うちのクラスの降谷は赤井先輩と同棲してるらしい⑦夕涼み つい一週間前に梅雨が明けたばかりだというのに、夏が猛烈な勢いで日本列島を覆っていた。
小学生の頃からテニスをやっている僕だけど、テニスネットの向こうのラインが揺れて見えたのは初めてだ。ニュースで言っていた猛暑予想はどうやら的中してしまったらしい。
そんな中、練習で汗を流しているのは一年生だけ。顧問の先生と上級生は今日は交流試合で他校に行っているのだ。
「あっちいな~~~~」
「暑すぎて頭おかしくなりそう……」
「マジ死にそうなんだけど……なあ、降谷」
名前を呼ばれた僕はクラスメイトでありテニス部の仲間でもある田中の方を振り返った。日陰に座り込んだ田中は夏休み前に比べて大分痩せたような気がする。
夏の練習はハードだと先輩たちから聞いてはいたものの、ここまでだとは思っていなかったというのが一年生部員の総意だ。だからと言って、練習時間に座り込んでしまうのは見過ごせない。
「ちゃんと練習しないと。座ってたって暑いもんは暑いんだから」
僕がそう言うと田中は「頼みを聞いてくれたら練習する」と真面目な顔で言った。その額には汗が伝っていて妙な迫力がある。
「頼み?」
「ああ。一生のお願いだ」
「ええ……?嫌な予感がするんだけど」
「頼む!降谷!女子のウェアで練習してくれ!」
「はあ?」
僕が呆れた声を上げると、他の部員たちも僕と田中を見た。
「頼むよ~~~ちょっとでも涼を感じたいんだよ~~~~」
「なんで僕が女装したら涼しくなるんだよ!」
体育祭で僕が女装したのは二か月前の五月のこと。部活対抗リレーで一年生部員は女装して走るのが伝統だと言われ、僕は仕方なく女子用のウェアを着てグランドを走った。
それを見た担任の西島先生からは妙に似合っていたと言われたが、僕はクラスの中でも背が高い方だし、スポーツをやっているからそれなりに筋肉も付いている。とても女子には見えない体形だ。遠目で見れば似合わないこともない、という意味だったのだろう。
「わかんないか?スカートがさ、ひらっとしてるのを見るだけで風を感じるんだよ」
「はあ?何を言って……」
「わかる!!」
「俺たちに今必要なのはそれだ!」
「降谷、俺からも頼む!」
「ええ!?」
他の部員までもが田中に加勢するので僕は顔がひきつってしまった。
僕だって男子高校生だから、女子のスカート姿をかわいいと思うことはある。でもそれは女子が履いているからであって僕が履いたって違和感しかない。
「ほら、電気屋に展示されてる扇風機にヒラヒラしてるのがついてるじゃん?それが揺れてると『ああ、涼しそうだなあ』って思うだろう?なあ?!」
「……確かに」
思わず同意してしまったあたり、熱さで僕も頭が正常に働いてないのかもしれない。これ以上田中の話に反論するのが面倒だったというのもある。
「なあ~~~頼むよお~~~~降谷さま~~~~」
田中が僕を拝むと他の部員もその真似をし始めた。ああ、これは僕が着替えるまで収まらないやつだ……。僕たち一年は入学してまだ三か月だがすでにいいチームになれてきている。厳しい練習の後でも冗談を言い合える気安い関係を僕は心地よいと思っていたのだが、まさかこんなところで団結力を見せてくるとは……。
「まったく、しょうがないな」
「やった!!!さすがは俺たちの降谷!」
そんな風におだてられて、気持ちよかったことは否定しない。それに加えて、もしかしたら女子のウェアのほうが涼しいんじゃないかという下心も少しだけあった。
かくして、僕はいつもの練習着から、体育祭のためだけに用意されている上下白の女子のウェアに着替えたのだった。
結果的に言うと、女子のウェアに着替えても暑さは変わらなかった。
それでも部活のメンバーが笑いながら練習しているのを見ると僕も楽しくなってくる。先生はいないし、練習はちゃんとやってるんだから、まあいいか。
「降谷ってマジで美脚だよな」
「俺もそれ思った。すね毛剃ってんの?」
「まさか!普通に生えてるよ。ちょっと薄いけど、ほら」
僕が足を見せると部員たちがその周りに集まって僕の足をしげしげと眺め出した。僕の体毛は髪と同じで色素が薄く、量も少ないので目立たないが、よく見ると太陽の光を汗と体毛が反射してる。って、こんなの見て楽しいのか?
「おい、降谷零!!」
生徒にしては低い声が聞こえて、声の主に背を向けていた部員たちの肩が跳ねた。
「あ、赤井!どうしたの?」
僕がフェンスの向こう側にいる赤井の方に駆け寄ると、部員たちは蜘蛛の子を散らすように方々へ走って行った。
「どうしたはこっちのセリフだ。なんて恰好して練習してるんだ」
「こ、これにはちょっとした事情が……赤井こそ夏休みなのに学校に来るなんて珍しいですね」
「学校に提出する書類があったんだ。俺よりも君だ。ちゃんと理由を説明しなさい」
赤井は腰に手をあてて僕を見た。
「え、えっと……部員に着てほしいって言われてつい……」
「ホオ……?頼まれたらなんでも着るのか君は」
「そ、そうじゃないけど……」
赤井と話している今この時も暑い。練習終わりまであと三十分。体力的にもきついところにいた僕は赤井のお説教をどうやって切り上げるかを回らない頭で考える。
「あ、赤井……」
「なんだ」
「赤井は……こういうの嫌い?」
スカートを指でつまんで小首を傾げて見せる。僕としてはかわいこぶってみたつもりだったが、赤井の眉間の皺はさらに深くなっていた。
「そういう問題じゃない。しかし、君の態度はよくわかったよ。覚悟して帰ってきなさい」
赤井はそう捨て台詞を吐くと、校門の方へと歩いて行ってしまった。
練習終わり、いつもより多い荷物を持って僕はトボトボと赤井の家に向かって歩いていた。
赤井……怒ってたな……。
同居している男が女装してテニスしていたんだから、気持ち悪いと感じるのは当然だ。しかも、暑さで疲れていたとはいえ、僕は赤井の忠告を適当に躱してしまった。考えれば考えるほどどんどん足取りが重くなっていった。
玄関の前に立ち、赤井が急なバイトで留守にしていることをほんの少し期待しながら、僕は鍵をドアに差し込んだ。
「おかえり」
「た、ただいま帰りました……」
赤井は玄関からすぐのリビングで長い足を組んでソファに座っていた。この家の共有スペースは広いため冷房は効きがいまいちで、気温が高くなってから僕も赤井も自室で過ごすことが多くなっていた。それなのにわざわざここで本を読んでいるなんて、さっきの女装のことでまだ僕に言いたいことがあるんだろうか。
「お疲れ。今日は暑かったな」
「え、ええ……そうですね」
「風呂を沸かしておいたから入るといい。バイト先でバスソルトを貰ったから使ってみたんだ。俺もさっき試したがなかなか気持ちよかったよ」
「そ、それは楽しみです……」
なんだ、全然怒ってないじゃないか。むしろ練習終わりの僕を気遣ってくれる赤井の様子に、僕の肩から力が抜けた。
赤井の言葉に甘えて、早速お風呂に入ることにした。まず練習で使ったウエアを洗濯機に突っ込む。明日は先生も先輩も戻ってくるから、勝手に借りたウエアを洗って元に戻しておかなければならないのだ。
洗濯をスタートさせてから、服を脱ぎ、浴室のドアを開けた。まだ午後四時。昼間と変わらない日が差していて、こんな明るい時間からお風呂に入れることに心が浮き足立つ。
しかも浴槽からはレモングラスのいい香りが漂っている。僕は体を洗うと飛び込む勢いで浴槽に足を沈めた。
「あぁ〜生き返る〜……」
思わず漏れた声は浴室の天井に響いた。浴槽にはメッシュの袋のなかにハーブが入ったバスソルトが浮かんでいる。赤井が言っていたのはこれのことなのだろう。
しばらくお湯とハーブを楽しんでから浴槽を出ると、バスソルトの効果なのか、体は大分スッキリしていた。
テニス部の友人たちにも勧めたいぐらいだ。赤井は貰い物だと言っていたが、どこのお店のものかわかるだろうか。
そんなことを考えながら体を拭いていた僕は、着替えようと部屋着に手を伸ばしたところで異変に気が付いた。
「……えっ!?」
風呂上がりに着ようと思っていたハーフパンツとTシャツがどこにもない。置いていた場所にはなぜか見覚えのある女子の制服があった。僕たちが通う学校の近くにある女子高の夏服だ。
こんなことをする犯人はひとりしかいない。というか、この家には僕と赤井とハロの他には誰もいないのだから間違いなく赤井の仕業だ。
「赤井〜〜〜!!!」
名前を呼んでも赤井は一向に現れない。仕方ないので下着だけ履いてリビングに行こうかと思ったが、そのパンツはどこにもなかった。
「くそぉ……」
きっと昼間のことを根に持っているのだ。僕が部員に頼まれたという理由で女装したことを。頼まれたらなんでも着る君ならこの制服だって着れるだろって?ふん、着てやろうじゃないか!見て後悔すればいい!
僕はその制服を着る前に手を合わせた。どういう経緯で赤井の手に渡ったのか分からないけど、僕みたいな男子高校生に着られることなんて、この水色のセーラー服は想像してもいなかっただろう。ごめんね、今はこれしか服がないんだ……。
僕は慣れない女子の制服を悪戦苦闘しながら着込んだ。もしかして入らないんじゃないかと思ったのだが、不思議なことに僕にピッタリのサイズだった。
「赤井!!!」
僕がリビングに戻ると赤井はまだそこで本を読んでいた。
「やあ、サッパリしたか?」
「ええ!お風呂上りにこんな服が置いてなければ最高だったんですけど!早く僕の服を返してください!」
「演劇部の奴に頼んで借りてきたんだ。君に似合いそうなのを選んだが、俺の目に間違いはなかったようだな」
赤井はそう言うとソファの隣をポンと叩いた。
男子校の演劇部が所有しているものなら僕が着られるサイズなのも納得だ。赤井はそこまで最低な男じゃないと思いつつもどこかで『もしも元カノのだったら』と思っていた僕は悔しいことにホッとしてしまった。
僕が乱暴にソファに腰を下ろすと、スカートがふわりと浮いた。いけない、パンツ履いてないんだった……。
「お転婆だな」
「ふん、ヤンチャの間違いでしょ!ていうか、僕にこんな服を着せて楽しいんですか?」
「楽しいよ。目の保養になる」
「はあ?目が後悔してるの間違いでは?」
「君、本気で言ってるのか?」
「え?」
「前々から思っていたんだが、君は自分の容姿に無自覚すぎるところがあるぞ。容姿のことを言われるのは嫌いだと言っていたからそのせいなんだろうが……」
赤井はそこで言葉を切って、じっと僕を見つめた。
「なんですか……」
「君は綺麗だ」
そんな風におだてても僕の機嫌は直りませんよ。そう言いたかったのに赤井があまりにも真剣な顔をするから、僕は黙って俯くことしかできなかった。
「ちょっとありえないぐらいに似合ってる。昼間のテニスウエアだってそうだった」
「……そんなまさか」
「まだそんなことを言って……心配だよ。なぁ、キスしても?」
「文脈がおかしいでしょ……そ、それに、いつもしてるんだから好きにしたらいいじゃないですか」
「そうだな」
赤井は僕の顎を指で掬うと、まるでこれが初めてのキスみたいにそっと唇を重ねた。
「あの、僕……」
「ん?」
「女の子じゃないんですけど……」
「知ってるよ。この前の銭湯で見た」
赤井の掌が僕の、何にも覆われてない太腿に重なる。その上にある僕の中心は柔らかいスカートの下で性別を主張している。
「わ、わかってるならいいんですけど。赤井ってモテそうなのに案外寂しいんですか?女装してる男なんかにそんな……嬉しそうな顔して」
「君を前にして性別なんて些細な問題だよ。こんなに綺麗な生き物を俺は他に知らない。そういう意味では寂しい人生だったのかもしれないな」
人生なんて高校生が使うには重い言葉だけど、赤井が言うと妙にしっくり来た。赤井はこれまでどんな風に育ってきたんだろう。何人と喧嘩して誰と恋をしたのだろう。聞いたら教えてくれそうな気もするけれど、出会う前のことを僕が全て知るのは不可能だ。
「顔が赤い」
「そ、それはお風呂に入ってたから……」
「アイスティーを飲もうか。待っててくれ」
「あ、はい……」
僕はキッチンに立つ赤井の背中を見つめた。赤井のことが知りたい。今だけじゃなくて、今までとこれからと全部。
赤井の緑の瞳はよく僕には見えない遠くを見つめている。
今日、学校に提出したと言っていた書類はおそらく進路調査票だろう。進路なんて言われても一年生の僕にはピンと来なくて、夏休みが終われば三年生の先輩たちは部活に来なくなるということぐらいしかはっきりしてない。
でも赤井は僕より先に卒業してしまうのは確実だ。
寂しいな。そう思っていると、「アンっ」というハロの鳴き声が庭の方から聞こえた。
ソファから立ち上がりレースのカーテンを開けて窓の外を見ると、ハロが嬉しそうに白い尻尾を振った。
「外に行きたいの?」
窓を開けて尋ねるとハロはふたたび「アンアン」と鳴いた。
ハロは元々神社に祀られていた犬神だったのだが、悪いものに狙われていたため、新しい神社が完成するまでこの家で匿っている。それでも自分の縄張りの様子が気になるようなので、日に一度は僕か赤井が付き添って神社まで出掛けている。
普通の人には見えないそうなのでリードなどは特につけない。僕としてはハロにジョギングに付き合ってもらっているような感覚だ。
「この格好じゃいけないから少し待ってくれる?」
「アンッ」
聞き分けのいいハロはその場でお座りをした。
「どうした?」
アイスティーを持った赤井が僕に後ろから声を掛けた。
「ハロが神社に行きたいみたいで……うわっ」
突然の強い風が吹いてレースのカーテンが僕を襲った。それと同時に僕のスカートが捲れ上がった。
「ひあっ!?」
僕が慌ててスカートを押さえると赤井が掃き出し窓をバシンと閉めた。
「ハロはステイだ。今支度するから待っていなさい」
窓の外に向かってそう言った赤井の顔は耳まで赤くなっていた。
「えっと……見えちゃいました……?」
「……見えた」
あぁ……。パンチラならぬノーパンチラしてしまったなんて。しかも赤井の前で!!
「すみません……」
「なぜ君が謝る」
「見たくないものを見せてしまいましたので……」
「はぁ……」
赤井は盛大なため息を付いた。
「そこのカーテンに手を着いて立ちなさい」
「え?」
急にどうしたのだろうと思いつつも赤井の言う通りにして立つ。すると赤井は僕の太ももを両手で掴んだ。驚いて振り返ると赤井は床に膝をついて僕の太ももにキスをしていた。
「えっ、ちょ、ちょっと!?」
触れている唇が冷たい。きっとキッチンでアイスティーの味見をしたのだろう。赤井の唇はきゅっと僕の肌を吸って離れた。
「これで他のやつには見せられなくなったな。もう金輪際、俺以外のやつの前でスカートは履かないように」
「は、はい?」
訳がわからない僕を置いて赤井は玄関へと行ってしまった。
一体なんだったんだ……?
からん、という氷の音がしてテーブルの上に視線を向けると、赤井が淹れてくれたアイスティーのグラスがびしょびしょに濡れて小さな水溜まりを作っていた。