ロマンスVer.2.0「なあ。お前の名前、教えてくれへんか」
そう問うと、目の前の男は驚いたように眉を上げた。
それまで真一文字に結ばれていたくちびるが薄く開かれ、かすかにわななく。しかと自分を捉えていたその両目は困ったように左右に揺れ、それから下を向いてしまった。ロマンスグレーの短い前髪が、あたたかな風に吹かれて、ささやかに揺れた。
「初対面の男」に話しかけるにしては、真っ当な会話だと思う。少なくとも、今の自分にとっては初めて会う男だ。未だ目を伏せる男にどうしてか軽く詫びを入れたくなってしまってから、思いとどまった。ただ改まって名前を聞いただけだ。おかしなことなんて、何もしてない。自分にはこの男に関する記憶など、どこにも存在していないのだから。
記憶を失くした自分にとって、視界に入る大抵のものは新鮮で、目新しいもののように映った。おそらく、ここはあまり馴染みがない土地なのだろう。砂浜で目覚めてからこうしてこの場所に腰を落ち着けるまで、懐かしさを感じたり、既視感を覚えたものはなにひとつなかった。海賊とか、船長とかいう役割も、都合が良かったから今こうして納まっているだけだ。ただ、そうした振る舞い方は身に染み付いているようだから、記憶を失う以前も似たようなことをしていたのだろう。
そんな自分の前にふいに現れたこの男は、どうしてか己の目を引いた。行く手を遮るように湧いて出る悪党を、派手に倒していた最中だった。強さはそれほどでもないが、とにかく量が多い。キリがない戦闘に、船員たちにも疲れが見え始めていた、そんなとき。
大丈夫か、兄さん。
芯の通った声が、すっと耳に入ってきた。ろくな反応をする暇もなく、言葉と共に雑魚が殴り散らされる。塞がれていた道が、いとも簡単に開かれていく。圧倒的な強さをもって敵を一掃したその男は、しっかりこの隻眼を射抜いて「兄さん」と呼んだ。そう呼ばれた瞬間の感情は、うまく言い表すことができない。知らない声、知らない呼称のはずなのに、からだのどこかが喜色を滲ませた気がした。安堵とは少し違う、妙な心地。何かに無理やり例えるならば、ずっと探してきたものを見つけられたときの感情に近い、ような。
ただ、感情はおかしな反応を見せても、記憶を失った頭は男の素性を知るはずもなく。脳内には疑問符ばかりが浮かんでくる。真島の兄さん、と、また知らない呼ばれ方をされ、慌てて呆けた意識を目の前に戻した。
「っ……、何やねん、お前、急に」
「……? 真島の兄さん、だろ? 苦戦しているようだったから、手伝おうと思ったんだが。迷惑だったか」
当然のことをしたまでと言うように、堂々とした態度で首を傾げる男に戸惑う。誰かと間違えているのか、それとも、記憶を失う前の自分を知る相手なのだろうか。男の言葉から読み取れることは少ない。ただ、すぐに始末しなければならない相手、というわけではなさそうだ。
「あ……ああ、まあ、とにかく助かったわ」
「ふ、ならよかった」
そう言って男は隙のない、しかし柔らかな笑みを浮かべた。さっき見せた荒々しさとはまるで真逆の、繊細な表情だった。まっすぐに自分へと向けられるそれを受け止めきれなくなって、視線を逸らす。なぜか、この男に見つめられると、胸騒ぎが止まらない。
「……どうしたんだ? さっきから様子がおかしい。それに、その格好は……」
「あー、色々事情があるんや、俺にも」
話すと長くなりそうで、男の言葉を無理やり遮る。それより、この男のことを知りたかった。今の自分にとっては、初対面の相手だ。知っていることは何一つない。名前を聞けばなにか、欠片だけでも思い出せるかもしれない。そんな期待を無理やり抑えて、静かに問いかける。
「なあ。お前の名前、教えてくれへんか」
────
揃ったまつ毛が、ゆるりと持ち上がる。視線がかち合って初めて、自分がこの男の一挙一動を細かく観察していたことに気がついた。どことなく気まずくて、目を逸らす。それを見た男が、にいさん、とか細い声で独り言のようにささやいた。
「……その、兄さん、てのやめぇや。あのな、お前は俺のこと知っとるのかもしれへんけど、俺はわかれへんねん」
「……あ、ああ、悪い」
「謝らんでええ。で、なんて呼べばええねん。こっちはお前の腕っぷしに助けられたわけやからな、礼ぐらいきちんと言わせてくれや」
「礼はいい。なぁ、あんた、本当に俺のことがわからねえのか」
「ああ? せやから言うとるやろ。名前教えろって」
「……桐生一馬だ」
「ふうん、桐生、な」
「……」
名字を味わうように繰り返すと、桐生は少し戸惑ったようにこちらを見つめてきた。なんや、と反応すると、いや、いつもと呼び方が違うから、と口ごもった。どんなものだったのかを聞くと、名字で呼ばれるのと大して変わらないんだ、忘れてくれ、と言われた。
「兄さ……いや、あんたは、記憶が無いのか? あんたみたいな人はそうそういないから、人違いとも思えないんだが……」
「まあ、そうなるわな。目ぇ覚めたら砂浜に横たわっとって、それ以前の記憶が無くなっとった。そのあとまあ、いろいろあって、今に至るっちゅうわけや」
「それで、海賊」
「せや。まあ、楽しゅうやっとるわ」
「そ、そうなのか。なんというか、似合っているというか……馴染んでいるな」
「ふうん。お前からは、そう見えるんか」
「ああ」
やはり、この男は自分のことをよく知っているようだった。聞けば、桐生は諸事情でこの土地にいたところ、片目の日本人ヤクザがどうこう、とかいう自分の噂を耳にして駆けつけたらしい。ここに長くとどまる予定はなく、近いうちにハワイを後にすることになっているという。事情って何やねん。気になって突っ込んでみると、今のあんたに説明してもわからないだろうと、真っ当な答えが返ってきた。
「噂もばかにできねえな。特徴を聞いて、もしかしたら真島の兄さんかもしれない、と思って来てみたんだが。まさか海賊になっているとは、考えてもみなかった」
「またそれか。ようわからん言うとるやろ。知り合いやったんかもしれんけどな、今の俺にとっては赤の他人や。お前のことだけやのうて、自分のことすらなんにも思い出せへんのやで」
「ふ、そうだったな。悪いな、どうしても懐かしく感じちまって……。あんたとふたりで、こうやって並んで話すのも、久しぶりだ」
「ん? よく会うてたわけやないんか」
「最近は、昔ほどではないな」
わざわざ自分を探し、加勢してくれるぐらいだから、旧知の間柄であることは間違いないのだろう。ただ、自分の知らない自分を語る桐生の口調は、どことなく寂しげなものだった。その雰囲気に、自分の心臓はどうしてか変な跳ね方をする。この男に出会ってから、ずっと調子がおかしい。決して居心地が悪いわけではないのに、とんでもなく複雑な迷路に放り込まれたような、不可解な気持ち。
「……なあ、お前は、これからどうするんや」
「そうだな、あんたに手を貸したいのは山々なんだが……。あいにくこっちにもやることがあってな。兄さんの無事も確認できたことだし、今日中に街の方に戻るつもりだ」
「夕方くらいまでやったら時間はあるか? ……お前に、聞きたいことがある」
「それは問題ないが……。どこかに場所を移さねえか。こうもゴロツキが多い場所だと、いつ邪魔が入るかわからねえ」
「あぁ、わかった。ほんなら良い場所がある。こっちや」
ここからさほど遠くない場所に、自分の特等席がある。この地を散策しているうちに見つけた場所だった。他人に教えたことはなかったが、どうしてかこの男になら、見せてやっていいと思えた。遠ざけていた船員たちも引き下がらせ、ふたりで並んで歩く。
見れば見るほど、知らない感情が湧き出てくる相手だ。慣れ親しんだ感覚と違和感が、どちらも拭えない。グレイヘアーではあるが、兄さん、と呼ぶからには自分より年下なのだろうか。日本で知り合ったのだろうか、いつからこの土地にいるのだろうか。次々に浮かんでくる疑問に悶々としていると、いつの間にか目的地へ辿り着いていた。
「……ここや」
人があまり通らない、海に向かって開けているこの場所は、今の時間は夕陽が沈む様子がよく見えた。自分は善人じゃない。海賊なんていう生き方をさほど抵抗もなく受け入れたぐらいだから、きっと記憶を失う前も野蛮な人生を送っていたのだろう。けれど、人間らしい感性を持ち合わせていないわけじゃない。美しいものは、素直に美しいと思う。
「……綺麗だな」
「せやろ。俺が見つけたんや。お前以外には、誰にも教えてへん」
「そうだったのか。……大事な場所なのに、俺なんかに教えてよかったのか?」
「まあ、今日の礼みたいなもんや。今から聞きたいこともあるしな」
「そうだったな。それで、何を答えればいいんだ? 俺に答えられることだったら、なんでも構わない」
桐生は海へ向けていた視線をこちらへ移す。真摯なそのまなざしに嘘は無さそうだが、確かめる術はない。架空の人物をでっち上げて、自分の隙を突こうとしている、なんてこともじゅうぶん考えられる。
それでもどうしてか、桐生のことを信じたかった。自分が、桐生の言う「真島の兄さん」だということを疑いたくなかった。この男には、自分に対して隠し事をしてほしくない。会ったばかりのくせに、とどこかで冷静な自分が囁いたが、気にしない。とにかく、聞きたいことはひとつだけだ。
「なあ、お前から見た俺は、どんな人間やったんや」
そう口にすると、桐生は意外だ、とでも言うように目を丸くした。
「そんなことでいいのか? てっきり俺は、あんたの身の上とか、今までについてを説明させられるもんだと思ってたんだが……」
「まあ、そのことに関しては、予想はつけられんわけでもない。現に俺の噂が出回っとるんやろ? 俺が調べんでも勝手にわかっていくやろ。それより、お前から見た俺の人物像っちゅうんが気になってな」
その言葉は半分本当だったが、あとの半分は嘘だった。いつか自分の正体を取り戻さなければいけないとは、思っている。ただ、記憶に関しては、自分で思い出さないことには意味がない。他人から聞いた自分のことなど何も当てにならないし、言われてもピンとこないのだ。周りが自分をどう定義しようが、重要なのは自分自身で記憶を取り戻すことだ。
だから、今の自分が興味を抱いたのは己自身の評価などではなく、妙な哀愁を見せるこの男についてだった。桐生と「兄さん」がどういう関係だったのか。「兄さん」の前で桐生はどのように振る舞っていたのか。他でもない桐生が、自分の知らない自分のことをどう思っていたのかを、知りたかった。
桐生は、少し考えてから、どこか遠くを見つめつつ口を開く。
「そうだな……兄さんには、本当に世話になったんだ。俺の都合ふっかけちまったこともあったが、どんな約束も律儀に守ろうとしてくれた。行動はまぁ、突飛なところもあったが、良い男だったさ」
桐生は前を向いたまま、喋り続ける。虹彩に夕陽が反射してまばたきのたびにちらちらと輝いた。自分はこんなにも熱心に桐生の方を見ているというのに、桐生は視線ひとつよこさない。まるで、頑なにこちらを見るまいとしているようにも思えた。
「記憶を失ったとはいっても、今のあんたとそう変わっちゃいない。口調も、性格も、子分をたくさん従えてるのも、俺にとってはいつも通りだ」
「……ほうか」
桐生が自分を語る際に滲み出るものを、自分はうまく拾うことができない。記憶にないことなのだ、当たり前ではあるが、少しだけ歯を食いしばった。馴染みのない土地に流れ着いて、一命は取り留めたものの記憶を失くした。それでもなんとかやっていけているし、取り乱すほど困っているわけではない。だけど、この男のことを何も思い出せない事実が、どうにももどかしい。
「それにしても、記憶喪失か……。まあ、あんたなら大丈夫だ、って信じちまってる俺も大概だが。もし記憶が戻らなくても、あんたはどこでもやっていけるとは思う」
「そういうものなんか」
「ああ。この歳になると、生きているのがわかっただけでも御の字、ってやつだ。兄さんがそんな風に思っているかは知らないが、少なくとも俺はそう感じている」
「真島の兄さんっちゅうんは、お前にずいぶんと信用されているようやな」
「……冗談みたいなことを、軽々やってのける人だからな。あんたも記憶が戻ればいやでもわかるさ。俺が兄さんのことを、ここまで買っている理由が」
「お前は……好きやったんか? その、真島の兄さん、のことが」
桐生が呼ぶ、兄さん、という人物のことを、自分はよく知らない。世話になったと言われて、ますますわからなくなった。確かに自分には、強いやつを気に入る傾向がある。あちこちを暴れ回るような今の状況も、性に合っている。だからこそ、桐生の語るその男は、自分が思っている自分と若干違うような気がした。暴力的で喧嘩も厭わないのが今の自分だ。そんな男を、桐生はかなり好ましく思っているように見えた。根拠のない勘もあるが、惚れた欲目、という言葉が頭に浮かんだ。
好きだったのか、なんて、くだらないことを聞いてしまったと思う。心臓が急に大きく主張し始めた。赤の他人のことを話題にあげているような感覚なのに、喉の奥が、苦しい。
「……あぁ、好きだったさ」
静かに言い切って、桐生がもったいぶるようにゆっくり、こちらを向く。まだ沈みきらない夕陽が、桐生の輪郭をじわりと照らした。
茶色のようなオレンジのような、どろりとした蜜が桐生の瞳のなかに輝く。それは光を受けてきらめいて、今にも泣き出しそうに揺れて見えた。自分がひとつまばたきをするとそのゆらめきは消えていたから、見間違いだったのかもしれない。
さざめく波の音が消えた。このからだが勝手に、桐生の声を逃すまいと神経を研ぎ澄ましているのだ。五感全てが、この男へ向けられている。
「……愛してたさ、兄さんのことを」
桐生はまっすぐな声で囁いてから、柔らかな微笑をたずさえて唇を結んだ。その熱烈な告白と、自分を射抜く視線の強さに思わず言葉を失っていると、そんな様子を見た桐生が喉の奥で小さく笑った。
「すまないな、今のあんたにとっては、俺は知らない男なのに」
そう言ってこちらに背を向けかけた男の手首を反射的に掴む。広い背中が一瞬、動揺するように震えた。それを見て小さく舌打ちが漏れてしまう。言うべき言葉を何も用意していないのに、こんな行動に出るなんて。
口を閉ざしたままの自分を見て、桐生がこちらの表情を窺ってくる。慌てて手を離して、まあ、そんな、気にすんなや、とよくわからない反応を返してしまった。物珍しいものを見たような声色で、桐生が喋り出す。
「……もしかして、慰めてくれてるのか? 兄さんが?」
「いや、その」
「優しいんだな……。じゃあ、一体何をしてくれるんだろうな」
「……ちゃうって。俺は、別に」
「頼んだら、キスでもしてくれるのか?」
「そ、そないなこと、できひんやろっ、どう考えても」
「なんだ、残念だな」
そう言って桐生はくすくすと笑った。女とは似ても似つかない低い声なのに、どうしてか自分の耳には、澄んだ美しい音色が、確かに響いている。おかしい、こんな自分は知らない。情熱的とまで言っていいような好意を示されているのに、こちらが優位に立っている感覚が全く無い。むしろ自身の魅力をわかったうえで、誰にでもこんな態度を取っているのではないか、という気さえしてくる。
「すまない兄さん、冗談が過ぎたな。悪かった」
「あ、ああ……」
「今はキスなんていらないさ。記憶が戻った兄さんに、そのうちもらうよ」
本気かどうかわからない言葉を放って、桐生は鼻を鳴らした。からかわれたのだろうか。だが、そんなことをしてくるような男には思えなかった。どういう反応をすればいいのか若干戸惑っていると、桐生が一歩、自分に近づいた。そうして、黒手袋をした自分の片手がとられて、あの唇に近づいていく。
「今は、これだけでいい」
言葉と共に、手の甲とも指先ともつかない部分に口付けられる。その恭しささえ感じるような態度に、思わず、子どもが叱られたときのように背筋が伸びた。桐生は感覚を確かめているのか、手袋に包まれた手のひらを自身の頬の輪郭に添えた。布越しでも伝わってくるその曲線は、思っていたよりもずっとあたたかかった。
一連の流れを、自分はただ呆けたように突っ立って見ていることしかできなかった。桐生は相変わらず、穏やかな表情を浮かべたまま、こちらを見つめている。それから、今の兄さんは新鮮だな、と少し笑った。取られていた自分の手は、いつのまにか放されていた。
「……あんたの記憶が戻らなくても、俺はいつまでも待ってる。いつかの兄さんが、俺にそうしてくれたように」
じゃあな、とこちらを振り返らないまま手を振って、男は薄暗くなり始めた街に消えていった。こつ、こつと、一定のリズムを奏でる靴音が遠ざかっていく。追いかける資格は今の自分にはない。だから、せめてその背中が見えなくなるまでは見届けようと、隻眼で懸命に目を凝らし続ける。
記憶がいつ戻るかはわからない。完全に取り戻せるものなのかも、確証はない。自分の年齢すらよくわからないものの、このまま海賊稼業を続けていれば、いつかはこの地に骨を埋めることになるのかもしれない。ただ、もしも「兄さん」の記憶を取り戻せたならば、自分は何もかもを捨てても、桐生のもとへ真っ先に駆けていくだろうと思った。そして桐生が誰といようが、何をしていようが、あの美しい顔にキスの雨を降らせてやるのだ。きっと自分は謝らない。心配かけたな、のひとことも告げないだろう。けれど、桐生なら、そんな自分を受け入れて、甘やかに笑ってくれる。
遠ざかるロマンスグレーが、風景に溶け込んでいく。ひとりの男の後ろ姿を、ただただ見守り続けた。それが、今の自分があの男へ唯一できる、空白の埋め合わせだと信じて。