メメント・モーリ彼は動かなかった。
自国の気候とはまったく異なる、
熱い砂埃と乾燥しきった強風に容赦なく当てられてみるみる体力を消耗しつつあったが、
それでもじっと。
硝子の砂塵に、時間の摩滅を見ていた。
死ぬつもりでいた。
深い、焼け付くような絶望と、混濁した理性と、乾ききった疲れと、
果てしなく吹き荒れる音のしない静かな沈み。
彼の心の中は、今 彼の立っている硝子の砂漠 そのものだった。
彼は死について考えていた。
死ぬことは、今まで生きてきて 何の才能もなく、何の役にも立たず、
何の価値も見出すことの出来なかった自分が
世界に出来る唯一の貢献のように思えた。
恐れや不安など微塵もなかった。
むしろ 落ち零れ、役立たずと蔑まれ、
屈辱と憎悪とやるせなさだけを抱いて生きていくよりは、
死はずっと安らかに思えた。
彼はまるで落ちている物を拾い上げるように無感動に
自分の手を持ち上げて眺めた。
ただの一度も、何を得ることもかなわなかった、
空しいばかりの己の手。
硝子の塵に傷つけられて、腕全体が細かい切り傷だらけだった。
惨めな有様こそ、私に似合いだ。
彼は思ったが、自嘲して笑うことも出来なかった。
それほど熱風は彼の体力を奪い去り、硝子の破片は彼の喉を食いちぎっていた。
この広大な、砂嵐の吹き荒れる絶海の孤島で、いよいよ私は死ぬのだ。
麻痺してきた感覚が頭を埋め尽くし、暗くなっていくのを感じながら、
彼はその場に崩れ落ちる準備をした。
しかしそれは妨げられた。
… … 誰だ?
彼は重い頭を億劫に持ち上げて辺りを見回した。
誰も居なかった。というより、砂嵐で何も見えなかった。
しかし、このひどい騒音の中でもはっきり聞こえた。
声ではなかったのかもしれない。音など超越しきった、それは思念だ。
待て
確かにそう言われたと、感じた。
しかしすぐに馬鹿馬鹿しいと思った。
こんな不毛の大地、荒れ果てた孤島に、一体自分の他に誰が居て、
死に行く自分を止めたりなどするだろう。
幻聴だ。まだこの世に未練があるんだろうか。
彼は目を閉じなおした。するとその途端、
待て
たちまち瞼の奥に真っ赤な映像がはじけ散った。
「うわあっ!!」
たまらず彼は突き飛ばされたようにその場に倒れた。
衝撃に息が詰まった。硝子が喉に食い込むのを感じた。
何だったんだ!?
咳き込みながら、彼は必死にたった今起こった出来事を理解しようとした。
範疇外すぎて無理だった。
しかし何者かが、彼以外の何者かが確かにこの場に居て、
彼に呼びかけ、あの奇天烈な映像を見せたのだ。
理解は出来なくても、全身で分かっていたことだった。
先ほどの赤い映像に浮かび上がった黒い影が竜の形をしていたことを思い出し、
彼は体の底から震えがのぼってくるのを感じた。
と、そのとき、不意に砂嵐が止んだ。
何かの意志で操作されているようだった。
急に静まり返った夕暮れの砂漠を見回していると、
再びあの 脳髄に響くどす黒い声が彼を呼んだ。
来い
あまりにも従いがたく、あまりにも抗いがたい誘いだった。
この島の恐ろしい噂は以前耳にしたことがあったけれども、やはりそれは真実だった。
古の魔物、忌むべき竜族の長の亡霊に呪われた島なのだ。
逃げ出そうと二、三歩後ずさって、しかしふと、彼の足は止まった。
逃げて私が行くところなどない。
そもそも死ぬために、この島に来たのだ。
逃げようだなんて…そんなこと かなうはずがないのに。
私が生きてもいい場所など、あるはずがないのに。
絶望の果てに自身が出した答えを思い返して、彼が立ち止まると。
もう一度あの声が、彼を招いた。
それが頭の中を支配するのを感じながら、彼はぼんやり気がついた。
そうか…これは 死だ。
死が 私をこんなにも呼んでいるのだ。
わざわざ あちらから迎えに来てくれたのだ。
私を必要として呼びに“来る”ものなんて、初めてだ。
嬉しい……
しびれきった全ての感覚を無理やり引きずり起こして―――
それでももう、とっくに狂ってしまっていたに違いないが―――
彼は小さく微笑んだ。
そして、ゆっくりと歩き出した。
砂漠の果て、竜の住む洞穴へ。
死の呼ぶほうへ。
(了)