いやー、僕より先に頭どころか全身冷やせてラッキーやったなぁ」
保科にとっては、これまでのじゃれ合いと同じ温度感のつもりだった。
笑い声を上げたことも、軽口を並べたことも、労わりの言葉と共に鳴海へ手を伸ばしたことも。
「災難やったなぁ。せやけど、ゲーム持っとってなかった分、被害抑えられたんとちゃう?」
目尻に溜まっていた涙を拭いつつ、タオルを買ってこようかと柔らかな声で提案する。
だが、 無邪気な赤色から視線が返ってくることはなかった。
差し伸べた手のひらを焦がしたのは、恋人の体温ではなく、灼熱に焼かれた風だった。
鳴海は一言も発することなくクルリと踵を返した。
ズブ濡れのままスタスタと歩き出したと思えば、一度も振り返らず、夏限定イベントの賑わいの中へ消えてしまった。
首筋にイヤな汗が滑り落ちる。
氷が溶けてバランスが崩れたのか、縁石に置いていたプラスチックカップからガラリと乾いた音がした。
――どこをどう見れば、ラッキーなんてセリフがこの状況で出てくるんだ!
てっきり鳴海から返ってくるのは、こんな聞き慣れたセリフと大声だと思っていた。
実際、これまではそうだった。
今のやり取りの直前まで、何度も。
だが現実は違った。
鳴海が過去をなぞることはなかった。
怒鳴り声もなければ、曝け出した感情で噛みつかれることもなく、何も言わずに立ち去ってしまっただけだった。
ぐっしょり濡れた緑の恐竜を引き連れて。
誤差レベルのタイムラグの後、堪らず手のひらでパシリと目を覆う。
マジか。
うわー、アカン。完全に言葉間違ごうたやつやろ、これ。
どないすんねん。数カ月前から計画しとったデートやったのに。
浮かれて調子に乗り過ぎたとか……アホなんか、僕は。
配慮不足。
自ら招いた事態とはいえ、イタズラ心も罰悪くガクリと項垂れている。
追いかけるか?
……いや、これまでの経験からして、それは最適解じゃない。
少なくとも「笑い」の後に「怒り」が即座に飛んでこない場合は、時間を空けずにアクションを取るのは悪手だろう。
強引に距離を詰めれば、余計に事態は拗れる。
下手をすれば口喧嘩が勃発する。
当然、いつもの言い合いではないカテゴリーやつだ。
そもそも口喧嘩になるならまだマシだ。
さっきのように無言を貫かれ、そのまま冷戦に突入する方がずっとキツい。
特に今日はデートだ。
それも多忙の中、やっと合わせた休暇を使っての。
――鳴海さんがやっとったゲーム、なんや期間限定でコラボするらしいで。
数カ月前に自身が放ったセリフが脳内で再生された。
過去のセリフと同時に過ったのは、こっそりとカレンダーをめくっていた鳴海の後ろ姿。
そして、約束の日が近づくにつれ、カレンダーへ視線を飛ばす頻度が増えたことも。
自分で着火させた火種とはいえ、これ以上大事な時間を削りたくはない。
「……はぁ、終わったことをアレコレ考えたところでどうしようもないしな。とりあえずタオル買うてくるか」
真夏の今は、絶賛水かけイベントの期間中だ。
どこかしらでタオルくらい売っているだろう。
水飛沫と歓声が行き交うエリア内を軽く見渡し、タオルを調達できそうな店を探す。見立て通り、どの店でもグッズを扱っていそうだ。
ひとまず近い店に入ってみるか。と、縁石から腰を浮かせようとした時だった。
人混みに消えたはずだった鳴海の姿を視界に捉えた。 迷いのない足取りで、こちらへ向かって来ている。
自分から戻ってきおった。めずらしいこともあるもんやな。
……ん? なんやあれ。
恋人の様子に違和感を抱いたのは、行動に対してだけではなかった。
鳴海が手にしていたのは、水浸しになった緑のカチューシャではなく、どこか既視感を覚える銃口だった。
それ、どうしたん?
素朴な疑問を投げかけるよりも先に、鳴海の口元が不敵に持ち上がった。
瞬間、透明な塊が視界を覆い尽くした。
反射的に目を閉じ、息を止める。
冷たいような、痛いような、複数の刺激が顔面神経を一気に圧迫する。
実際の時間に換算すると、大した長さではなかったと思う。が、体感的には5分オーバー水をぶっかけられていた感覚だった。
まともに肺へ酸素を送り込んだ頃には、顔面どころかスニーカーまでぐっしょりと水浸しになっていた。
局所的なスコールに打たれた気分だ。
全身のどこを絞っても、今なら大量の水が溢れ出すに違いない。
一周まわって空っぽになった頭を持ち上げれば、我が物顔で仁王立ちしている鳴海の姿がそこにはあった。
その頬には、くっきりハッキリ『大満足』と書かれている。
「いやいやいや! 急に何してくれんねん!?」
「ワハハ! 水も滴る何とやらじゃないのか?」
鳴海は高らかに笑いながら、慣れた様子でウォーターガンを肩に担いだ。
よく見れば、鳴海が装備していたウォーターガンは専用武器であるGS-3305の縮小版のような形状をしている。サイズや重厚感こそ違うが、見た目はそっくりだ。
「まったく、僕の恋人はどこまで自由人やねん。好き放題してくれるわ」
「水がぶっかかったボクを見て爆笑したんだ、当然の報いだろ。それに、お前だけ被害ゼロとか不公平だ」
奇襲が成功して機嫌が良いのか、顎を上げて話す声に毒はなく、むしろ声色はサッパリとしていた。
おまけに、角と尻尾を生やした笑顔を浮かべている一方で、その瞳は無邪気な達成感できらきらと光っている。
子供みたいな仕返しおって。ホンマ、しゃーない人やな。
まぁ、上から下まで濡れるのは想定外やったけど……今日のところは目ぇ瞑っとくか。
「とりあえずタオル調達せんとな。日差しも強いし、時短パスの時間まで30分弱や。外歩いとるうちにそれなりに乾くやろ」
ほな行くで、と声をかける。
だが、なぜか鳴海の姿は隣に並ばないままだった。
不思議に思い振り返れば、鳴海はじっと手元を見つめている。
鳴海の視線の先にあったのは、ふわふわの表面がぺしゃんこに潰れた緑の恐竜がくっついた、例のカチューシャだった。
「コイツ、帰りまでに乾くか?」
視線を手元に落としたまま、呟くようにして鳴海が尋ねてきた。
「中まで濡れとるかはわからんけど、この暑さやし、頭に乗せて歩いとったら表面は乾いとる思うで」
口にしたセリフはもちろん本心でもあったが、本来の目的はもう一度シャッターチャンスを生み出すことだった。
だが普段は通用するはずの思惑も、今日に限って3秒もしないうちに見破られてしまった。
結局、軽く水気を絞った恐竜はパークを後にするまでの約半日、保科の頭で日光浴をすることになった。
アナウンスと共に水かけイベントが終わり、爽やかな風が吹き抜けた。
エリア一帯にはあちこちに水溜まりができている。
一時的とはいえ、気化熱でクールダウンした風は心地良い。
雨上がりのような景色を目に映しつつ、鳴海へ声を掛ける。
「それ、僕も買いたいねんけど、どの店で調達したん?」
鳴海が担いでいたウォーターガンを指差せば、笑い飛ばすような声が返ってきた。
「はっ! ボクにリベンジを仕掛けるつもりか? 銃器の戦力を満足に解放できない奴が買ったところで、金の無駄にしかならんと思うがな」
「戦力の解放もなにも、テーマパークで売られとるもんに怪獣組織は組み込まれてないやろ。……けど、そうやな、亜白隊長の専用武器モデルのが売っとったら、それにしよか。威力も半端ないのは確定やろうしなぁ」
ふふんと鼻歌気分でリズミカルに返答すれば、面白いくらい恋人が声を荒げた。
「はぁ そこはボクのGS‐3305モデルにするのが恋人ってもんじゃないのか」
「鳴海さんに恋人呼びされるのは嬉しいんやけど、同じもん家に2つもいらんし。縮小版とはいえ、無駄にデカい分けっこうスペースとるで、それ」
淡々と事実を並べれば、鳴海はぐぎぎと異音が聞こえてきそうな表情を浮かべた。
ホンマ、見てても話してても飽きん人やな。
「笑う」以外のバリエーションの豊富さに、また声を上げて笑った。
隣にいるだけで四方八方に心が跳ねる。
ここまで感情を揺さぶってくる存在は、きっと鳴海くらいだ。
怪獣討伐という現実に戻るまで、残り数時間。
唇を重ねることは許してもらえなかったが、指を絡めるくらいは目を瞑ってくれるだろうか。
白い光と夏の賑わいに紛れるようにして手を伸ばした。
万が一、怒鳴り声が飛んでくれば……それこそストレートなセリフで丸め込めばええか。
そんな、夏に焦がれた想いを頭に描きながら。
ソーダ色の空には、くっきりと白い雲が浮かんでいる。