01
重力や引力、自然に発生するそれらよりも強い力で地面に押し付けられる。ざりざりと音を擦りつく立てて石畳を滑った頬や肩、太腿が熱くなった。ガツンと棍棒で殴られたような衝撃が後頭部を襲い、万華鏡を通したかのように視界がひん曲がる。ぼやけた視野の中でふたりの人間の姿が見えた。白髪の人間と長い黒髪の人間。恐らくそれらは男と女。体躯からしてマスターよりも随分と大人であると思ったその時、頭を打った衝撃よりもずいぶんと柔らかな感触が体に触れた。温度のないそれが魔術の類であると気付いたときには、意識は深い海に沈むかのように落ちていった。
次に目が醒めたときには腕を組んで石壁に凭れ掛かる白髪の男が見えた。彼は目を瞑っていたが兎や狼などの野生の動物よりも鋭い感覚を持っているのだろう――ぼんやりと繰り返した瞬きの音さえ聞こえていたかのように、伏せていた瞼を開いてこちらを見据えた。
「ここは城だ。お前は〈門〉を通ってやって来た。俺のメダルが反応することから、お前に魔力があるのは明らかだ。しかし魔法使い連中の内にお前のような者はいないらしい。つまるところ、お前はどこか別なるところから紛れ込んで来たという事になる。……そうだな?」
ここは何処なのか。ここにはどうやって来たのか。自分では分からないところを男は言った。ビロードのように厚みがあり、低く唸るような声だった。
冷たい石の床に横たえたままの体を起こした。荒縄で縛られた腕を動かし、後頭部に触れてから指を見る。なめらかな皮膚の感触だけではなかったものの、血もついていない。薄くも瘡蓋ができる程には気を失っていたようだ。干し草のように散った乱れ髪を撫でつけて深呼吸を一度する。脇腹やあばらも痛んだが、どうやら骨折などの大きな怪我はしていないようだった。
男の言葉で気にかかる点は幾つかあった。メダル、それから、魔法使い。そして何より〈門〉。男の説明から推察するにそれを通ってこの城へ来たようだ。そして、ここでは魔力――ひいては、魔法そのもの――が普通にあるらしいが、万人に備わっているわけではないと伺える。男がメダルと称した物のように、魔力を観測するものがあって、サーヴァントであるこの身体はその観測物に反応を示すようだ。
つまり、英霊とは、サーヴァントとは、この世界でも異物であるということだった。
「そうですね」ケイローンは言った。「〈門〉というものが何なのか私には解りませんが、少なくとも、レイシフトに失敗してここへと来たようです」
「ニルフガード訛りもないとは驚いた。招かれざる客人として恭しく迎えるつもりだったんだがな」
真後ろから声が響く。厭味をたっぷりと含み残酷さがこびりついた声だった。全く気配のなかったそこに向かって目をやると、黒髪を後ろに撫でつけた男が何種類かの草を手にしてこちらを見下ろしている。彼の背に背負われた二振りの剣がいやに目についた。剣自体は白髪の男も背負っていたが、彼のそれは気に留まらなかった。この差の意味することをケイローンは肌で感じた。
「やめろランバート」白髪の男が言う。「霊薬の材料を探しに来ただけだろう、もう用がないならさっさと戻れ」
「彼女が――あの女魔法使いが来るといつも何かが起こる。大なり小なり。今回は少しばかり異常が過ぎるというところだな」
「俺はさっさと戻れと言った。その溢れんばかりの知恵と見識をくれと言ったか?」
「いいや。だがな、ゲラルト。ひとつ忠告しておくぞ。その男がニルフガード人であろうとなかろうと、厄介事の種に変わりはないぞ。いいか? 絶対に、まちがいなく、厄介なことになる」
「平身低頭、痛み入る忠告をどうも。さっさと行け」
白髪の男が厳しい口調でそう言うと、黒髪の男は肩を竦めて眉を吊り上げてみせた。それから、ぎろりと鋭い目でこっちを見たかと思うと鼻を鳴らしてケイローンの放り出した足を跨ぎ、白髪男の横を通る。すれ違いざまに何かしら小言を交わしたようだが、ケイローンの耳に彼らの言葉の内容までは聞こえなかった。
「じゃあな、ゲラルト」黒髪の男は軽薄そうな声で言った。「実りある報告を待っているよ、白狼」
ゲラルトと呼ばれた男は頭を横に振りその白髪を揺らした。明らかに呆れの様子が浮かんでいたが、溜息と共にその顔色は消え失せた。
「レイシフトとは?」
「霊子変換した身体を観測した特定の時点へ送る術式です。有態に言えば、タイムトラベルのようなものです」
「タイムトラベル……それはつまり、行きたい時代へ好き勝手行けるというわけか」
「はい」
ケイローンは落ち着きを払って答える。カルデアの技術に関して嘘偽りなく教えるのは本来なら憚るべきことだったが、今回は誠実さをもって話す方が良いと判断できた。白髪男――ゲラルトと呼ばれたその男は魔法使いという言葉を口にし、先程までこの冷たい石造りの部屋にいた男も毒々しげに女魔法使いと口にしていた。
魔法――魔術よりも高位にあるもの。それを操ることの出来る存在がいるのならば、嘘や誤魔化しでこの場を切り抜けるというのは、得策だとは思えなかった。
「そのレイシフトという魔法で〈門〉に繋げてここへ来た、と」
「訂正がふたつあります。ひとつ、レイシフトは科学と魔術によるもので魔法ではありません。ひとつ、原因は分かりませんが〈門〉というものに繋がってしまったために、あなた方の居城へと来てしまいました」
「科学と魔術。なるほどな、イェンの専門でもなさそうだ。……それで? 〈門〉のことは知らないがお前は魔術が使えると」
「……――信じていただけるかは分かりませんが、この身は人のそれそのものではありません。人理に刻まれた歴史、概念、情報……そういったものに形を与えた。そういう存在です。つまり人類史の記録が姿を得たものです」
なるほど、とゲラルトは頷いた。信じたり理解した意味でのそれではないとケイローンは声色から読む。人理、歴史、人類史……、その辺りの言葉が白髪の男の頭に引っかかったらしい。剣を背負った魔法使い、もしくは、魔法を使う剣士――猫のような瞳を持ったこの男は無表情の後ろに複雑な感情を抱いている。そのことは、後頭部に傷を作っているケイローンでも分かることだった。
なるほど、ともう一度ゲラルトは言った。今度はケイローンの言葉に理解を示し、信じるか否かはともかくとして一旦は受け入れたという意図を持っていた。
「人類史の記録か」ゲラルトは口の奥で笑った。「人の理に偉業なるものがあるとはな」
人の形をして人の言葉を使う彼は、まるで人ではないかのようにやはり笑った。
嘘や誤魔化しで切り抜けるべきではない――。ケイローンの考えは正しく当たった。石の床をカツカツと踏みつけるヒールの音が徐々に近付いたかと思えば、樫の木で出来た扉が荒々しく開く。バンと大きな音が鳴って石壁に当たった木の扉は長く美しい黒色の髪を揺らしながら現れた女を部屋に受け入れると軋みながらゆっくりと閉じた。
烏のように濡れた美しい黒髪を靡かせた女はケイローンへとまっすぐ歩み寄った。木製のベッドフレームに身を預けていたケイローンの顔を無遠慮に掴むと、品定めをするように右へ左へと動かす。紫色の瞳は先程までのゲラルトとの会話を改めるかのように強く射貫く。飴色の髪の房を手に取り、すんすんと静かに鼻を鳴らして香りを嗅いだ。
「あら」
そこで初めて、女は好意的な印象を与える声と表情を見せた。
「魔法なしでこんなに良い艶と香りを出せるのね。悪くないわ」
「悪くない?」ゲラルトが女に言った。「君の〈門〉から出てきたんだぞ」
「ええ、悪くない。確かに魔法ではないけれど魔力はある。水も火も、気だって使わないでここにいる。貴賤はともかくとして私の〈門〉を通るだけの力があった。それは間違いないわ」
「じゃあ、この男が言った通り人の世界に記録された情報が肉体を得たと?」
「肉体! そうね、まあ、魔術で作った身体に赤い血が流れていれば肉とも呼べるかもしれないわね。貴方の世界でいう――」
「エーテル体。英霊の座の分霊に与えられた肉体はそう呼称されます」
「そのエーテルの身体に魔力を流して活動する。幻術の上位互換、私たち魔法使いの使い魔より上位の存在というわけね」
エーテル体。英霊。分霊。使い魔。――白髪の男は口の中で何度もそれを繰り返した。
「つまり」ゲラルトは腕を組みなおす。「誰の専門になる?」
「貴方でもあるし私でもある」眼前に垂れた黒髪をかきあげて女は言った。「同時に、私たちの専門でもない」
「じゃあ誰だ。フィリパか、トリスか、そうでなければ……――」
「あのねゲラルト、私が言いたいのはそういうことじゃないのよ」
二人のやり取りをケイローンは黙って聞いていた。
専門。話の流れや身に着けているものからして男は剣、女は魔法がそれのようだ。討伐するべき相手、斃すべき怪物として品定めをしているといったところだろうか。きわめて冷静に判断を下しながらケイローンは彼らの会話の続きに耳を傾ける。
「天体の合でやって来た私たちのようにこの使い魔は現れた。規模でいえば十五世紀前のそれと比べたら極々微小なようだけれど」
「ではこの……使い魔。これは異世界から来たと?」
「貴方自身が言っていたじゃない、別なるところから紛れ込んだって。それにこの使い魔だって私たちの世界にはない術を使って偶発的にここに来たって認めているし」
「そうだが、たとえ微小だとしてもまた天体の合が起きたということか」
「例え話よ! 分かり易く言った方が貴方、スッキリするでしょう」
「それは否定しない。だがそれでこの使い……――クソ、もうひとつスッキリさせたいことがある」
顔を突き合わせて話していたが、男は大きな溜息を吐いてケイローンを見た。うっすら浮かぶ怒りと困惑を混ぜ合わせたような表情はともすれば憐れんでいるかのようにもみえた。
「お前、名前はあるのか」
「ケイローン。名乗りも挙げず申し訳ありません」
答えると、白髪男――ゲラルトは目を見開き、髪の乱れを細い指先で正していた女は弾かれたようにケイローンを見やった。
何か不味いことでも口にしたのだろうか。……例えば、この世界にはケイローンという名前の指名手配犯がいるだとか、決して口にしてはならない忌み子の名前であったとか。そのような心配をするケイローンを余所に、ゲラルトは大股で壁際にある本棚へ歩み寄った。
赤茶色の木で出来た本棚の下部にうっすらと血の汚れがついているのを見つけ、ケイローンは後頭部の傷の原因をみとめた。あのような堅そうな本棚に勢いよく頭をぶつけたとなれば傷のひとつも負うだろう。サーヴァントは頑丈だ、普通ならあの程度では何ともならない。しかし通常のレイシフトで至った世界ではないのであればまるで人間のように怪我をしても不思議ではない。一人で納得するケイローンの前にゲラルトが戻ってくる。手には古ぼけた深緑色の表紙の大型本を持っていた。本の真ん中あたりを開きぱらぱらと数ページ捲って目的の箇所を見つけた彼は、ケイローンに本の中身を見せる。
「読めるか」
「いえ。見慣れない言語です。しかし挿絵から察するに……これは私のことが記されているようですね」
「なんてこと」
女が額に手を当て嘆声をあげる。
「ギリシア神話が寓話じゃないなんて!」