アキケイ・オデュケイつづき あの時、お前に言った言葉に嘘など何一つなかった。髄液を撒き散らしながら屠られる自分を容易く想像していたし、飼い慣らしていた筈の心を卑しい獣へと育ててしまっていた。かつて妻を愛し子を愛した俺は、信仰にも等しいほどその深い愛を彼女と息子へ捧げていたし、今も変わらずその想いはあると確信している。しかし英霊として座に登録されたこの俺は、信仰の外側に存在させ続けた獣の手綱を――そう、これこそまさに一番の卑しさなのだが――無意識に手から放していた。
手放した。手放してしまった。手放してしまっていた。確実に、だが曖昧にどう言葉を変えようと行いの結果は変わらないが、お前が汲み取るニュアンスは少しずつ変わることを知っていたので、俺はこの事は言わなかった。だから敢えて口にしたのは「また飼い慣らす」という事と「間違いなく手綱を強く握る」という事。
邪知深い蛇がまだ俺の中に存在している事実を暗に匂わせながら、それでもお前の教えを受けた生き残りである事実を強く押し出すために。そのためだけに俺は卑しい獣にしてしまった心を捨てず、主導権を握り返して従えさせるのだと宣った。
それには意味があった。お前が背を向けて両手で目を覆い直視を避けていた感情への答えを持っていること。苛烈なまでに強く熱いあの男の真っ直ぐな心など知らぬというふりをしているのを知っているということ。そして、そのどちらもこの胸に抱き留めることが出来るということ。これらをお前に伝えてしまうことができたら、どれだけよかっただろうか。だがしかし、胸を貸し腕に抱きとめて甘く蕩かすように身体を抱くことが出来たとしても、俺は結局のところ、この心を殺すのも手折るのも、ましてや誰かに盗ませるなんて愚昧なる行為を誰にだって許すことはできなかった。
つまり俺は生きたかったのだ。教導された生き残りということを盾にして、心をお前好みの温度に変えてでも俺は生きていたかった。簡単に想像できてしまった死に様を、この仮初の命で叶えることだけはしたくなかった。
お前に言った言葉に嘘は一つもない。だが、温度を変えてでも、後ろ手に隠してでも守りたかった物事を、お前に伝えはしなかった。何故ならそれは、俺がまた俺として歩むために必要な事だったから。そして何より、呪いのように心にも体にも染み付いた生きたいという欲望を失わないが為に選び抜いた、たった一つのやり方だったのだ。
ノウム・カルデアの廊下を歩いているさなか、経過はどうだ? と少々気怠そうな色合いを含んだ声が背中を叩いた。振り返って見てみれば、フードを目深く被った銀髪の美青年がカルテと思しき物を片手に立っている。オデュッセウスはさっと思考を巡らせてから口元に笑みを浮かべてみせた。
「俺はどうという事はない。診察でもそうだったろう?」
「そうだな」
アスクレピオスは頷いて答える。
「嵌めやすいよう綺麗に肩を外す程度の冷静さは残していたようだしな」
その言葉にぎくりとしないでもないが、そんな事はおくびにも出さずオデュッセウスは快活さを意識して笑い声を漏らした。いやはややはりバレていたか、と少しの茶目っ気も漏れてしまったのはご愛敬だ。
「だが、俺は本気だったさ。アレを相手に余裕の構えを続けるのはたまさか出来ん事だ。それはアスクレピオス殿、貴方の方がよくよく分かっているだろう」
「さてどうだろうな、僕はただの医者だ。愚かな病につける薬を作れもしない、しがない医者でしかないからな」
「貴方を掴まえてしがない医者というのに頷くのは俺には出来ないが……そうか、パリス王子のところの――」
皆まで言うな! とアスクレピオスが噛み付くように低く声を唸らせる。オデュッセウスは頭に浮かんだふわふわした羊の存在を思考の片隅に追いやってアスクレピオスに謝罪の一言をかけた。彼とあの方はなかなかどうして、いや、言うなと言われたのだから考えるのも野暮なものだろうとオデュッセウスはかぶりを振る。だが、経過観察の対象としては退屈であろう自分にわざわざ声を掛け、気の置けない仲というわけでもないにも拘わらず、愚痴ともとれる言葉を溢したその真意を覗きたくなるのは人の業というものだ。幸いにして彼は愚かな病につける薬を作れないと言った。ならば愚かな患者のふりをして愚かな質問を投げかけてもよいだろうと、いたずら心が働くのも已む無しといったところではないだろうか。
「ところでアスクレピオス殿」
「なんだ」
「ケイローンが与えられるべきは神の情と人の情、どちらだと君なら考える?」
「それはあの人が選ぶことだ、考えるのも馬鹿馬鹿しい」
「そうか、それもそうだな」
「だが」
「だが?」
アスクレピオスの気怠げな眼差しに陰が落ちる。マスクからほんの僅かに漏れ出た溜息には哀寂の音色が含まれていた。
「涙を流す事もできない神だった先生からすれば、貴様もアキレウスも眩しい夢そのものなのかもしれないな」
そこに薄ら寒くて仄暗い裏があったとしても、手にして涜すことが憚れるような。そんな感情に駆られてしまうような夢、或いは情が彼の嫋やかな笑みの内側には確かにあるのかもしれない。オデュッセウスはアスクレピオスの指摘に頷いて同意の姿勢を見せた。
それに満足したのか、はたまた興味がすべて失せたのか、アスクレピオスは簡素な別れの挨拶を投げかけて次の観察対象の元へと歩みを進めて行った。医術を極め続ける彼もまた、ケイローンにとってかけがえのない教え子であり、彼の心を蝕むような終わりを迎えた一つの存在だ。アスクレピオスは決して口に出す事はないが、彼が一番救いたかったであろう人物と同じくして、不死を返上した己の師にその手を施したかったのだろうと感じざるを得ない邂逅をオデュッセウスは果たした。それの意味するものは最早考える迄もなく、神の情や人の情と言って遠回りをすることの無意味さを伝え、つまるところ愚かな病を速やかに寛解せよという助言に他ならなかった。
それは真摯に受け止めるべきものだ。オデュッセウスはアスクレピオスの言葉ひとつひとつを反復しながらまた歩き出した。目的地はただ一つ、あの日、軟膏や薬が入った袋と広口の瓶より先に机の上に置かれていた本が元々あった場所。恐らくはそこに目的の人物もいるだろうと確信めいた予測を持つと、足取りはどこか軽く、しかし背筋や臓腑はずっしりと重くなる。会いたくないわけでは決してない。だが以前――緩めた手で手綱を持ったままの状態――のような心持ちで会えることはもう決してないのだと思うと、己の選択した欲望が孕む失意から目を逸らすことは決して能わず、選ぶということはつまり何かを犠牲にすることなのだと生前から悉く思い知っていたことを改めて自分自身に突き付けてしまったと後悔しそうになる。後悔は悪いものだとは言い切らないが、うまく立ち回ることのできなかった自分の未熟さに臍を噛んでしまうのは避けられない。
きっとあの男は、それを視たとて春を言祝ぐような笑みで俺を受け入れるのだろう。彼が殺し続けている呵責を抱き留めることが俺にできるのと同じ要領で。
思った通り図書館に彼はいた。今日はどうやら自分自身のために訪れていたようで、子どもたちのための教師としての空気を纏っていないし、書物の選び方もそうはしていない。教えること、学ぶこと。そのどちらも平等に愛し大切にする彼らしい姿には感嘆を覚え、暫くその情景を眺めるという至福ともいえるひと時に身を委ねた。
いつも、誰かがケイローンの傍らにいた。先生、先生と彼の智慧を求め師事を求める古今東西の英霊たちが彼を囲んでいる。それに対してあの男は少しも嫌な顔をせず、求められるがままに応じて自分というものを全て差し出していた。それは彼が埋めたい何かがあったからとも思えたが、邪推であると捨てることができる程度の〝何か〟でしかない。だが今はどうだ、図書室の片隅、誰の目にもつかない場所で本という世界と触れ合っている。普段の彼とは合致しない近寄りがたさが彼の体を包んでいた。それは決して他者を遮断しているわけではないと分かるが、ともすれば人との繋がりを拒絶しているかのようにも見受けられる。背反したふたつの空気が飽和していることが、一層に近寄りがたさを増長させているのだろう。
ここで選択肢が生まれる。ひとつ、彼が読書を終えるまで待ち続ける。ひとつ、探したぞなんて簡素な言葉を投げかけながら歩み寄る。ひとつ、踵を返してこの場を立ち去る。オデュッセウスは浮かんだ選択肢をゆっくりと吟味したくなったが、それぞれを長考する暇がないことも分かっていた。そんなことをしていれば自ずとひとつ目の待ち続けるという選択肢に至ってしまう。そうやって選ぶのは、選んだとは到底言い難かった。助けがあったとはいえスキュラに部下を食わせる決断をしたように、マストに自分を縛り付けさせると決めたように、選択することそのものが大事だった。そして今回もまた助言がある。寛解しろと言うのだ、ならばそうする他あるまいて。決断を下すことは悩むよりも先に決まっていたのだ。
「ケイローン」
努めて静かに、穏やかな声でオデュッセウスは彼の名を呼んだ。視線を落とし文字を追っていた瞳は一度ゆっくりと瞬きをして翡翠色の中に呼びかけた男の姿を捉えた。
「オデュッセウス」
鈴蘭のような小さな花が開く。そんな笑みと静謐な応答。カツカツと音の鳴るオデュッセウスの足音の方が大きく響いた。ケイローンは読みかけの本を、やはり何ページ目か確認もせずに閉じて歩み寄る男へ身を寄せる。人目が無いのをいいことにオデュッセウスが腰を抱いて抱擁をするとケイローンは先よりも一層ちいさな声で、ダメですよと口にする。
「あなたの手は、温かいから」
だから、今は抱きしめてはいけないと賢者は言う。彼にしか伝わらない、彼だけのルール。いつかそのルールを破るのではなく無くしてしまいたいとオデュッセウスは思う。そうする為に、また何度も足繁く通うことになるのだろうか。
続く