ブリーフィング1その日はいつもの変わらない朝だった。しかし立香の用意はいつもより入念だった。珍しくブローをして、いうことの聞かない跳ねた髪を梳かす。すると強情な寝癖も弱くなって、見栄えがよくなる。
「……」
鏡の前に映る立香はデートに向かうような少女の恰好ではない。ただ髪を整えただけ。
むしろ他の乙女の最低限とすらいえない用意だ。色付きのリップすらつけずに、立香は礼装に袖を通す。さらっと髪の毛を揺らすと、心は満足感で満たされた。
「これでいい」
言い聞かせるように呟いた。化粧やヘアアレンジなどは立香の専門外。
そもそも髪の整え方など、ここに来る前から、シュシュで無理やり誤魔化していた。それでも目立つ時は水をぶっかけて自然乾燥。
寝坊してびしょびしょの髪で管制室に行った時はゴッフに叱られたものだった。
『女の子でしょうが!寝ぐせの直し方くらい知っておきなさい!』と。
やれやれと言わんばかりにブローの仕方を教えてくるゴッフ。
その姿を思い出して、思わず笑いがこみ上げてくる。
(あの時、教わっててよかったー)
そもそもここに来てから、身なりなどに気を使う暇はなかった。
礼装だって十分可愛いものが多い。それに加えて何かと思う心の余裕もなければ、思ったところで面倒だと切り捨てた。
しかし今日は特別な日。ほんの少し、自分に勇気を持ちたくて、滅多にしないブローをした。
仕上げにオイルを手に付けて髪を梳けば、いい匂いがして、柔らかくなった髪に立香はうっとりとほほ笑んだ。
(気づいてくれるかな)
ちょっとだけ淡い期待を胸に灯す。
そして、その他の用意も手早く終わらせ、立香はいつものルーティンをこなしていった。
(いつなんだろ)
ワクワクというより、そわそわに近い気持ちだった。
しかし時間までは約束していなかったため、タイミングがわからない。夕食を食べ終わった時には、行き場のない緊張に嫌気がさしてきた。
とぼとぼと部屋に戻って、しばらく待ってもカドックがくることもなく、時間だけが過ぎていく。
「……もう、お風呂入らないと」
手で髪を梳けば、朝のブローが残っていて、勿体ないと見つめてしまう。時刻は夜の8時半。
(1日、待ってたのに)
不貞腐れるように着替えを持って、立香はお風呂へと向かう。
しかし――もし今来たら。そう思うとゆっくりと湯に浸かれなかった。烏の行水とまではいかないが、体を洗うだけでお風呂を終わらせる。
「さむっ」
脱衣所に出ると、湯に浸からなかったせいで、寒暖差に肌が晒された。慌てて体を拭いて、少し湿り気のある肌に寝巻を無理やりかぶせる。
そして立香のする最低限のスキンケアに手を伸ばした。
その上の棚にはこういう時に使うべき、パックや美容液がもらったままの姿で放置されている。ちらっとそれに目が行くも、手はいつもの化粧水を選んだ。
(今度、今度。また今度、時間ある時にしよう)
言い訳しながら、乳液を追加でつけて残った液体を適当な肌に擦りつけた。あとは髪を乾かして終わり。
「……」
立香の瞳が見つめるのは、朝使ったヘアオイル。濡れた髪を一束持って考える。
スキンケアと違って髪の毛のオイルはいい匂いがして、触り心地もすぐに違いを実感できる。しかし夜は誰も会わないのだから使ったところで意味はない。
(でも、今日は……)
脱衣所の時計はまだ8時40分。
会うかもしれないという淡い期待が、立香の手を動かした。サラっとしたオイルを髪になじませ、地肌を乾かすようにドライヤーをする。しばらく乾かして、朝と同様に櫛で溶かせば、洗い立ての髪は朝よりも素直に梳けていった。
「わあ……」
鏡に映る自分の髪をみて、感動で声が漏れる。
あれほど跳ねていた髪が大人しく内側を向いていた。
仕上げに少しオイルを毛先に着ければいい匂いも相まって、少し恥ずかしくなってくる。
(なんか、すごい気合入れてる人みたい)
化粧もなく、恰好もただの寝巻。しかし朝よりうんと立香の髪は綺麗だった。
(見て、欲しいな……)
一束髪を持っていじる。その髪を見てどんな反応をくれるのか気になった。
(そっちがいつまでも来ないなら、こっちから確認しに行ってもいいよね)
「……確認、確認するだけ」
小さく呟いて、寝巻に上着を羽織った。部屋を出る前に鏡で少しだけ髪を整える。
(変じゃ、ない。大丈夫)
小さな跳ね毛すら、整えられた髪の中だと目立ってしまう。満足のいく仕上がりに立香は歩き出す。
向かう先はカドックの部屋。幽閉室までの距離はさほど遠くないが、一歩踏み出す度にドキドキと胸が鳴った。
(ついちゃった……)
目の前のドアは今まで何度も叩いたドア。いつもは平気で叩けたのに、今はドアに拳をかざして止まってしまう。
(やっぱり帰ろうかな)
往生際が悪いと思いつつ、ノックをする勇気が出なかった。ただドアを見つめてしまって、動けない。
「……はぁー」
なんのために髪にオイルを使ったのか。ため息と一緒に揺れる髪を見て、少しは勇気を貰えた気がした。
――コンコンコン
意を決して小さくノックする。じっとドアを見つめて、返事を待った。
「……」
「……」
「……」
――何も、音がしない。怪しんでドアに耳をつけても、生活音1つすらしない無音だった。
(もしかして、留守……? )
カドックの部屋は仮にも幽閉室。鍵もないので開けようと思えば開けられる。その事実を知っている立香はゆっくりとドアノブに手を伸ばした。
ほんの少しだけ開けて中を覗いても、電気が消えていてよくわからない。
「カドックー、いないの……?」
もう少しドアを開けて、おずおずと一歩だけ中に足を入れる。しかしキョロっと見渡しても誰もいない。
「……約束したのに」
思わず零れる愚痴。
しかし主のいない部屋に長居するつもりもなかった。
帰るかと思い一歩下がったところで、立香の背後から手が伸びる。
「悪かったって」
その声と共に掴まれるドア。部屋の主のご帰還だった。
その姿に驚くと同時に、頭の上から聞こえる声の大きさが、距離近さを突きつけてくる。
(ち、近いっ!! )
振り返らずともわかるほどの距離。逃げようにも、閉じようとしたドアの隙間は狭く逃げられない。
跳ね上がる心臓。打開策はないかと考えを巡らせても、正面突破の他には道はない。
立香は無理やりドアを開け、暗い部屋へと身を捩じ込んだ。
やっと離れる距離に、心臓を押さえる。
(び、びっくりした……)
ドッドッドと鳴る心臓は、離れた今もまだ鳴っている。
「電気着けろよ」
なんとも思ってないようにカドックはパチっと電気をつける。
すると立香の真っ赤な顔が電気に照らされた。
それに気づいたカドックも、困ったように目を逸らす。
「……まぁ、座ったら」
その言葉に立香がゆっくり頷いた。
しかし部屋を見渡して、どこに座ろうか迷う。いつもなら迷わず床に座るが、肩が当たるあの距離は少し心臓に悪い。
デスクの椅子が一番よかったが、不自然にも椅子の上に本が置かれている。
「あっ、あれ、どけてもいい? 」
スッと指でデスクの椅子をさす。その姿に予想したかのように、カドックは話している途中から首を振った。
「あれは明日返す本だから、そのままにしてくれ」
「……机に置かないのは」
カドックの机の上はいつだって整頓されている。今だって椅子の本を置くくらいのスペースは確保されていた。
明らかに怪しいと思い、立香がカドックの口元をじっと睨む。それは目を見れない立香のできる唯一抵抗だった。
「並んで座りたいから」
立香の頬はまた熱くなる。直球ストレートの言葉に体は石のように固まった。
そんな立香の横をカドックは平気で通り過ぎ、いつものようにローテーブルを出す。そして小さな冷蔵庫を漁った。
「水でいいか?時間なかったから、用意できなかった」
「あ、うん……」
ようやく立香の体は動き出す。
(びっくりした……)
深く考えればまた恥ずかしくなりそうで、考えるのをやめることにした。
ゆっくりと歩いて立香はローテーブルの間へと腰を下ろす。しかしいつもよりも端っこ。机の脚よりも外側に腰を下ろす。
カドックは水の入ったコップ二つを持って机に置いた。そして腰を下ろすのは立香の真横。以前はテーブルを半分にして座っていたのが、今はカドックがど真ん中。その隣で立香が身を縮めて座っている。
(肩、当たってるんだけど……)
身じろぎして少し立香が動けば、その分カドックが距離を詰める。
互いに無言で、不毛な行動。硬い床に座るのはおしりが痛かった。
「……近い」
文句を先に言ったのは立香だった。
「前と変わらないだろ」
その文句にカドックも文句で返す。
(やっぱり、デスクの椅子に座ろうかな)
堂々巡りになりそうな会話など望んでいない。
立香はパっと立ち上がる。しかしデスクの椅子に手をかけようとしたところで、カドックが手首を掴んだ。
「こっち」
「……ならもっと離れて」
譲らない文句に、渋々カドックも妥協する。その姿に警戒しつつ、立香は机の端に座った。肩は当たらない。それでも手を横に置けば小指が当たりそうだった。
(どうせ、カドックは意識してない。私だけこんなにドキドキしてるんだ)
未だ鳴り続ける自分の胸の音。それを聞かれたくなくて、膝を抱えた。
以前までは心地よかった無言の空気が、心地悪い。眉に皺が寄って、何をいうか考える。
「そういえば、会うタイミング聞いてなかった」
ポツリと愚痴っぽくいう言葉。
一日ソワソワし続けたのは、それを決めなかった自分たちのせい。そうは分かっていても、カドックが悪いと言わんばかりに呟いた。
「悪い、今日作ったデータをダヴィンチに渡してたら、思ったより時間がかかったんだ」
「データ?何か作ってるの」
「まぁ色々。いつか藤丸も知るかもしれないし、見てみる方が早いか」
そういってカドックは自分の端末を取り出した。写し出される映像はトラオムの記録。懐かしい記録だと思いながら、眺めていたらカドックがシークバーを動かした。
「この辺、覚えがあるだろ」
そこはホームズとモリアーティの会話。それが聞き覚えのないものとなっている。
「何これ」
「これはまだ断定的なところがないからぼかしてる。こんな風に今までの記録の改竄を頼まれてるんだ」
カドックがいう通り、そこに写し出される映像は何も知らない人間からすれば、普通の会話にしかみえない。
しかし立香の知っている記憶とは明らかに違うその内容。違和感しかない。脳が混乱しそうだった。
「なんでそんなこと……」
そういいかけて思い出す。時計塔の監査の準備に勤しんだ日々。そして、その後の襲撃を。
触れてはいけない物に触れたように、立香の顔が曇った。
「……罪滅ぼしでやってるの」
ぼそっと小さく立香は聞いた。しかしカドックの声色は変わらず答える。
「傍から見ると、そうなるのかもな。でもそんな気持ちより、先のことを考えるならやった方がいいと僕が思ったんだ。話を振ってきたのはダヴィンチだったが……。全部が終わった時、ここにはサーヴァントがいなくなるだろ。その時に出せる手札は多いに越したことはない」
カドックのいうのは、いずれくる皆との別れ。
頼りっきりの天才ダヴィンチちゃんもその別れの例外ではない。
そう考えると、今カドックがデータを作っているのは頷けた。
(信頼されてるんだな……)
後に残る者は人間しかいない。その人間に未来を託さなければいけないのだ。そのうちの一人にカドックが該当するというのであれば、それは信頼といえるだろう。
捕虜という名目は付きまとうにしても、彼の功績が評価されているのは変わりない。
「よかったね」
思わず零れる笑みに、カドックは察して面映ゆそうに頬を掻いた。
「まぁ」
立香はまた端末に目を落とした。話も落ち着いた所で気になってしまう。
「すごい技術」
「そう思う」
そんな会話をしつつ、端末の画面をじっとみた。それは技術に関心してという視線ではない。
その気持ちを誤魔化すようにぎゅっと唇を噛んだ。
(これ、欲しい)
映像として残ることは知っていたが、立香にとっては盲点だった。これがあれば、あの無意味な図書室通いをしなくて済む。しかし立香が扱える記録は映像媒体ではなく、紙媒体。
カドックが持つような映像はどこで入手できるのかはわからなかった。
「この映像記録、どこで見れるの」
「ん?いや見れない。僕が管理してるから」
「そっか……」
となると立香の望みは潰えてしまう。口には出さなかったが残念だった。そんな様子を見て、カドックが口を開く。
「見たいのか」
小さく立香は頷いた。その姿にカドックは考えるように手を顎に当てる。
「なら立香の端末のIDを教えてくれ。この記録媒体にアクセスできるようにする」
「え、いいの」
「いいだろ、別に部外者じゃない。むしろ知っておくべきだ」
はいと渡された端末に立香はおずおずと入力した。
(これで、見れる)
思ったよりも簡単にもらえてしまった映像媒体。
本来の意図とは違う使い方をするのは気が引けたが、それでも少し興奮した。そんなキラキラとした立香の表情をカドックは見下ろす。
「……随分嬉しそうだな」
ドキっと立香の胸が鳴る。それはときめきというよりも、的を得られた焦り。
「そ、そうかな」
「あぁ。記録を見るにしては、怪しいくらいに嬉しそうだった」
床につけていた手がカドックの手と当たる。触れる小指に意識が向いた。
「何目的だ。まだ閲覧許可は下ろしてないから。教えないと下ろさない」
手を重ね、ぎゅっと握られ、肩が跳ねる。横からの視線が強い。顔に穴が開くのではないかと思うほどに送ってくる。
うまい言い訳を考えるにも、立香の体は緊張が張り付いてそれどころではない。
果たしてこの状況でカドックを騙せるような話を思いつけるのか。立香は少しでも集中するために、目をぎゅっと瞑って考えた。
「――誤魔化すなよ」
耳元で低い声が聞こえた。ハっと目を開け思わず横をみてしまう。するとそこには確信めいたカドックのにやけ顔。
一気に上がる体温。耳がさっきの声を覚えて落ち着かない。逃げたくなっても、なぜか重なった手を振りほどけなかった。
「あ、そのっ……」
ぎゅっと手の力が強くなる。
(わかってる、逃げないからっ……! )
それでも内からこみ上げる熱をどうにかしたい。1週間前は前まで逃げる選択で逃していたが、今は膝を抱えて身を縮ませる。抱える力を強くして、顔を膝に埋もれさせれば多少なりともマシにはなった。
(いわなきゃ……)
ドキンドキンと胸が脈打つのが、身を縮めたことでよくわかった。小さく息を吐き、覚悟を決めるしかないと口を開く。
「カドックの……写真とか、映像が、見たいな、って」
ポツン、ポツンと歯切れ悪く呟いた。その声に重なった手の力が緩まった。今彼がどんな顔をしているのか、立香が知る由もなかった。
それよりも羞恥心に悶えて辛い。膝に埋もれた顔は耳まで真っ赤だ。
「そんなことだろうと思った」
「えっ」
引いていないその声に立香は驚く。顔を上げても、膝に強く目を当てたせいで、視界がぼやけて見えた。
しかし、そのおかげでカドックの顔を直視できる。歪んだ視界で見えた顔は、確かに笑っていた。
「ひ、引かないの」
カドックの顔色を伺うように立香は聞くが、カドックは首を振った。
「引きはしないな。逆なら引くか」
そう聞かれて立香が想像する。
(カドックが私の写真とか、動画を見てる……)
膝を抱える必要がなくなった手で、頬をさすれば熱かった。
「ううん。でもちょっと、恥ずかしいかな」
「僕も一緒だ。わかったな」
ぼやけた視界が少しずつ戻っていく。立香の目に映ったカドックの顔は、笑ってはいるものの頬はいつもよりも赤かった。
さっきの面映ゆい顔とは似ていても違っていて、噛みしめるような顔をしている。
また、胸が鳴る。そんな顔をじっくり見たことがなかった。そわそわするような、嬉しいような、変な感覚が立香を襲う。
(もうちょっと見たいかも)
しかし、どうしたら照れるのか分からない。逆にいわれたら照れることを考えていってみる。
「カドックの顔、かっこいいからみたいなって」
そうつぶやくと、カドックの顔はぎょっとして驚くも、また頬を染めていった。
(どうしよ、癖になりそう)
ドキンドキンとまた胸が鳴る。今まで見れなかったカドックの顔が、照れた顔だと見れるようになった。
「もっと、見せて」
ゆっくりと立香はカドックの顔を覗き込むように近づいた。
カドックの顔がさっきよりも赤い。目を反らして、小さく抵抗する姿に背中がゾクリとした。
(なんか、いけないことしてる? )
そう思ったところで、ぐっと体をが揺れ、視界も揺れる。
「……そうくるとはな」
「えっ」
反撃のごとく、カドックの手が立香の肩に回る。横から抱きかかえるように掴まれ、立香の体が身構えるように固くなる。
「藤丸、やっぱりただで映像をあげたくない」
「え”っ」
さっきまでとは違う声が、近い距離が、攻防を逆転させた。
「お礼が欲しい」
立香の脳が混乱する。お礼とは何かと考えたところで浮かばない。
「りょ、良心的なQPだったら……」
「なわけないだろ」
食い気味にいわれれば、立香も困る。
じゃなんだと聞くように押し黙った。すると立香の髪を弄ぶようにカドックが指を絡めた。
「ずっと、いい匂いがするって思ってたんだ」
それは立香が整えた髪。触れられる機会もなく、立香もうっすら忘れていたこと。それを言葉にされてようやく気付く。
(ちゃんと、気づいてたんだ)
嬉しいという気持が沸いてきても、今は近い距離に恥ずかしいという気持ちの方が強かった。
じっとするには耐えれなくて、握った自分の手を胸に当てる。すると胸の悲鳴がよくわかった。それを強く押さえつけたところで、何も変わらない。
「ちょっとだけ」
その言葉に立香は縮こまって耐える。
相変わらず髪を指にからめる手。頭の上に柔らかい感触と重さが乗る。
「っ……」
カドックの頬が立香の頭の上に乗っている。スリッと頬ずりされれば心臓が爆発しそうだった。
(熱くて、ドキドキする……。もうこれ以上は耐えられないっ)
そう思っても、カドックは巧妙にギリギリセーフのラインを狙ってくる。
ここで頬でも触られたら爆発するが、決して手は髪から離れない。
ただ立香の頭の上に乗る頭。ただ髪を絡めるだけの指。それだけだ。
心臓が鳴る。落ち着かない。――しかし徐々にその行為をもっとと思う気持ちが芽生えてくる。
「ありがとう」
堪能したのか、その言葉ともに離れる頭の重みと、髪に絡んだ指。
(――どうして)
パサっと落ちる髪。立香の視線がカドックの指を追った。
(どうして――こんなにも名残惜しいって思うんだろう)
自分の気持ちも分からないまま、立香がみたのはカドックの目だった。
「藤丸」
呼ぶ声に応えられない。
しかしカドックは返事も待たずに、立香の髪を一束手にとる。
そのまま立香の顔をじっと見た。その目は熱にぐらつき、揺れている。その瞳に映る立香も同じような目をしていた。
「泣かないでくれよ」
ボソッと呟いた小さな言葉と共に、反応する間もなく、カドックは顔を近づけた。
それが、またスローモーションのようにゆっくり見える。
(あっ、私……キス、される)
直感でそう思った。
しかし顔が近づく直前で、カドックは顔を下げ、立香の髪にキスを落とす。
ちゅっと鳴るリップ音が、立香の耳に酷く残った。下を向くカドックのまつ毛が長くて、息ができなくなりそうだった。
立香の鼻の奥がツンとする。胸がソワソワして落ち着かない。ほんのり湧き出る涙は立香の瞳を揺らしていった。しかしカドックがさっき言った言葉を思い、顔を反らした。
(見せたくない、見ないで)
見られたら――終わってしまう。
「藤丸」
また、名前を呼ばれた。ふーっと落ち着かせるように息を吐く。目をパチパチとさせれば少しずつ涙も引いていく。
「なに」
まだ顔は見れないが、恥ずかしいということで見逃してほしかった。
「ごめん、やりすぎたな」
パサっと手から落ちる髪。
「あっ……」
思わず漏れた声は、何を思って出たのか。
考える前に頭上に手が乗った。そのままぽんぽんとあやすように撫でられる。
(――なんでだろう)
胸がチクリと痛んだ。
「水飲むか」
「うん」
はいっと渡されたコップに口をつければ、冷たい水が火照った体を落ち着かせた。あれほど辛かった熱が、心地いい温もりとなって胸の底に広がっていく。
おかげでさっき感じた痛みもわからなくなった。
「落ち着いたか」
聞こえる声に顔を向ければ、心配そうなカドックの顔が見えた。
「うん」
「よかった」
さっとコップを取られて机に置かれる。
コップの中に残った水がゆらゆらと揺れていた。それをぼーっと見てしまう。
何かが掴めそうで、掴めない。その感情に心当たりがなかった。
「仕切り直そう。藤丸、好きなものと、嫌いなものについてちゃんと考えてきたか」
「あっ」
口を開ける立香にカドックは零れるように笑った。
「なら今考えたらいい」
気持ちの整理が未だつかないまま、その言葉に自分の好きなものを考える。
(私が今好きなのは君なんだけどな……。聞きたい事は違うんだろうけど)
ぎゅっと膝を抱えた。
「先に、カドックから教えてよ」
さっきの行為で会話くらいなら、顔を見ることができるようになった。
ちらっと立香が見るカドックの顔は少し不服そうだった。
「僕からか。まぁ、いいが……。本とかはよく読むな。神話とかそういう話。嫌いなものは……胃痛を呼びそうな事象だな」
じっと視線が送られ、立香は気まずそうに目を反らした。それは心当たりがあることだった。
「あと、藤丸が傷つくこと。わかってるとは思うが、無理はするな」
「それは……!」
それは、君もだよ。そういおうとしたところで、勢いで置いた手が重なった。
「わだっ、私だって、嫌だからっ……」
慌てて離そうとすればその上を押さえつけるようにカドックの手が重なる。
「そうか、ならお互い気を付けよう」
ドッドッドッドと音が鳴る。今日だけで心臓が過労死するんじゃないかと思うほどにドキドキする。
(手を、重ねただけなのに……)
これでは立香の考える『カドックが喜ぶこと』など、本当にできるのか心配になった。
「僕はいったぞ、藤丸は」
立香の気持ちも気づかぬまま、カドックは平然と聞いてくる。
「あ、えっとね……」
自分の好きなものは何なのか。考えたところで難しく思えた。
「当ててみてよ」
苦肉の策でそういってみた。
「なるほど」
文句をいわれるかと思えば、意外にもカドックは考えるように顎に手を当てた。
何を言われるか少し面白くなりつつ、期待の視線を送れば、しばらくしてカドックは口を開いた。
「漫画、とか。よく読んでるよな」
「あっ確かに」
そうだったという反応にカドックはジトっと見つめてくる。考えていなかったことがバレた瞬間だった。
「あはは、ごめんごめん。自分じゃわかんなくて」
「そんなことだろうと思った。どんなジャンル読んでるんだよ」
「……いわなきゃだめ?」
読んでいる漫画など、恋愛漫画しかない。それをカドックにいうのは憚られた。
「いうのが嫌なら、端末の閲覧共有の連携でもいいぞ」
カドックなりの優しさなんだろう。
立香は考える。端末の閲覧共有で、パッと見えるのは題名だけ。その題名だけなら全てが恋愛漫画には見えないだろう。
(口で嘘つくよりかはいっか)
そう思うと気持ちは少し楽になって、端末を取り出した。
「はい、共有するよ」
「あぁ」
互いの端末をかざしあう。カルデアの端末は優秀だ。閲覧情報くらいであればすぐに共有できた。
完了の音と共にカドックは端末をいじる。その姿を立香は少し恥ずかしそうに見守っていた。
「うすうす思ってはいたが、知った題名はないな。日本のものなのか」
「え?うん。データベース上にある日本のものだよ」
「そうか」
何かを考えるようにカドックはその端末をいじった。その様子に立香はそっと抑えられた手を抜こうとする。
(今なら……)
そう思ったのだ。
しかし、立香が手を抜こうとしたところで気づいたカドックがぐっと手を押し、簡単に外れないように上から指を絡めた。
焦って立香がカドックの顔を見ても、その顔は相変わらず端末に向いている。
(この……っ!本当っ、前もそうだったけど、なんで抜けないのっ!)
指が絡んでまずそこから外れない。往生際悪く動いていたらスリッと指をなぞってきて、動きが止まる。毎度毎度、こうも反撃されれば立香も大人しくするしかなかった。
「あの、そろそろいい時間だと思うんだけど」
耐えられなくて口から洩れる言葉。しかし確かに時間は遅かった。そもそもここにきたのが9時前だったというのが原因だ。
「そうだな、泊っていくか」
「行くわけないじゃんか、この変態!」
空いた手で立香の叩き攻撃がカドックに送られる。しかし相変わらずその攻撃に効き目などないのだ。
「何するともいってないのに、変態扱いってどうなんだ」
ふっと笑う顔が、立香の顔に熱を集めさせた。
「それに、前に泊ったこともあっただろ。レポート徹夜で手伝わされたあげく、藤丸はベッドで寝てたよな」
少し近づくカドックに、立香も少し身を反らす。
(それを今いうのは卑怯じゃないっ)
カドックのいう話には身に覚えがあるもの。あの日、確かに起きたらレポートは提出されていて、カドックに叱られ部屋に帰された。
その後ゴッフにも沢山叱られて、かなり大変だったのを覚えている。
「変な、こと……あの時してたの」
カドックの性格を知っているからこそ、立香はあえてそう聞いた。
「するわけないだろ」
「なら今日泊まったら? 」
挑発するような立香の視線にカドックは黙る。悩むように顔を歪ませ口を開く
「すると、思う」
「ほらやっぱり! やっぱり変態に変わりない! 」
ビシっと指をさして叫ぶ姿にカドックも言い逃れができない。できないなら、どうするか。
「恋人なんだから当たり前だろ! 」
吹っ切れるしかない。
立香はぎゅっと口をつぐんだ。
(当たり前なんだろうけどさっ。私にはまだできないんだってば)
ずっと考えていた『カドックの喜ぶこと』
それが頭の中でぐるぐると回る。
「私には……まだ早いの」
「わかってるさ、そんなこと」
互いに反らす視線。気まずい空気が少しだけ流れる。
カチカチと鳴る時計の音が、二人が黙るとやけに大きく聞こえた。
ちらっと時計を見ればもうすぐ10時。泊まらないのならそろそろ戻るべき時間だった。
「……帰ろうかな」
ポツンと呟く立香に、カドックの手が答えるように手離した。
それがまたスローモーションのように見えた。
「……っ」
その手を立香が掴む。
「えっ」
驚くカドックの声に、反応もしないまま、手だけを引っ張った。
立香の弱い力で引っ張れるのはカドックの手と腕だけ。体の距離はそのままで、カドックの手の甲を口元へ近づけた。
――ちゅぅっ
勢いそのままの状態で、キスというより唇を押し当て吸ったに近い。
立香が思っていた以上に、リップ音が鳴って一瞬で手を離す。
「お、お休みっ!」
バッと立ち上がって走り出す。
(前も、こんな感じだった)
デジャブを感じながらも、心の中は羞恥心でぐちゃぐちゃ。
走る足に力を籠める。このままの勢いで出ようと思った。しかしドアに手をかけようとしたところで、あの日と同じく手首を捕まれる。
そのまま終われば、あの日と全く同じだが、その手は強く立香の体を後ろに反らした。
「わっ……!」
ぐらっと揺れる視界。後ろに倒れると思って身構えたところで、背中にはカドックの体があった。
「……ごめんっ」
小さく聞こえる謝罪は辛そうな声で、わけもわからないまま身を預ける。体に伝わる熱を感じて、ようやく立香は自分が抱きしめられていることに気が付いた。
(やめて、離して、嫌だ)
胸が苦しいほどに鳴っている。じわりと溢れる涙はどうして出るのか分からない。
(嫌なはずなのにっ)
カドックの腕に躊躇い勝ちに立香の手が触れる。
(もっとって思うのはなんで……)
――立香の頭がカドックの首に少しだけすり寄った。
「っ……!」
「わっ!」
火傷でもしたかのようにカドックは腕を放して、立香の肩を持つ。そのまま後ろから押し出し、ドアを開けて背中を押す。
立香もされるがまま、おぼつかない足で部屋を出た。
「悪い、部屋には自分で戻れるな」
早口でいうカドックに、立香も状況についていけないまま頷いた。
「ごめん、ほんとごめんっ。今度何か償うから。……お休み、気を付けて戻れよ」
またカドックが立香の背中を押した。思わず一歩踏み出す足。
(どうしたの?)
その言葉を口にしても、きっとカドックは答えてくれないだろう。切羽詰まったような顔が、聞かずともそれを物語っていた。
「おやすみなさい……」
その言葉以外立香口にできなかった。