ホットチョコ 留三郎は時計を見て、ぽよんっと通知音の鳴るスマホに届いた一通のメッセージを確認した。遅れるごめんという短い文面に返信するも、既読がつかないのを見て小さくため息をつく。コンビニのイートインスペースの窓から見える駅前広場の雑踏をぼんやりと眺めていた。
長針が十を過ぎた頃、遠くから己を呼ぶ声が聞こえ、顔を上げると坂道を駆け上がってくる伊作の姿が見えた。彼の肩には大きなショルダーバッグが下げられ、額に浮かんだ汗が夕日に照らされて光っている。
「今度はどうした?」
もう少し早く連絡してくれないと心配するだろうと言いかけたが、息を切らしている様子を見ると、それどころではなかったのだろうと思い直す。
「ごめっ……準備に時間がかかっちゃって、しかもっスマホの充電が……!」
伊作は肩で息をしながら説明し始める。時計が遅れていて最初のバスに乗り遅れ、次のバスを待っていたら突然の夕立に見舞われて避難したこと。やっと雨が止んでからバスに乗ろうとしたら財布をどこかに落としたらしいこと。結局財布は家の玄関に落としていたようで。
「すまない留三郎……」
その頬は走ってきたせいか、少し赤みを帯びていた。
いつものことだ。伊作の遅刻はもはや日常の一部と言ってもよかった。不本意だが、慣れてしまったというのもあるが、伊作の遅刻には必ず理由があり、単なる寝坊や時間の管理ができないというわけではないと知っていたからだ。
「災難だったな。まあ、財布は見つかってよかったじゃないか」
留三郎は立ち上がり、肩にかけていたリュックの重さを確かめるように軽く上下させた。
コンビニを後にした二人が向かったのは、市街地から少し離れた高台にある公園だった。夕暮れが深まり、空の色がオレンジから濃紺へと変わりつつある。公園に着くと、伊作は開けた芝生にレジャーシートを敷き始めた。さらに小さな毛布を取り出してはシートの上に広げ、布が風を含んでぱさりと音を立てる。留三郎は周囲を見回す。伊作が選んだ場所は小さな丘の上で、街の明かりが少ない絶好の場所だった。
『夜の公園に行きたい』
これは伊作の言葉が発端となり決行されたものだ。
夜桜を見たいのかと思ったが、今はとっくに葉桜で、大型連休に入ろうとしている真っ只中だ。趣向を変えたピクニックでもするのかと聞けば、「違うよ」 と返された。
『星を観るんだ』
留三郎は空を見上げた。まだ薄明りの残る空には、星らしきものは殆ど見えない。
「まだ見えねえな」
「だからこそいいんだよ」
伊作はリュックから水筒とタッパーを取り出しながら言った。
「だんだん星が現れてくるのを見るのが好きなんだ。空が変わっていく感じとか」
天気予報では快晴と出ていたから、今夜は星が綺麗に見えるはずだよ、と伊作はシートに座ってタッパーの蓋開けに手間取っている。
「だから先日、望遠鏡持参でって言ってたんだな」
「そう。留三郎が持ってるって言ってたから、お願いしたんだ」
留三郎は伊作の隣に腰を下ろした。シートの上は意外と快適で、柔らかいブランケットが体重で少し沈む。
彼と付き合い始めてから、天体観測などしたことなかった。機会がなかったというべきか。
留三郎が呟くと、伊作は嬉しそうに頷いた。
「いつも映画とか、カフェとか、室内のデートが多かったもんね」
伊作がタッパーから取り出したおにぎりを差し出す。留三郎は礼を言いつつそれを受け取り、一口かじった。シンプルな塩おにぎりだったが、外の空気のせいか、いつもより美味しく感じる。
「高校の時、よく屋上で昼食べてたの思い出すなぁ」
伊作は懐かしそうに言った。
「いつの間にか立ち入り禁止になっちゃったよね」
「今思えば妥当な事だよな。お前、手すりから落ちそうになってやばかったんだぞ」
「留三郎こそ、落ちかけた僕を掴んで二人して転げ落ちそうになったじゃん」
二人は当時の思い出話に花を咲かせながら、徐々に暗くなる空の下で時を過ごしていた。気が付けば、空はすっかり藍色に染まり、一つ、また一つと星が姿を現し始めていく。留三郎は小さなランタンに火を灯し、二人の間に置いた。その柔らかな明かりが、伊作の顔を優しく照らし、その瞳に小さな光の粒を浮かび上がらせる。周囲の闇はより深く、星々はより鮮明に感じられた。
「あの明るいの、宵の明星だよ」
留三郎は伊作が指す方向を見上げた。確かに、ひときわ明るい星が瞬いている。
「よく知ってるな」
「勉強したんだ」
今の時代は何でも調べられるから、と伊作は得意げにスマホを取り出して、画面をスワイプする指先が小さな光を放つ。
「北斗七星って星は覚えてる?」
「授業で習ったような気がするな」
「あの尻尾の部分を延長していくと、こっちに橙色の星、白色の星があって、それを繋いだものを春の大曲線というんだ」
「へえ」
時間が経つにつれ、夜空には星々が溢れるようになっていった。伊作はスマホを覗きながら、次々と星座について教えてくれる。それって勉強っていえるんだろうかと頭を過ぎるも、まあ本人が楽しそうだし、いいか。
天文学にはあまり興味がなかったが、熱心に語る様子に引き込まれ、留三郎は自然と星空に魅了されていった。
「あ、そうだ」
留三郎は思い出したようにリュックの中に手を伸ばした。金属部分が月明かりに照らされて、冷たく光る。伊作がまるで子供のように「わっ」と目を輝かせて小さな望遠鏡を見つめる中、留三郎は三脚を広げ、望遠鏡本体を取り付けた。金属フレームがカチリと音を立てて固定される。調整用のネジを指先でゆっくりと回し、星空に向けて角度を合わせていく。伊作はその様子を食い入るように見つめていた。望遠鏡を少し動かし、ファインダーを覗き込む。
「ほら、見えるぞ」
伊作がそっと覗き込むと、小さな歓声を上げる。
「すごっ、星がこんなにはっきり見える!」
わくわくした様子で望遠鏡を覗き込む伊作の横顔を見て、留三郎は柔らかな笑みを浮かべた。望遠鏡を持ってきた甲斐がある。
伊作はまた望遠鏡を覗き込み、様々な星座を見つけては喜んでいたが、徐に彼が小さなくしゃみをした。暖かくなってきたとはいえ、気づけば夜風が少し冷たい。
「これ飲むか?」
留三郎は魔法瓶を手に取り、少しだけ蓋を開けた。湯気が立ち上ってほんのりと顔を温めると共に、香ばしい甘い香りが立ち上る。
「わ、チョコレート?」
伊作が目を丸くする。
「冷えた時には格別だろ」
留三郎は自分用のカップも注ぎながら言った。
伊作はカップを両手で包み込むように持ち、一口飲んだ。
「美味しい……!」
素直な感想が聞けて、留三郎は嬉しそうに微笑んだ。
「良かった。朝から色々試した甲斐がある」
伊作のために丁寧に作ったものだった。少し手間をかけて、シナモンを加え、濃厚なチョコレートを溶かし込んだ。チョコの甘さとシナモンのスパイシーさが絶妙に調和し、濃厚な味わいが口の中に広がる。伊作の甘いものへの愛情は留三郎も知るところで、星空観察にはこれが良いだろうと思っていた。
「朝から?」
伊作は驚いて留三郎を見た。
「すまない。わざわざ準備してくれたのに、僕が遅れてしまって……」
「気にするな。今、温かいうちに飲めるから、ちょうどいいんだ」
そう言いながら、留三郎は自分の声が少し柔らかくなっていることに気づいた。
「それに、お前が喜んでくれれば、それでいい」
本心を口にして、しばし沈黙が続く。何か変な事言っただろうか。その静けさに少し居心地の悪さを感じた時、伊作がそっと身を寄せてきて、抱きしめられた。伊作の体温が伝わってきて、僅かに汗の混じった匂いがする。
「なんだよ突然」
「お前はさ……」
伊作は顔を留三郎の肩に埋めたまま「こういうところがずるいんだよ」と小さな声で言った。
「何が」
「何も言わずに、こんなに準備してくれるとこ」
伊作が顔を上げて、まっすぐに留三郎の目を見つめる。
「いつも僕のことを一番に考えてくれるところ」
「そりゃあ……」
惚れた弱みだ。空の星より、目の前の伊作の方が何倍も輝いて見える。伊作の顔がゆっくり近づいてきて、唇に軽く重ねられた。伊作の唇は柔らかく、ほのかにチョコレートの甘い味がした。夜風が二人の髪を優しく撫でる。頭上には無数の星が煌めいている。伊作は留三郎の隣に横になり、彼の手を取った。
「また来ようよ」
伊作が呟くように言う。
「今度は夏の星座が見える時期がいいな」
指と指が絡み合い、その温もりが心地よい。今宵の星たちは、いつもより綺麗に見えた。それは単に空気が澄んでいたからではなく、隣にいる大切な人と一緒に見ているからなのだと、留三郎は思った。
帰り道、伊作が「あれ、流れ星!」と空を指差した瞬間、留三郎はこっそりと願い事をした。これからもずっと、こうして伊作と一緒にいられますようにと。