アサイーボウル 店内には甘い香りと、かすかに流れるジャズが漂う。窓際の席から差し込む午後の陽光が、テーブルの上でまだらな影を作っている。留三郎は時折、通り過ぎる人々の姿を眺めながら、伊作の戻りを待っていた。
「お待たせー」
聞き慣れた声に顔を上げると、伊作が困ったような笑みを浮かべて立っていた。手には注文したはずのクレープではなく、紫がかった鮮やかな色合いのボウルが握られていた。
「なんだそれ」
「アサイー……?って言うらしいよ」
らしい、ってなんだ。お前が頼んだんじゃないのか。
「いやあ、なんか店員さんが間違えちゃったみたいで」
席に着きながら説明を始める伊作に、留三郎は呆れたような表情を浮かべた。
「なんで言い直さなかったんだよ」
「だって店員さん、すごく忙しそうだったから。他にも並んでる人たくさんいたし」
留三郎はため息をつきながらも、思わず柔らかな笑みがこぼれた。全く、と言いたげな表情で伊作を見つめる。本当に伊作らしい。優しすぎるところも、相手の気持ちを考えすぎるところも、全てが愛おしく思えてしまう。
「まあ、アサイーっていうのも美味しそうだし」
伊作はスプーンを手に取りながら明るく言った。
「たまにはこういうのも良いかもね。今流行りらしいよ」
「食べたことあるのか?」
留三郎が紫がかった鮮やかな色合いを見つめながら尋ねた。見た目は確かに綺麗だった。バナナやブルーベリーらしき果物が、まるで宝石のように輝いている。
「ううん、初めて」
伊作は首を振る。
「留三郎は?」
「俺も食べたことないな」
伊作が最初にスプーンを口に運んだ。その瞬間、彼の表情が微妙に曇る。いつもの穏やかな笑顔が、困惑に染まっていく。
「どうだ?」
伊作は言葉を選ぶように少し考え込んだ。スプーンを持つ手が宙で止まる。
「なんて言えばいいんだろう。味が薄い?ような」
伊作に差し出されたそれを、留三郎も一口食べてみる。冷たい食感は心地よかったが──全然甘くないな、と思わず素直な感想が漏れた。
「女子が好みそうな、健康志向な味っていうのか?」
「そうそう!」
伊作は留三郎の言葉に賛同するように頷く。その仕草に、なんとなく安堵の色が見える。
「説明しづらいけど、なんか物足りないというか……期待してた味じゃないというか」
「野菜ジュースをかき氷にしたみたいな?」
留三郎が真剣な顔で言うと、「あ、分かる!」と伊作が目を輝かせる。
「でも、なんかそれよりもっと……」
「健康?」
「うーん、それだけじゃない気がする」
伊作は必死に言葉を探す。
「お水を凍らせて、ちょっとだけヨーグルトを混ぜて……」
「果物の気配だけ匂わせて……」
「実は果物じゃなかった、みたいな?」
二人で顔を見合わせ、思わず吹き出してしまう。真剣に味の正体を探ろうとする二人の姿は、きっと横から見たら相当おかしな光景だったに違いない。
店内には相変わらず甘い香りが漂っている。となりのテーブルからは、女子高生たちがクレープを頬張る楽しそうな声が聞こえてくる。留三郎は、アサイーをつつく伊作を見つめながら、ふと思い立った。
「向かいのコンビニでアイス買ってくるか」
留三郎は諦めたような、でも少し愉快そうな表情で言った。伊作は申し訳なさそうに笑いながら立ち上がる。
「うん、そうしよう。ごめん、わがまま言って」
「気にするな」
コンビニを出た頃には、街は夕暮れの柔らかな光に包まれ始めていた。信号機の色が鮮やかに浮かび上がり、行き交う人々の影が長く伸びている。人気がまばらな公園のベンチに腰を下ろす二人の肩が自然と寄り添う。留三郎はアイスの包装を開け、伊作の方へ差し出す。彼はいただきますと微笑んで、留三郎の手首を軽く掴んで一口。それから「留三郎も」と返す。毎回地面に落とす伊作のために、手ずからアイスを分け合ううち、いつの間にか定着した二人だけの食べ方。最初は気恥ずかしかったが、今では当たり前のように一つのアイスを共有している。留三郎は伊作の仕草を眺めながら、気付かれないように頬が緩むのを感じていた。
「あのさ」
伊作が静かな声で呟いた。
「こういうの、好きかも」
「アイスが?」
留三郎は伊作の横顔を見つめた。
それもだけど、と伊作は膝の上で指先を絡ませながら続ける。
「失敗しても、留三郎となら笑い話になるの。なんか、心が軽くなるというか」
留三郎は黙ってその言葉を受け止める。夕暮れの光が伊作の瞳に映り込み、そこには優しい色が浮かんでいた。
「次からは間違えられても、ちゃんと言い直せよ」
見惚れをごまかすように、留三郎は肩を軽く叩きながら言った。うん、と伊作は照れくさそうに笑う。
「でも、いい経験になったかな。留三郎と一緒に新しいものを試せたし。こんな思い出も、大切だよね」
その横顔に橙が柔く照らし、留三郎は一瞬息を呑んだ。
「お前な……」
留三郎は呆れながらも、その言葉に胸の中が暖かくなるのを感じていた。
伊作のこういうところ、本当にずるい。
当の本人は、夕飯どうする?と呑気に尋ねてくる。留三郎は軽く咳払いをして視線を逸らした。緩んでいた表情を取り繕おうとしたが、伊作の方を見ると、またどこか柔らかな気持ちが溢れてくる。
「思いっきり脂っこいのがいいな」
そう言うと、伊作の目が輝いた。
「油そばとか?」
伊作の提案に、今度は留三郎の目が細まる。
「いいな。大盛りで」
「あ、なら具材は──」
「全部のせ!」
声が重なって、二人は顔を見合わせ、どちらかもとなく笑い合った。
失敗したデートになったはずなのに、特別な思い出として二人の記憶に刻まれることになった午後。
駅前は帰宅時間と重なり、人の波が溢れかえっていた。伊作が少し遅れがちになるのを感じた留三郎は、自然な流れで後ろに手を伸ばした。暖かな手が重なる。
「迷子になるなよ」
さり気なく言う自分の声が少し上ずっているような気がして、留三郎は頬を掻く仕草で耳の赤みを隠そうとした。伊作はそれに気付きながらも、ただ優しく手を握り返した。
二人の影は寄り添うように長く伸びて、やがて夕暮れの街に溶けていった。