恋人宣言 立香視点カルデアでは月に1度、サーヴァントの霊基メンテナンスが行われる日がある。マシュもその日は定期メンテナンスが組まれており、マスターである立香には月に1度の平穏な休みが明け渡されていた。
ゆっくりと羽を伸ばすといい。そのお達しに立香はいつも困ってしまう。
誰も来ない静かな自室で、一人で過ごすのはあまりにも寂しいのだ。しかし厚意を無碍にもできず、困った末に同じく休みであるカドックを頼ることにした。
月に一度の貴重な休み。その休みの日に毎回訪れるのは気が引けたが、回数を重ねていけば当たり前になってしまった。カドックもそれに慣れたようで、立香の端末に連絡が入る。
『コーヒー豆がないから、もし食堂寄るならついでにもらってくれないか』
立香はタイミングよく食堂に来ていた。カドックの部屋へ手土産にお菓子でも持っていこうと思っていたところだ。
『いいよ』
片腕には果実水の瓶を抱え、もらったお菓子の袋を握る。その上で立香は器用に端末を置いて返事を返した。
今日はカドックの部屋で漫画を読むため、あえて大き目の端末(タブレット)を選んだのだ。しかし連絡するには不向き、大きすぎて扱い難い。端末を机に置けば全て解決するも、そうしないのは立香の横着だ。
落ちそうな瓶を抱え直し、脇に端末を挟み込む。言われたコーヒー豆を戸棚から取り出せば、もう両手はいっぱい。落ちそうになるのを慌てて抱え直した。
(これでよしっ!クッキー喜んでくれるといいな)
立香は用が済んだ食堂を出て、慣れた廊下を歩いていく。立香の部屋と比べれば、カドックの部屋は食堂から遠い。仕方ないと思いながら、両手いっぱいの荷物を落とさないように歩いて行った。
ようやく彼の部屋につく頃には、腕が疲れて少し痛い。
ノックをしようとしたところで立香は気が付いた。
(どうしよ)
ノックする手が荷物で塞がっている。床に置けば解決するが、立香は面倒臭がりの横着物だ。そんなことはせず、無理やり肘でドアを叩いた。
ーーコツン、コン……ドン!
最初に叩いた肘の音はあまりに小さく、二回目は強めに叩く。しかしそれでも小さくて、仕方なく頭でドアを叩けば思った以上に大きな音が出た。そんなノックとも言えない音に、カドックが気が付いたようで、ゆっくりと扉が開かれた。
「なんだ藤丸か」
警戒していた表情がふっと柔らかい表情へと変わる。それもそのはず、サーヴァントもいない静まり返った館内で、こんな変なノックをされれば怪奇現象に出会うようなものだろう。
「ごめん、両手塞がってたから」
誤魔化すように立香は笑う。
「それなら声をかけろよ」
至極当然なこといわれ、その手があったと口が開く。そんな様子にカドックは呆れながらも、両手いっぱいの荷物を見た。
「悪かったな、こんなに大荷物とは思わなかった」
ひょいっと取られる重たい果実水と頼まれていたコーヒー豆。立香は脇に抱えた端末を危うく落としそうになり、慌てて掴んだ。
「いいの、お邪魔するからこのくらいさせて」
カドックの部屋はシンプルだ。大物家具はベッドとデスクだけ。近くには食料を備蓄している棚があり、よくそこでコーヒーを淹れていた。ちょうど立香が来る前も淹れていたのだろう。まだ部屋にはコーヒーの香ばしい匂いが残っている。
部屋の真ん中には普段はない折り畳み式のローテーブルがあり、それを見ると立香の胸が少し温かくなった。
(用意してくれてたんだ)
嫌がらず、歓迎されているようでそれが嬉しかった。
ベッドを背にするように、ローテーブルの傍に腰を下ろ早す。早速もらったお菓子を机の上に広げれば、辺りには甘い匂いが漂った。
「今日はクッキーか」
そこにカドックが果実水とコーヒーを持ってやってくる。一見変わりなさそうに見える表情も、目元をよく見れば緩んでいて、これを選んでよかったと思った。
カドックは多分、何をもってきても同じことをいうだろう。美味しいと聞けば、美味しいといってくれる。それがカドックなのだ。それでも彼の好みを知りたくて、立香がカドックの表情をよく観察していた。おかげで今ではなんとなく彼の好みがわかる。
「そう、好きに食べてね」
立香はタブレットを取り出して、早速漫画を読み始めた。その隣で当たり前のようにカドックが腰を下ろす。クッキーを摘まみながら、片手間で端末をいじるも、そこに会話は生まれない。部屋に響くのはカドックがクッキーを食べる音と、立香が果実水を飲むだけの音。静かなものだった。しかしその静寂に緊張感はなく、立香が一番落ち着く時間だった。
「そういえば」
ふと思い出すように立香はつぶやいた。その声にカドックは耳だけ傾ける。
「告白する文化って、アジア圏だけって本当?」
突拍子もない発言にカドックは思わず立香を見つめた。しかし立香は相変わらずタブレットへ目を落としている。ちょうど今読んでいるページが告白シーンなのだ。主人公の女の子が顔を赤くして『好きです、付き合ってください』という、ありきたりなセリフが載っている。そこから連想するように、立香はふと思ったのだ。
「……少なくとも僕の周りじゃ聞かないな」
「へぇ」
それは少し興味深い。立香の目がタブレットから離れ、カドックを見た。少し赤い頬から、そういえば彼と色恋沙汰の話をするのは初めてだと気がついた。
「でもさ、告白しないならどうやって恋人になるの」
知らない文化、ましてや色恋に関するものなんて、年頃の立香からすれば好奇心が惹かれるのものだった。
ただカドックからすれば特段詳しいものでもなく、返答に困るものの、なんとなくの考えを述べていった。
「どうっていわれてもな……。一緒に過ごしてて、心地よければ、そのうちもっと一緒にいたいって思うだろ。好きな相手なら、相手のことをもっと知りたいって思うし……そうやって誘いあって二人の時間をかけるな。会う頻度が高くなっていけば、そのうちお互いの大切な相手だと思えてくるだろ。それが恋人ってもんじゃないのか」
「ふーん?」
宣言のないまま、曖昧な線引きで恋人になっていく。立香にはそれがどうも腑に落ちない。『一緒にいて心地いい、もっと一緒にいたい』その言葉をもう一度考えてみれば、不思議にも自分に当てはまることに気が付いた。
「私はカドックとこうやって過ごすのが好きだし、もっと一緒にいたいって思うけど……。これってカドックの文化圏からすると、恋人みたいな意識をしてるってこと?」
「う”っ……!ゲホッ、ゴホッ」
飲んだコーヒーが変なところに入ったのか、カドックは何度も咳き込む。胸を強く叩いて気管に入ったコーヒーを出そうと必死だった。思わず立香の手がカドックの背に伸びる。
「ちょっ、大丈夫?」
さすろうとする手を遮るように、カドックがゆるく手をかざした。何度目かの咳でようやく落ち着いてきたのか、カドックは目に浮かんだ涙を軽く手で擦する。急いでティッシュを手渡せば、まだ言葉が出ないのか軽く頭を下げられて、ティッシュを受け取った。
「はぁぁぁ」
ようやくカドックの口から出たものは長い溜息。その後しぶとく残るコーヒーに少し咳ごみつつ、落ち着かせるようにマグカップを手にとった。
(そんなにまずい発言しちゃったかな)
まさかそこまで動揺するとは思ってもみなくて、理由もわからないまま罪悪感がこみ上げてくる。
ごめんねという気持と、心配の気持ちでカドックの顔を覗き込めば、頬がさっきより赤いことに気が付いた。
「いいか、それを聞くってことは、それこそ日本人でいう告白みたいなもんじゃないのか。それとも僕はそう受け取っていいのか」
「えっ」
カドックのその発言に、移るように立香の頬も染まっていく。
そんなつもりはなかったのだ。そういうことを言いたかったわけではない。その誤解をどう解こうかと、慌てた口が歯切れ悪く動いた。
「だ、ってさ、だって、どうやって恋人になるんだろって思って……。カドックの文化圏なら私の行動は恋人っぽくなるのかなって思っただけで……」
うまく言葉を繋げられない。自分でも何を言っているのかよくわからない。ただカドックの表情がいつものお説教の時のように険しくなっていく。
「自覚したならよく考えろ。さんざん注意してきたよな?似たようなもんだが、その服だってそうだぞ!」
カドックの指が立香の礼装のスカートを指す。しかし立香にとって礼装が悪いという意見が納得できず、噛みつくように言い返した。
「これは礼装だもん!休みの日にも呼び出されるかもしれないから着てるんだよ!」
着たくて着ているわけじゃない。立香だって本当なら休みの日くらいゆるい服を着たいと思う気持ちがある。それでもマスターという立場から、癖のように常に礼装を着ているのだ。
「そんなことは分かってる。でもそれならズボンの礼装だってあるだろ。どうしてもその礼装がいいならズボンを履け!ましてやそんな恰好で毎回眠いっていってベッドに入るだろ、僕がなんで注意してるかわるか」
「わかんない!だって下履いてるもん」
ちらっとスカートを捲ろうとすれば、カドックが慌ててベッドから枕を押し付けた。
「この馬鹿!そういう軽率な行動をやめろ、勘違いされるぞ」
真っ赤に怒るカドックに立香もしぶしぶ反論の口を閉じる。
勘違いとは、どういうことなのか。さっきの話題もかねてもう少しだけ考えてみれば、納得のいかない答えが出てきて、本当にそうなのかと疑問に思いながら口にした。
「……つまりカドックの中で、私は勝手恋人に勘違いされるような行動をとってて迷惑だったってこと?一緒にいて居心地が悪い思いをさせたなら謝るけど」
カドックが立香を恋人と思っているかは別として、居心地が悪いようには見えなかった。なんだかんだ、カドックもこの休みの日は穏やかな顔をしていて、少なくとも悪く思っているようには思えない。
さてどう答えるんだろうと見つめ返せば、罰が悪そうに顔を反らされた。
「……話がずれたな。少なくとも異性として行動は改めて欲しいと思ってる」
「それは答えじゃなくない?今誤魔化したでしょ」
カドックがこの貴重な休みを邪魔されて、迷惑だと思っているなら改めなければいけない。はっきりとした答えが欲しかった。
「そ、れは……」
煮え切らない答えに立香は前のめりにカドックを追い詰める。思わず下がるカドックの背がコツンとベッドに当たった。
男女の距離としては近いだろうその距離に、カドックは思わず狼狽える。離れようにも離れられない、逃げるにも逃げられない。そんな状況に意を決するのは仕方ないことだった。
「なら聞くが、アンタは僕がここで居心地がよかったから恋人になれっていったらなるのか!?」
やけっぱちの目は鋭く、眉は深く皺を刻む。半ば怒りを混じった、告白とも言い難いその問いに今度は立香が狼狽えた。
「えぇっ」
なぜそんなことを聞くのか立香はわからない。話がかみ合ってないように感じて困惑する。
そんな返事のできない立香にカドックは厭味ったらしく笑ってみせた。
「好意を勘違いするような行動をしながら、一緒にいると居心地がいい、もっと一緒にいたいと思ってる。それでも恋人にはなりませんってか?とんだ男たらしだな!」
「なっ!ちがっ、そんなんじゃない!」
熱いものをでも触ったがごとく、立香はカドックから離れた。しかしようやく適切にとられた距離を、あえてカドックが詰め寄っていく。
「ふん。どうだかな」
まるで信用されていない目が立香を見下ろした。違うと叫んでも彼が信じてくれないだろう。そうなれば別の答えが出てくるもので、不服な思いに立香はカドックをキッと睨んだ。
それは窮地に追い詰められたねずみの一噛みと一緒。無駄なあがきだったと知っていても睨まずにはいられない。
「わかったよ!恋人になるよ、なればいいんでしょ。私の全ての勘違いの責任を取ります!」
売り言葉を買うように言い放つ。違うと言って信じてもらえないなら、責任を取ることが一番誠実だと思ったのだ。
これを告白というにはあまりに物騒なものだと思う。ロマンチックの欠片もない。
「なっ……。あぁ、そうかよ」
自ら吹っ掛けておいて、カドックは意外そうな顔をする。それが立香には許せない。
「なに、嫌なら断ったら」
「別に、嫌とは言ってないだろ。恋人でいい」
恋人でいいとはなんだ、いいとは。
納得がいかないままも、カドックの言葉から恋人になったのだと自覚する。不思議なものだった、もっと恋人とは甘いものだと思っていた。立香にとってカドックが初めての彼氏であり、それがまさかこんな形で成立するとは思ってもみなかった。
ふっと湧き出る気恥ずかしさを紛らわすように、立香はコップに手を伸ばす。甘い水分が口論で乾燥した喉を潤していった。
しかし飲みさしだったこともあって、コップの中身はすぐなくなる。普段ならお代わりを注いだだろうが、今はじっとしていたい。
立香は息を詰めてタブレットに目を落とした。漫画の続きでも読めば気持ちも落ちつくだろうと思ったからだ。
ついさっきまで見ていたその告白のシーン。その後どうなるんだろうと読み進めれば、無事に告白は成功し、漫画の男女は恋人になった。まるで今の自分のようだと思いながら次のページをめくる。すると二人が手を絡めて、『手が大きいね』なんていっていた。以前の立香なら、なんとも思わなかっただろうそのシーン。
それが酷く色っぽく見えた。せっかく引いた顔の熱さが戻ってくるように頬を染める。
ーーゴトッ
その音が聞こえてハッとするように顔をあげる。目の前の立香のコップには果実水が注がれており、カドックが注いでくれたことに気が付いた。
「どうしたんだよ」
普段ならお礼の一つでもいう立香が、何も言わずに顔を赤くしてる。その様子に不思議に思ったカドックが声をかけた。
しかし立香はその声に飛び上がるように驚き、思わず端末を手から落っことす。慌てて言葉も出ないまま拾おうにも、手に力がうまく入らず、また落としてしまって拾えない。
そんな状況にカドックが、親切心で端末を拾うも、それが立香にとって一番危惧したいことだった。
「わっ、わっ!ちょっと、やめてっ」
せっかく拾った端末を、立香は返してといわんばかりに手を伸ばす。その姿は怪しく、何か後ろめたいものでもあるかの態度だ。
カドックは好奇心で端末の画面をチラリと見た。そこには男女が手の大きさを確認するような描写が描かれており、指の絡みをアップにして色っぽく描かれている。
ふーんと小さく笑うカドック。その顔に立香は嫌な予感がした。早くその端末を返してもらいたい。その一心で伸ばした右腕をパシっと掴まれる。
「僕らも恋人ならこのくらいしてもいいよな」
カドックは片手の手袋を器用に口で外す。そのまま素肌の手で立香の手袋を抜き取れば、口と手に持った手袋を膝に置いた。そして漫画と同じくゆっくりと手這わせる。
まるでヘビのようだった。追い詰めるようにじわじわと指を絡め、指の間をぎゅっと握る。ゴツゴツとした手は立香よりも大きい。包み込まれるような感覚に、立香の心臓はゆっくり加速していった。
「は、放して」
空いた立香の手が反撃のようにカドックの腕を掴むも、その手も剥がされ同じように指を絡められた。両手はもう拘束されているようなものだ。どちらの手にも、カドックの指が力を入れて離してくれない。観念しろと言わんばかりの目が立香の目をとらえる。
「確かこうだよな」
カドックの人差し指と中指が立香の人差し指を挟むように動かした。もちろん逃げようにもそれ以外の指がぎゅっと握って離さない。
立香の背にぞくぞくとする不思議な感覚が走る。何かしてはいけないことをしているような、そんな気分。それなのに指から目が離せなくて、じっと見つめてしまう。
「どう?」
「どうっていわれてもっ……」
何をいえばいいのかわからない。困惑する立香にカドックは真面目に感想を述べた。
「柔らかいな」
愛おし気に見つめるその視線が、熱くてたまらない。それに加えて感触を確認するように握らてしまえば、立香の心臓が暴れるように脈を打つ。
「魔術師が、こんなことして、いいのっ」
震える声で絞り出す文句。それをカドックは機嫌よさげに鼻で笑う。
「僕は恋人に乱暴なことをする趣味はない」
令呪のある手に、一般的な魔術師がするようなことを、乱暴だといったのだろう。
しかし立香からすれば、今のカドックの行動も十分に乱暴なものだった。
もちろん世間一般的にも、今まで見てきたアニメや漫画などを参考にしても、恋人同士で手を握ることが特段変なことではない事くらいわかっている。むしろ初歩的な接触だ。ただそれがわかっていても、自分が耐えられないのだ。
(早く終わって)
そう願いようにぎゅっと目を瞑れば、カドックの小さなため息が聞こえた。
そのままスルりとカドックの手が離れ、両手が解放されていく。行き場のない右手に、手袋を押し付けるように握らされた。
(あぁ、やっと終わった)
そう思えば安心するように肩の力が抜けた。
「そんなあからさまにホッとするなよ」
珍しく拗ねるようなカドックの声。思わず違うと言いそうになるも、言い訳が思いつかない。実際安堵したのは事実。
ドキドキして、何か悪いことをしてるみたいで、それが耐えられなかったのだ。
「ごめん、なんかうまくいえないけど……なんか恥ずかしいっていうか」
「……藤丸もそんな顔するんだな」
「ん?」
今ものすごく失礼なこといわれた気がする。
「もしかして……意識してるのか」
ふっと撫でられる頬。カドックに触れられた皮膚が焼けるように熱くなる。思わず後ろに下がれば、あっさりとカドックの手が離れた。
「し、してないっ」
嘘だ、本当は意識してしまっている。おかげでカドックの顔をさっきから直視できない。
「その反応は無理があるだろ」
カドックの近づく気配に、立香はいよいよ立ち上がる。急いで端末を持てば、逃げるようにドアに走った。
「か、帰るっ!今日はお開きで!」
もはや目はぎゅっと瞑って、カドックが今どんな顔をしているかもわからない。
とにかくこの部屋を出たかった。ドアを開けようと手にかけたところで、後ろからの気配に気づく。またぎゅっと握られる腕に思わず手に持った端末を落としそうになった。
「ーー僕ら、本当に恋人になるでいいんだな?さっきの勢いで無理しなくてもいい。藤丸が嫌なら……」
なぜかわからない。カドックの優しい言い方に涙が出そうになった。鼻の奥がツンっとしてじわりと視界が揺れれば、これ以上は押さえたくて、歯を食いしばる。
「カドックが嫌じゃないならこのままがいいっ!」
勢いで言った。その勢いがなければきっと涙をこらえているのがバレてしまいそうで、1秒でも早く彼から離れたかった。
ガチャっと開けるドア。走れば、腕を掴む手など簡単に離れた。
(なんでっ……)
なんでそれが残念なのかわからない。とにかく今は自室に早く戻りたかった。
***
ーーピピッ
パスコードを素早く打ち込み、ベッドに端末を投げた。近くにあったクッションを抱え、八つ当たりのようにベッドに身を投げる。じんわりと胸の底が熱い。
「っ……」
悲しいのか、嬉しいのかわからない。カドックに手を握られたことを思い出すと恥ずかしくて、耐えられない。それなのに別れ際の言葉に、酷く悲しんだ自分もいる。それこそなかなかでない涙が出るほどだ。
「カドック……」
呟いた言葉に胸がぎゅっとなる。
(これが恋というにはあまりにも乱暴じゃない……?)
立香にとってカドックのはしっかりもので、頼りやすく話しやすい。何かあればツッコミを入れてくれるのが面白くて、一緒にいるのが楽しかった。
彼と過ごした日々を例えるなら、種火を宿す焦げたおがくずのようなもの。一つ一つが大切な思い出で、小さな熱を帯びている。それは恋の炎というには、あまりにも未熟なものだろう。
しかしそれを今日、無理やり火口(ほくち)に入れられたのだ。小さな火種でも燃えやすい環境に入れられれば、それはたちまち大きな炎となる。
「……」
さっき自ら別れたばかりなのに、会いたいと思った。自ら逃げ出したのに、声を聞きたいと思った。久しぶりの恋はなかなかに厄介なものだった。
遠の昔に済ませた初恋の相手は、顔も思い出せない幼稚園の頃。
小学校では時々告白されることはあっても、結局好きになった男の子が振り向いてくれる事はなかった。
中学に上がってから、年上の先輩に憧れて、好きになったこともあった。それでも告白する勇気はなくて、花の女子高校生時代はあっという間にカルデアによって塗りつぶされた。
思えばここに来て、恋をする余裕などなかったのだ。ーーでも、もし思い返してみれば、ドクターには少なからずカドックに向けたような、小さな種火はあったと思う。それこそ火口に入る前に消えてしまった、焦げたおがくずのような思い出だ。悲しむことがあっても、未だに燃えているというわけではない。
「……寝よ」
目を瞑れば勝手に出てくるカドックの顔。妄想のように彼との会話を思い返し、好きなように考える。我ながら気持ち悪いなと思いつつ、今までの恋愛経験から通過点だと言い聞かせた。火というのは燃料がないと燃え続けない。もしかたらそのうち……。その思いに反対か賛成か考えたところで、立香は眠ってしまった。
===
翌朝、立香の目覚めはよかった。体の疲れというのは自分では気づかないうちに溜まっていたようで、時計を見れば思わず声を漏らす。
「うわ、6時っ!?」
驚異の14時間睡眠。よほど疲れていたんだと反省する。カラカラになった喉に、水を流し込めば寝起きの頭がどんどん冴えていった。
昨日は礼装のまま眠ってしまったため、変な皺がところどころに入っている。流石にこれを今日着ることはできない。ごめんねと礼装を丁寧にハンガーにかけ、他の服を探すべく、クローゼットを開けた。
最近はもっぱら決戦礼装ばかり着ていて、他の礼装はあまり着ていないため何を着ようか迷う。
(もしかしたら今日会うかもしれない)
悩む姿はすっかり恋する乙女。機能性よりも、可愛さで礼装を選ぶ日がくるとは思ってもみなかった。
「よし、これにしよ」
選んだ服はアニバーサリー・ブロンド。制服も可愛いが、カルデアでは浮いてる気がしてなかなか着づらかった。
選んだ礼装に張り切って袖を通してみれば、いつもの礼装と違って袖口が絞られている感覚に落ち着かない。思い切ってボタンをはずし、腕を捲ればやっとしっくりきた。
「うん、いいかも」
ひらっと鏡の前で回れば、青いスカートがふわりと揺れる。しかし一緒に着なければならないタイツと網ブーツが至極面倒だ。そういえばこの礼装、それが面倒で奥に置いていたと今思い出す。
(まぁでもいっか。今日だけだし)
礼装は高機能だ。皺になっても今日の昼には元に戻ってるだろう。
「シュシュは……いいや」
今日は寝ぐせもそこまで酷くない。もう身支度はこれで十分だ。後は顔を洗って、歯を磨けば準備は万端。立香は駆け出すように部屋を出た。
実は昨日、夕食を食べ損ねてお腹がペコペコなのだ。起きた時は何も感じなくとも、身支度に時間をかけるうちに、胃が思い出したかのように鳴きだして止まらない。
(今日はなんだろなー)
洋食でも和食でも、どちらでも心惹かれる。食堂の近くまでくれば、廊下まで食べ物の匂いがして催促するようにお腹が鳴った。
「はいはい、わかりましたって」
自分の胃に返事をしながら立香は駆け足で食堂に入る。美味しいバターの匂いが鼻をくすぐり、今日は洋食だと心躍った。
「皆おはよー!」
立香の言葉に厨房のサーヴァントは顔をひょっこりとのぞかせる。思い思いに挨拶されるのは慣れたもので、それぞれに立香は返した。
「お腹すいちゃった。今日の朝ご飯大盛がいいな」
「はいはい、じゃ好きなだけパンを持っていきな」
そういってブーティカがバスケットいっぱいの焼きたてパンを出す。ふんわりと香る小麦の匂いに、何個でも食べれそうだった。しかし欲求の赴くまま食べれば、太るに決まってる。
(2つ……いや、3つ……。うん、3つにしとこう)
迷いながらパンとを皿にのせ、ブーティカに返す。昨日食べれなかったのだから、3つくらいは食べてもいいと思った。その代わり隣にあるバターを1つだけ手に取る。本音をいうならもう1つ取りたいが、バターなんてカロリーの塊。伸ばした手を我慢するように戻した。
「プレートできました。マスター、今日のスープは自信作ですよ!」
ひょいっとマルタが皿を持って顔をのぞかせる。そのままトレーに置かれれば目の前の食事にお腹が鳴りそうになった。
「わっ、やったー!ありがとう、二人とも」
2人に手を振ってルンルンで食堂の席を探す。幸い早い時間で食堂はまだ混みあっていない。適当に空いた席に腰を下ろし、ようやく朝ごはんだ。
ふかふかのパンはもちろん美味しい。カリカリに焼かれたベーコンに、しっとりとした黄身の目玉焼き。マルタが腕を振るってくれたスープはマハシーと呼ばれる料理で、トマトベースのスープが洋食のプレートによく合ってる。野菜の中には肉が詰められていて、頬張れば肉汁とスープのうまみが溶け出した。
マルタが自信作というだけあって、唸るような声を漏らしながら立香は頬を押さえた。
「んんー美味しい」
美味しいご飯が一番幸せ。あっという間に食べ終わり、お礼も含めて厨房サーヴァントと軽く談笑する。それが立香のモーニングルーティンだった。
そろそろ行こうかなと思い、皆に手を振ったところで見慣れた髪が目に入った。
「あ……」
カドックだ。それがわかった瞬間、近くの柱に身を隠した。
(なんで隠れたの!?)
思わず自分に問いかけた。しかし答えはでない。ちらっと柱から覗けば、遠くの方に座ってくれてホッする。
「……はぁ」
恋というものは困ったもので、立香の行動をどんどん変えていく。いつもなら声をかけて挨拶をするのに、今日は声をかけるなんて絶対に嫌だった。
柱の裏からちらっと彼を見れば、遠くに見える後ろ姿に胸が熱くなる。
(意識しちゃうな……)
不思議なのが、今の関係。恋人ではあるものの、立香の中では片思いをしているに近い感覚だった。あんな告白で、カドックが立香のことを好きかどうかなど判断できるわけがない。
「だめだめ、もう行かないと」
時計を見ればそろそろ朝の素材集めの時間。いつまでも柱に隠れるわけにはいかないのだ。不自然じゃないように歩き、ゆっくりとカドックの視界から消える。
(大丈夫、難しくない)
一歩踏み出せば膝が震えそうだった。それでも歩き進めてようやく食堂の出口へと出る。ここまでくればもう大丈夫だろう。振り返って、遠くにいる彼の顔を見たかった。
「まじか」
まだ食べてると思って振り返ってみれば、遠くで食器を返却している姿が見える。このまま立香が後ろを向いていれば目が合うのは必然。
(どうしよう)
また心の中で起きる葛藤。その決着がつかないまま、カドックがくるりと振り返って出口に歩いてくる。
「あっ……」
目が合った。合ってしまった。
カドックもハッとするように立香を見る。しかしは歩みは止めず、こちらに向かってきた。このままでは間違いなく会話が始まる。
(に、逃げよう)
熱くなる頬が、鳴る胸が、立香の足に力を流す。
カドックが何か口にしようとしたのが、前を向く直前で見えた気がした。それでも立香は見ないふりをして走り出す。
(髪、下ろしててよかった)
きっと今、自分の顔は耳まで赤い。悶々とした気持ちを抱えつつも、立香はマスターだ。カドックから見えなくなった所で、いつものようにと切り替える。
色々とあったが、今日の素材集めをしなければならない。
ーーパンパン
気合を入れるように強く頬を叩く。熱くなった頬がこれで誤魔化された気がした。
***
その日の夜、立香はパソコンに向かっていた。レポートの提出期限が近いのだ。それでも昔ほどさぼることはなく、順調に書き進めている。きっとこの調子でいけば期限内の提出は余裕だろう。
「成長したな……」
カラカラとマウスをいじり、自分の書いたレポートを振り返る。最初の頃なんて、パソコンを使いこなせず手書きで書いていたものだ。今じゃ信じられない。
「よし、保存っと」
一区切りがつき時計を見れば午後8時。束の間だが自由時間だ。
――コンコンコン
「はーい」
こんなタイミングよく誰だろう。そう思って返事をすれば、聞きなれた声が聞こえてきた。
「僕だ」
思わず立香は椅子を倒して立ち上がる。
(なんで?)
そんな疑問を思うも、返事をした以上居留守は使えない。倒れた椅子を直しながら、震える声に喝を入れた。
「どうしたの」
「いや……普通に来ただけだが」
立香は混乱した。疑問の声がさらに大きくなる。カドックが今まで立香の部屋に来るとしても、何か用があってくるものだった。それを来ただけとはどういう意味なのか。
「藤丸?」
中々返事をしない立香に、怪しむような、催促するような声が聞こえる。
立香はゆっくりドアを開けた。それこそ覗き見るように最低限だ。カドックの顔などとてもじゃないが、見れなかった。
「な、なに」
「あーいや、今後の方針を決めようと思って……」
怪しい。非常に怪しく見えた。きっと今考えたに違いない言動に、不信感をぬぐえない。しかし立香が黙っていればカドックも困惑する。
「なんか変じゃないか、朝も無視しただろ」
「してないよ、ちょっと目が合っただけじゃん」
「普通恋人と目があったら……いや、恋人じゃなくてもだ、挨拶くらいするだろ」
正論だ。そういわれたら何も言い返せない。困りながらも、立香が本心を口にできるわけがなかった。
柱の裏に隠れた時から、挨拶なんて選択肢から消えている。あの時、食堂から出て振り返った時。ただカドックの顔を見たかった。それだけだ。目が合った瞬間、自分のそんな気持ちを知られてしまいそうで逃げ出した。
――その逃げ出したつけが今きているなら、謝るしかない。そして早急に退場してもらわないと、心臓がもたない。
「それは、ごめんなさい。でも夜に女の子の部屋に来るのは、だめだと思うよ?」
いつもカドックがいうセリフを真似てみた。今までカドックの部屋に夜行けば、そう注意されたのだ。それなら逆だって同じだろう。
「はぁ?」
信じられないという声に驚いて、立香は思わずカドックの顔を見てしまう。そこには本当に信じられないという顔があった。
「おかしくないか」
「えっ」
おかしいも何も、今までいわれてきた言葉をそのまま返しただけだ。困って一歩下がる立香。それを見逃さず、カドックは閉まるドアに足を入れて閉じないようにしてきた。
「ちょっ、ちょっと!悪徳訪問営業マンみたいなことしないでよ!」
「なんだそれ、いいからここに入れろ!」
「やだ、来ないで!」
足をねじ込むカドック、その胴体を押すのに少しためらって立香は手を伸ばす。カドックの胸に手を当てると、自分とは違って心臓の音が伝わってこないことに悲しかった。
(やっぱり私だけ意識してる)
この押し合い、男女の力差もあれば、脚力と腕力の差だってある。当然不利なのは立香だった。
ぐっと押し込まれ、カドックの体が入ると同時に扉が閉る。立香の負けが確定した。
「よし」
「よしじゃない!」
立香の部屋は特別だ。有事の際に、管制室へ連絡が入るボタンが仕込まれている。
もちろん緊急用なので普段はめったに使わない。
そのボタンも主張が激しく、大きく『緊急』という文字と、真っ赤なボタンでできていた。誰か見たって非常時用だとわかるそれに、立香は躊躇いもなく手を伸ばそうとする。
それを見てカドックが慌てて立香を羽交い絞めにした。
「待て待て待て、僕が殺されるからそれは待ってくれ」
恋人に羽交い絞めにされる。そんな制御するだけの行為に果たしてときめきが生まれるのか。普通だったら生まれないだろう。
しかし彼氏がいた事もない立香は、好きな人の体温を0距離で感じたせいで、酷く混乱した。
「離してっ、死ぬっ、私が死んじゃう」
いやいやと首を振れば、カドックが困ったように声をかける。
「なんでだよ、誰も殺さないって」
「うるさい!なんでそんな平気なの!?私はこんなにもドキドキしてるのにっ!」
立香の首が揺れ、赤くなった耳が出てくる。その光景と今の発言で、カドックはようやく状況を理解した。
ぐっと立香への羽交い絞めを強くして、ひとまず緊急ボタンから立香を離れさせる。何をしようにも立香をボタンから離さないと、カドックの立場が危ういのだ。
「離してっ!」
「わかった、わかった」
部屋の奥に行ったところで、すっと羽交い絞めから解放される腕。
これで自由だと立香が一歩踏み出したところで、体が引き寄せられた。
カドックが立香の体を抱きしめたのだ。羽交い絞めとは違う、恋人にする行為はあまりにも立香にとって刺激が強い。強すぎて、抵抗することができない。
ふわっと香るカドックの匂い。お腹に巻かれる腕が太くて男らしい。立香の体をすっぽりと覆う胴体と肩幅は、包容力に満ちている。
これが男女の体格差、嫌でも思い知らされた。ぶわっと湧き出るように全身が熱くなる。耐えられない感覚にじわりじわりと涙がこみ上げた。
「落ち着け、藤丸。できるな」
いい子だからと頭を撫でられ、立香の脳はパニック状態。落ち着くどころか、ショート寸前で硬直しているだけだ。そんな身動き1つしない立香にカドックも不思議に思ったのか、顔を覗き込む。
「えっ……」
涙に揺れる瞳。それを見てカドックは青ざめる。
「わ、悪い!そこまで嫌がるとは思ってなかった」
目の前の立香は真っ赤な顔で、放心状態。そんな姿にカドックは酷く焦りながら、落ち着かせるために策を練る。その姿はいつもの冷静さが全くなく、行き場のない手が無様に泳いだ。
「み、水飲むか」
立香はコクリと頷いた。カドックは急いでコップに水を注ぐ。差し出せば立香はゴクリと水を飲んで、コップはあっという間にに空っぽだ。
「おかわりいるか」
次に立香は首を振る。その言葉にコップを受け取り、流し台に置いたところで、カドックはすぐに戻ってきた。まだ何も反応のない立香に、困り果てるように声を出す。
「ど、どうしたらいいっ?」
その言葉に立香がゆっくりとカドックを見る。立香から見るカドックは、ものすごく不安そうな顔をしていた。例えるなら親に叱られた子供のような顔だ。
どうしたら許してもらえるのか、顔色を伺っている。縋り付くような声に、触れてはいけないと手を泳がせているのがわかった。
そんな思ってもみなかった表情に、立香は唖然とした。
泣いてしまったのは、密着に耐えられなかったから。確かにカドックが悪いが、許しを請うほどのことではない。単純に自分が恥ずかしかっただけ、それだけだ。
そう思うとあまりにも必死なカドックの顔がだんだんと面白くなってくる。
「ふっ……ふふっ。もう、そんなっ、顔、しなくても……ふふっ」
突然笑い出す立香にカドックは唖然とした。さっきまで泣いていた女の子が笑い出したのだ、心配にもなる。
「大丈夫なのか」
「うん、大丈夫」
すっかり涙が引っ込んだ立香。カドックは心底安心し、その安堵を噛みしめるようにため息をついた。そんな様子を横目で見ながら、立香はベッドに腰を下ろす。
「ため息つきたいのはこっちなんだから」
「なんでだよ」
カドックも後を追うように、立香の隣へ腰を下ろそうとする。しかし立香がそれをよしとしなかった。
「カドックはあっち」
指さす方向はデスクの椅子。それを見てカドックは怪訝そうに眉を顰めるも、文句言わずに従った。それは泣かせてしまった罪悪感がまだカドックにこびりついているからだ。
カドックはデスクの椅子に逆から座る。背もたれに顎をおいて、立香を見下ろした。
「気になることがあるんだが」
ようやく適正な距離に立香は安堵する。先ほど経験したショート寸前の密着のおかげで、カドックの顔を見ることくらいはできるようになった。
「ん?」
「付き合ってからの方が距離感、遠くないか」
不服そうに口を尖らせるカドック。しかしさっきのことを意識して、近づくようなことはしなかった。
「まぁ、うん。そうだね」
「いや、なんでだよ」
なんでと聞かれても立香はフイと顔を反らす。恥ずかしいのだ。カドックの顔を見ると胸が締め付けられるし、距離が近いと心臓が痛いくらいに早くなる。あれだけ一緒にいて心地よかったのに、今は近いと居心地が悪くなって困るのだ。
「男女だし?」
「むしろ逆だろ、付き合ってからなんで距離取るんだよ」
カドックの言い分もわからなくはない。立香の知る恋人の情報では、確かに距離は近くなる。それこそキスやさっきのハグなどもそうだ。しかしそれを想像したり、思い返すと胸の中が燃えるように熱くなる。思わずきゅっとスカートを握った。
「まだ、私には刺激が強いっていうか……」
「ならどのくらいならいいんだ」
どのくらい。その問いが立香の頭の中でぐるぐる回る。
(まず最初にした手繋ぎはなし、あれは悪いことしてるみたいでダメ。でも、キスやハグなんてもっとダメ、さっきのハグでも死んでしまいそうなくらいドキドキした)
考えた末、今できることは1つだった。
「うーん……。このくらいの距離で見つめるとかなら……?」
カドックの顔が思いっきり歪む。苦虫でも噛むようなその顔に立香は少し狼狽えた。
「だ、ダメ……?」
「……。日本人ってこんなに奥手なのか」
ぐしゃりと髪を握り、顔を背もたれにうずめてる。うっすら聞こえる長めのため息に、立香の胸は万力で挟まれたように胸が苦しくなった。
確かに海外の人と、日本人を比べれば恋愛なんて積極性に欠けるだろう。恋人と密に触れ合うのが当たり前な人に、触れないで欲しいというのは、自分が思っているよりも酷なことなのかもしれない。ましてやそれを強要するのは独りよがりな発言だ。そう気づいた時には遅かった。
「ごめん……」
嫌われてしまったかもしれない。そう思うとじわっと涙が染み出てくる。
普段の立香なら、こんなにも簡単に泣くことはないだろう。
しかしさっき泣いたせいで抵抗できない。一度でた涙は、癖づくように涙腺が溢れやすくなっている。
震えるように吐く息。これ以上は泣きたくないと、歯を食いしばる。そして努めていつもの声を出した。
「カドックが嫌ならいいんだよ。こんな関係」
怖くて立香はカドックの顔を見れなかった。うつむくと、膝の上に乗せた手が耐えるように震えてる。
(私は遠くから見てるだけで十分。恋人なんてならなければよかった。むしろ今までの方がずっと心地よかったのに……)
その気持ちにウソはない。それなのに名残惜しいと思ってしまう自分に反吐が出る。女々しくて、どっちつかずで、独りよがり。恋なんて自覚しなければよかった。
じわりとまた涙が出て、水中にいるように立香の視界が揺れる。さっきまで見えていた自分の手が、ぼやけて見えた。それでもせめて、カドックが答えるまでは泣いているのを知られたくない。立香は漏れだす吐息を飲み込んだ。
その時、ギィと椅子から立ち上がる音が聞こえる。
「……あのな、勘違いしてないか。こういう風にお互いのことを知っていって、折り合いつけてくのが恋人ってもんだろ。1つ合わなかっただけで、別れましょっていうのはあまりにも薄情じゃないか」
予想外の言葉にハっとする。勢いよく顔を上げれば、その反動で頬に涙がポロっと落ちていく。
一歩近づいて、カドックの手がゆっくり立香の顔へと伸びる。その手に不思議と拒否反応が出ない。
指で涙が拾われると、胸の中が心地よく、温かくなって、ホッとする。
(もっと、触れて欲しい)
そう思ったのは初めてだ。今までのような火傷しそうな熱じゃない。ぬるく、心地いい温もりとなって、全身に沁み込んでいく。
「意外と泣き虫なんだな」
からかうような言葉に見合わない、優しい目が立香を見つめる。カドックが落ちた涙をぬぐえば、その手は頭を撫でる手へと変わり、あやすように笑った。
「いくらでも拭いてやるから、僕の前で我慢なんかしないでくれ」
その言葉を皮切りに、立香の目からは堰を切ったように涙がこぼれる。
(熱い。熱いのに、温かい。カドックが好き、もっと欲しい、やっぱり離れたくない)
ボロボロと零れる涙にカドックはハンカチを取り出した。もう指ですくうには多すぎるのだ。
「ごめん、なさいっ。我慢させちゃうけど、やっぱり一緒に、いたいっ」
カドックはすすり泣く立香の隣に、腰を下ろした。さっきは嫌がったその距離を、立香はもう嫌とはいえなかった。むしろカドックに身を傾けた。それを了承のようにカドックはとらえ、背中に手を回して、落ち着かせるように頭を撫でる。
お互いの肩が当たって、温かい。その温もりを心地いいと思う頃には涙が引いていた。それでもカドックが撫でてくれる手を止めて欲しくなくて、もっとこのままで、と立香は離れなかった。
――そんな時間がどれくらい続いたのか、しばらくしてカドックが口をあける。
「……聞いていいか」
「な、に」
立香の声色は落ち着いているが、あれだけ泣いたせいでうまく声が出せない。そんな様子を気にすることなく、カドックは続けた。
「そんなに泣くのは……僕と別れるのが泣くほど嫌ってことで、自惚れていいんだよな」
顔を覗きこむようにカドックが聞く。髪を下ろしていてよかったと思った。的を得た言葉に立香は反論の余地もなく、顔に熱が上がってくる。カドック言葉があまりにもストレートすぎるのだ。立香の口はパクパクと動かすも、音がでない。
「っ……っ」
代わりに出たのはしゃくり泣いた名残り。
(熱いかもしれない……)
さっきまで心地よかった温もりが、また火傷しそうなくらいに熱くなっていく。カドックと距離を取りたくて動くも、それを察して撫でていた手が肩を抱えてきて動けない。
「……行動って、言葉より伝わると思うんだ。今それを実感してる」
下を向く立香の髪をカドックは耳にかけた。すると覗くのは真っ赤な立香の顔。恐る恐る立香がカドックを見れば、ふっと笑いかけてきて、心臓が跳ねる。嬉しそうな、安心するようなそんな顔。
(もしかして……私のことが好き?)
その疑問が払拭されそうな、答えの顔。それでも立香は言葉が欲しくて、カドックの言葉を否定するように首を振った。
「私は、言葉が、ほしいっ」
「……日本人の告白の文化ならそうなるな」
じっと立香はカドックを見る。それは期待するような眼差しだ。その眼差しにあえてカドックは意地悪するように笑った。
「悪いが僕らの文化じゃ、告白なんてまだしないんだ」
「なんでっっ!?」
しゃくり泣いた名残を引っ張りながら、立香は叫んだ。あんなに泣くんじゃなかったと思うも、言いたいことが口をつく。
「そこはい、う流れじゃっ、ないの?」
不安気な立香の瞳が、また泣き出しそうに揺れる。
「そうだな。なら安心材料に聞いてくれ」
カドックが手を立香の肩から離した。それによってようやく離れられるはずが、立香はそのまま動かなかった。そのままじっとカドックを見つめ、続きの言葉を全身で待った。
「――僕は、立香を好ましく思ってる。見たことない顔をこう何度もされれば、己惚れるし期待してる」
それは好きと違うのか。混乱する立香にカドックはずっと目元が緩んでいる。愛おしい、それがぴったりの視線だ。
「もっと時間をかけよう。もっと藤丸を知りたい。こんな泣かせたいわけじゃないし、なるべくなら笑ってて欲しい」
涙の跡を拭うようにカドックは立香の頬を触れた。
「なに、それ。口説いてる?」
「そうかもな。別にいいだろ。藤丸も、逃げないでもっと僕のことを知って欲しい。月に1回じゃなくてもう少し一緒にいる時間をくれないか」
ぎゅっとカドックが立香の手を握る。それを拒否しようとは立香も思えなかった。受け入れるように立香はカドックの手を握り返す。
「……変なの、それって付き合う前にすることじゃない」
やっと落ち着いた声が立香の口から出た。
「恋人になるっていったのは藤丸だろ。なら、僕の気持ちに付き合ってくれ。ちゃんと僕の気持ちを伝えたいんだ」
立香は考える。確かに勘違いの責任で、恋人の宣言はした。でも今ではそういった責任感ではなく、心の底からカドックが好きになってしまった。
今の状況を日本文化的に説明するなら、告白して付き合っている。そういう状況だ。
しかしカドックの文化でみれば、一緒に過ごしていく時間が必要なのだ。昨日今日で恋人という枠組みをつけても、心の底から告白をすることができない。互いを知って、『心から好きと言えるなら好きという』
――その文化は『好きと思って、好きという』そんな日本風の告白より、遥かに誠実で重たい。
昨日は腑に落ちなかったカドックの言葉が、胸にストンと落ちていった。
「わかった」
ただ、立香にとって気になることがある。恋人という枠組みで一緒に時間を過ごすのだ。その時間に、火傷するほど熱いものを触りたいかと聞かれれば、答えはノー。
できれば耐えられる温度までで線引きしたい。
「あの、さ……ちなみに確認したいんだけど……。その一緒に過ごす時間に、変なことは……しないよね?」
立香は躊躇いがちにカドックの顔を覗き込む。するとカドックの顔は一瞬曇った。しかしすぐ口が動く。
「する」
「なっ……!」
ほぼ即答。悪びれもしない態度に恥ずかしいより、信じられないが勝った。
「そりゃまぁ、普通だろ」
「私の文化じゃ普通じゃない!告白もしない曖昧な関係で体を許すとか無理!」
距離を取るように、立香はカドックの肩をぐっと押す。しかしカドックはびくともしない。
「いや、大事なことだろ」
「体より心でしょ!」
「はあ?どっちも大事なコミュニケーションだろ」
またバシッと一発立香からの叩き攻撃がカドックを襲う。しかし無傷。むしろカドックは考え事をするように顎に手を当てている。隣にいる真っ赤な立香など気にしていなかった。
「内気な気質だとは知ってたが、まさかここまでとはな……。もう少し僕も日本の文化について調べないと」
カドックの目は本気だ。真面目な人間だからこそ、調べて分かることはとことん調べる。それで解決するなら調べない手はない。
「互いに折り合いつけてく、そういっただろ。二人で納得のいく答えを出そう」
ぎゅっと握られる手に立香は困る。真剣な目で提案されれば、2発目の手を下ろさざる得ない。
「……絶対しないんだから」
か細いその言葉にカドックは曖昧な笑みを浮かべた。