謳歌は剣より強し 修行帰りのこと。今日の夕餉は何にしようかと市場を覗いていると、若い女性の悲鳴が賑やかな市に響いた。
「泥棒よ! そいつを捕まえておくれ!」
声のする方を振り返ると、ボロボロの着物を身にまとい、髭や髪の毛を無造作に伸ばしたみすぼらしい男がこちらに走り込んでくるのが見えた。手には不釣り合いな桃色の花飾りがついた鞄を持っている。きっとあれが泥棒さんだ。
「邪魔だ、どけ! 斬られたいのか?」
進行方向を塞ぐように、立っている俺に彼は懐から短剣を取り出して脅してきた。刃物に頼るということは、あまり武術を心得ていないのだろう。
「悪いけど、その鞄返してくれるかな? 盗みは良くないと思うよ」
「うるせえ! お前に何が分かる。どかねえなら、その上等そうな着物を切り刻んでやる」
男は人混みの中をかき分けるように、刃物を振り回しながら、真っ直ぐこちらへと向かってくる。使い慣れていないのか、刃物を持つ手は震えているし、太刀筋も甘い。
困窮しているせいで、こんなことを企んでしまったのだろう。後先を考えていないというか、誰かれ構わず傷つけようとする態度に頭が沸騰していくのを感じた。今は昼で、市場の中には小さな子もたくさんいるのに。なんて人だ。
「甘く見ると、後悔するよ?」
「うるせえ、くたばりやがれ!」
俺の心臓目掛けて差し出されるナイフ。けれども、相手は腰が引けていた。初心者にはあんまり手を出したくないんだけどなあ。
俺は目の前に向かってくる刃物をしゃがんで避けた。そして、できるだけ手短に済まそうと手首を左足で蹴って短剣を落とし、慌てて逃げようとする男の腹に拳を一発入れた。
「ぐはっ......」
「今だ、捕まえろ!」
泥棒が倒れたのを見て、露天商の主人たちが次々とやってくる。あっという間に男はお縄についた。後は役所が何とかしてくれるだろう。
「いいぞ、兄ちゃん! かっこよかったぞ!」
ぱちぱちとあちこちで拍手と歓声が鳴り響く。俺は恐縮してどうもと片手をあげながら、ぺこぺこと頭を下げた。大したこと、してないんだけどな。あまり目立つことをするなと、兄さんに怒られてしまいそうだ。
「はい、お姉さんどうぞ」
「ありがとう!お兄さん、良かったらうちの店のもの何でも一つあげるから覗いていってよ」
お礼なんていいんですよ、と断っても彼女の気はおさまらなかったらしく、半ば強引に店の前まで連れてこられてしまった。彼女の店は雑貨店で腕輪や簪といった可愛らしい商品が所狭しと並べられている。随分、品揃えが豊富で裕福な店なのだろう。
「あんた、顔がいいんだから好い人の一人や二人いるんじゃないの? どれでも好きなの持っておいき」
一人以上いたらダメだと思うんだけどな。あはは、と苦笑いを浮かべながら、お言葉に甘えて店内を見せてもらう。
奥の方で何かがキラリと光り、俺はそれが何か気になって吸い寄せられるように顔をそちらに寄せる。目にした瞬間、これをあげた時の凰香の喜ぶ顔が頭を過ぎった。
「......それじゃあ、これください」
「あんた、そんなのじゃあ女の子は喜びやしないよ〜。子どもじゃないんだからさ」
「これがいいんです。あ、それと、こっちは買わせてください」
差し出した商品に怪訝そうな顔をされた──心底残念な男を見るような視線を送られたが、店主は満足気な俺の顔を見て、困ったように笑った。けれども、俺が二番目に取り出した商品を目にした時、彼女はあんたも男だねえと生暖かい視線をこちらに寄越したのだった。なんだか、見透かされているようで居心地が悪い。
「お金なんて取れないよ。あんたは私の命より大事な鞄を取り返してくれたんだからさ」
結局押し切られる形でお代は受け取って貰えなかった。
* * *
「二葉、見てくれ!」
家に帰って早々こと。凰香がぱたぱたとかけてくる。白い肌を桃色に染め、子どもみたいにはしゃいでいる姿が愛らしい。
「なあに? どうしたの」
俺は紙袋いっぱいに詰められた食材を調理場の戸棚に移し替えていたところだった。いくらなんでも貰いすぎちゃったかな?
円卓の上に所狭しと乗っている食材は、市場でタダ同然で受け取ったものだった。お金を払うと言っているのだが、先の件があって皆俺の事を英雄扱いして受け取って貰えなかった。暫くは食べるものに困らないから、ありがたいんだけど、ちょっと気が引けるよね。
「この子が......!」
「うんうん」
俺は凰香が抱き上げた笹熊を見て、彼がなんと言いたいのかがすぐに分かった。でも、口に出しては言わない。きっと自分で俺に伝えたい筈だから。
「この子がな、遂に回れるようになったんだ。しかも、三回転もする......!」
「きゅっ!」
えっへんと、硬い表情の主人に代わって凰香の腕の中の笹熊くんが胸を張ってにっこり笑っている。
「へぇ、そうなの!? すごいね〜」
軽く頭を撫で撫でしてあげると、笹熊くんは嬉しそうに鳴き、もっとと言っているみたいに俺の手に頬ずりをした。うん、これは凰香がメロメロになっちゃうのも分かる気がする。
「ほら、見てくれ!」
凰香は腕の中から笹熊くんを下ろすと、右膝をつき、手を笹熊くんの方に広げた。どーん! という効果音が聴こえてくるような気がするよ。
「きゅ、きゅ〜〜〜〜、きゅっ!」
短い足を後ろに引き、反動を付けると笹熊くんはくるくると回り出した。軸足のつま先だけで体を支えている。いつの間に会得したんだろう。凰香はそれを見て、嬉しそうに「がんばれ」「すごいぞ」「......天才だ」と胸の前で拳を握っていた。相変わらず親バカなんだよなぁ。
「......かわい」
「そうだろ? 分かるか、二葉」
「あっ、うん。ほんとすごいね」
今のそっちじゃないんだけど、まあいっか。俺は懐から小さな袋を取り出して、中身をくるくると回っている笹熊くんに差し出した。というか、全然止まらないんだけど、目回らないのかな?
「はい、今日露店で見つけてさ。君のことが真っ先に思い浮かんだんだ」
「きゅう?」
銀メッキでできた玩具の剣。決して高級なものではないけれど、これをあげたときの二人の喜ぶ顔が浮かんだから、これにすると決めたんだ。
目線を合わせようとしゃがみ込んだ俺に笹熊くんは回るのをやめて、ぺちぺちと近寄ってきた。
「はい、どうぞ。これで凰香とお揃いだね」
「きゅう!」
笹熊くんは嬉しかったのか、その剣を持ってまたくるくると回ったり、凰香の真似をして剣舞を始めたりした。隣で親御さんもにっこりしています。貰い物だけど、これにして良かったな。
「はい、凰香はこっちね」
俺は立ち上がると、懐から小袋を取り出し、中身を掌の上に置くと凰香に差し出した。
「孔雀と真珠の耳飾り。ほら凰香が舞で使う剣の飾りに似てるでしょ。きっと、これを付けて舞ったらもっと綺麗に見えると思うんだ」
付けていい? と聞くと、凰香は駄目だと言ったらやめるのか? と意地悪を言った。勿論、断られたってつけてあげたけど。だって、見たいじゃない?
耳飾りのうちの一つを円卓の上に丁寧に置き、もう片方は凰香の耳元へ。途中指が頬を掠めると、凰香は気持ちよさそうに目を閉じた。......信頼されてるってことは分かるけど、無防備すぎるのもどうなの? ふつふつと湧いてくる悪戯心を押さえて、無心で作業を進めることにする。
指通りのよい柔らかな髪の毛を耳にかけると、ぴくりと細い肩が跳ねた。なんだかイケナイことをしているみたい。俺は動揺を隠すように唇をぎゅっと引き結んだ。
「ん......」
耳飾りを挟む位置を確かめるために、耳朶をなぞると、凰香から鼻に抜ける甘い声が鳴る。緊張からなのか、自分の喉を汗が伝っていった。震える指先で、なんとか耳飾りをつけてあげることができた。
「はい、どうぞ」
目を開けた凰香は、懐から手鏡を取り出すと、耳元を映してすぐに確認してくれた。
「うん、綺麗だな。良い物をありがとう。しかし、何をしたわけでもないのにこちらが貰うばかりでは気が引ける。今度俺も露店を覗いてみよう」
「えぇ、いいのに。俺があげたかっただけだから。それになんでもない日に恋人に贈り物をしちゃいけないっていう決まりはないでしょう?」
凰香は俺の台詞にそうだなと頷いて、それからやはりお返しをすると言って譲らなかった。真摯なところは彼の良いところだけれど、あまり気負いすぎないで欲しいな。俺はこうして一緒にいるだけで、十分幸せなんだから。
「……あ、いつの間にか笹熊くんいなくなってる」
先程までくるくるとはしゃいでいた凰香の笹熊くんの姿が見えない。賢い子だから遠くには行っていないと思うんだけど。
「ああ、大丈夫だ。きっとその辺にいる他の笹熊にでも自慢しているんだろう。満足したら戻ってくるだろう」
「ほんと? じゃあ、その間俺とお茶会でもどうですか?」
「ああ。というか、そのつもりで茶菓子を持ってきていたんだ。まだ片付けに時間がかかるようだから、俺がお茶を淹れるとしよう」
凰香は迷いなく急須と茶葉が入っている戸棚に手をかける。そして湯を沸かしながら、不意に話し始めた。
「そういえば、町で賊を捕まえたんだと聞いたんだが、本当か?」
「うん、見て見ぬ振りができなくてさ。凰香だってきっと同じことしたでしょう?」
「さあ、どうだろうな。俺の場合、加減が難しい。人助けを迷いなくできるところが二葉らしいと思う」
片付けが終わった俺は既に椅子に座っていて、ぼんやりと凰香を見つめていた。彼が歩くとしゃらしゃらと耳飾りが鳴っていて、その音が心地いい。
手持ち無沙汰になったのか、盆の上に茶菓子を載せた凰香が向かいの席に座る。なぜだかその顔は眉間に皺を寄せていた。
「ん? 凰香、なんか怒ってる?」
「......別に」
「えっと、俺のせい?」
「違う」
即座に否定の言葉が飛んでくる。彼は嘘をつけないから、機嫌が悪いのは俺のせいではないのだろう。だったら、どうして? 何も言わずに心配そうに凰香のことを見つめる。すると、彼は大きなため息を一つついて、言わなきゃ駄目なのかと聞いてきた。
「言いたくなかったらいいけど、何かに悩んでるのなら、教えてくれたら力になるよ」
「そういう聞き方はずるいと言われないか?」
痛いところを突かれて、うっと肩を落とすと、凰香はその仕草にふっと笑みをこぼした。丁度その時、お湯が沸いた音が室内に響いて、凰香が立ち上がる。表情が隠れると、ぽつりと彼は言った。
「来る時に娘たちがお前の噂をしていたんだ。それを聞いて、お前が見た目に寄らず腕が立つことやかっこいいことは俺だけが知っていればいいと、柄にもなく妬いただけだよ」
「......っ!」
背を向けていたから、凰香がどんな顔をしているのか分からない。けれども、俺は予想もしていなかった褒め言葉に顔が熱くなっていくのを感じた。がたりと、椅子が後ろに倒れる。駆け寄りたかったが、お湯を注いでいる凰香に駆け寄るわけにもいかず、その場でかたまってしまう。
「今のはずるいよ......」
「どうした? ほら、茶が入ったぞ」
赤くなった俺を見ながら、凰香は顔色一つ変えずお茶の乗った盆を卓の上に置いた。
「もう、凰香が格好良くて辛いって話!」
今度こそと駆け寄って、腕の中に恋人を引き寄せると反動でしゃらりと耳飾りが鳴った。
俺だって、凰香の舞を皆に見て欲しい一方で、誰にも見せたくない、俺の前でだけ披露して欲しいと願ってしまうことがある。
贈り物だって、彼が自分と恋人であるという証が欲しかったから贈ったまで。市場を覗いたのは何か素敵なものがあればという考えもあったからだ。なんの縁かお代を払わずに手にしてしまっただけで。
「うう。これ以上、格好良くならないで」
「妬かれるのも案外悪い気はしないな」
子どもっぽい自分が情けなくて、でも許して貰える気がするから、つい口から願望が漏れてしまう。腕の中の凰香はいつの間にか笑みを浮かべていて、今日のうちで一番輝いて見えた。
眩しさに引き寄せられるように顔を寄せると、自然と互いの瞳が閉じる。もう少しだけ笹熊くん達が帰って来ませんように。
凰香の言葉はいつだって俺の心を突いて離さないから。いつまでも腕の中に大事にしまっておきたいと願ってしまうんだよ。