雪山奇譚雪山の奥に庵を構えてから、俺と老温は穏やかな日々を送っていた。
その夜も、雪がしんしんと降り積もり、庵の周りは静まり返っていた。
燭の火がじり、と音を立てる。
酒杯を前に、俺はふと口にする。
「なあ、老温。この庵、誰も近付かないな」
老温は笑って頷いた。
「そうだな。この雪深い場所に、人が来るはずもない」
ふたりで静かに杯を交わし、床についた。
──夜半。
どこかで、
「…阿絮……」
と、微かに俺を呼ぶ声がした。
か細く、儚げで、だが間違えようが無い声。
俺は目を開け、隣に眠る老温を見やる。
穏やかな寝顔、規則正しい寝息。
「……気のせいか」
そう思い、再び目を閉じる。
──また、聞こえた。
「阿絮……こちらへ……」
背筋に冷たいものが走り、俺は身を起こした。
燭の火は消え、庵の戸はぴたりと閉じられている。
外は猛吹雪。人の気配などあるはずがない。
老温を揺り起こそうとするが、ぴくりともしない。
その時、背後から「阿絮」と声がした。
振り向けば、そこには老温が立っていた。
しかし、俺の手には確かに老温の腕を握っている感触がある。
「……老温、お前、そこにいるのか?」
老温は、微笑んだ。
「阿絮、私はお前のそばにいる」
俺は、もう一度布団の方を振り返る。
だが、そこにも同じ顔の老温が、穏やかに眠っている。
凍りつくような沈黙の中、消したはずの燭の火が、ぼうっと赤く灯る。
「老温……お前……」
──翌朝。
庵の中には、老温の姿がひとつだけ。
昨夜のことを話すと、老温はふっと笑い、こう囁いた。
「阿絮、お前が見たのは、きっと私の想いが人型となって現れたのであろう。雪の夜は稀な事が起こるもの」
老温の右手の袖口には布が挟まっていた。
それは──
昨夜布団の中の老温の衣の袖だった。
──「じゃあ、昨夜俺の隣にいたのは、誰だ?」