アキオデュケイつづきのつづき 巨人アトラスの娘、オーギュギアー島に住まうカリュプソーは愛のために自らその命を絶った。それは天趣溢るる彩花や珠玉の露雫も霞むほどに見目麗しく奸智に長けた海の女神が自ら手招き迎え入れた結末だった。いかに手を尽くそうとも決して心から振り向くことのなかった男に出逢ってしまったがために起きた悲劇、悲恋とはまさにこの事だ。そう思うに留まり惟みる思量はとうに消え失せていたらしい。温かいあの手を知り、美質あるあの言葉を知ってしまえばなるほど、美髪を振り乱して神をなじるほど狂おしく愛してしまったのは、運命なるものがそこになかったとしても仕方のなかった事だろうと頷けた。
そして、浅ましくも私はこう思った。
「彼女のようになれたら或いは、私の諦めの悪い飢えは飽食に喜べたのでしょうね」
口に出してしまえば、自分の身の丈がよくよく分かった。顔に添えられた掌に頬を擦り寄せると、オデュッセウスの親指の腹が眦を撫でる。
「ならば泣く必要もあるまい」
「泣いてません。止まらないだけです」
「それは困ったな、俺には覚えのないことだ」
「貴方は何年も泣き暮らしていたと書かれてましたよ」
「俺は泣いたさ。だが止まらなかったことはない」
涙を含んでオデュッセウスの指がケイローンの肌にすいつく。
あの日、アキレウスの溢した涙を受けて泣いたかのように見えた瞳は灯火を持って透き通り宝石のようだったが、己の内から涙を零している瞳には海が見えた。時に飲み込まれ時に流されもしたが、故郷までこの身を連れて帰った郷愁の深いその色にオデュッセウスは囀り耀きを放つ言葉が耳の奥に聞こえた。振り返り切れないほどの追想や回顧が積もるほどあった。彼に語りたい事は未だ山のようにあるが、そのどれもを今は口にしたくなかった。
涙が止まらないから泣いているわけではないと駄々を言うその人の健気でいたわしい姿に、思いがけず己の温度で心を与えてしまいたくなる。後ろ手に隠しているものも合わせて、生きることよりもその命の中に染み込むことが最良だと感じた。こんな折に思うものがある胸中を口にすればどこまで語ってしまうのか自分でもわからない。ともすれば、アキレウスなど忘れてしまえと酷いことを言ってしまうかもしれない。そんな事はあり得ないと、オデュッセウスは自分を手放しに信じてやることができなかった。
――アキレウスからの愛では大きすぎるなら俺がいるじゃないか。戦士として散らず、長い旅を経て生きて帰ったこの俺が。
――利己的で何が悪い、お前が唯一我が儘を言える事がそれなら何度でも言えばいい。概念と感覚だけだと俯いて言うなら俺で学べばいい。
そうして彼に巧言を絡める自分を想像することのなんと容易いことか。口に出して言うだけならとても簡単だった。だが、剥き出しにして渡すには毒を孕みすぎた甘言があふれ出る前にオデュッセウスはケイローンの喉の中にそれを押し込んだ。唇から漏れ落ちないように、意味や意図を窒息死させるために長く蓋をする。唾液と共に臓腑の奥へと落とし込むようにして、柔らかくて温かい舌を絡ませあう。行き場を失った言葉たちは親密さに姿を変え、朝焼けにほどける夜露のように形を成すことなく互いの喉を潤す。
心は二人の落とし所を探り当てようとしていた。曖昧なままにしていたそれは、濡れた舌が擦れるたびに輪郭を露わにしていく。唇、それから、腕と胸。触れ合うところから重なりひとつになろうとした。
どれほどそうしていただろうか。名残惜しくも離した唇から漏れる呼吸の音が、本棚の間に吸い込まれていくのを遠くに聞いていた。
「どうだ」
眦を撫でながら言う。
「泣き止み方は覚えたか?」
問えば、ケイローンは数回瞬きをして困ったように笑った。
「君がいないと泣き止めないじゃないですか」
「俺じゃなくてもいいさ」
「本当に?」
「言ったろう、お前の心のままでいいと」
「……そうですね」
手折るでもなく盗ませるでもなく、殺しもしないその心を持つからこそ。
だからこそ尊いのは、君の方だ。
*
あの人の考えている事は手に負えないくらい理解できていた。だからこそ、あの日にこの背中を掻きむしった手が伝えた感情は俺のものだと声高に叫びたくなるが、しかしそれはあの人の優しさの上に胡座をかくならず者であり続けると断言するようなものである。まともな手段で手に入れる事ができず、渡すこともできなかった心に何の価値があるだろう。引く手数多の雑多な俗人に幾らでも売りつけられるが、屑に変わりはない。屑で喜ぶことのできる相手ならそもそも眼中になく、そうではないから頭が痛い。尾を引く頭痛の原因には深酒もあったが、それを取っ払ったところで治ることもないとアキレウスは分かっていた。
「バカだねぇおたくも」
「うーるせ」
カラカラ笑うケルトの英雄は、青い髪を少しばかり揺らして異国の酒をまたくいと煽る。食堂ではじまった飲み会は厨房の赤い防人からの苦く鋭い視線に押しやられ廊下の隅へと移ろうとして、廊下では外聞が悪かろうとわざわざ心を割いた一人の英霊の好意によって艦の一角、小さな部屋へと場所を移した。そこはそのサーヴァントの私室だった。他に宛てもある私には勿体無いからと遠慮がちに笑うその顔に、あの人と同じ影を見てしまったのは気のせいではないだろうとアキレウスは思う。カテゴライズを敢えてするなら先生同士、何かと通じるものがあると考えられるのだから不思議もない。
とは言え、とは言えだ。
「わざわざ難儀になさる心理が俺にはサッパリだわ」
「だから、うるせえって」
誰にも自慢できない色恋沙汰を、どうして酒の肴に提供してしまったのか……――アキレウスは自分で増やしてしまった頭痛の種にまた悪態を吐いた。笑う男はしかし、ただ楽しげに赤い眼を細めるだけではなくそれなりに言葉を繰っていた。
やらかしちまったなら責任を取ればいい――全くその通りだ。
宝と女が戦利品だったくせになまっちろい――言わんとする所は理解できる。
世に謳われる大英雄が情けない――悔しいがその通りだ。
腐るぐらいならもっかいヤッちまえ――すまんがそれは理解し難い。
ここでギャアギャアと烏よりもうるさく舌戦を繰り広げる事となったが、ケルトの英雄、赤槍のクー・フーリンはとにかく明朗にできるものをやらぬという事が嫌いらしい。アキレウスともあろうものが! と、感嘆のようでいて煽り文句のように言うのだからさすがのアキレウスも酒が不味くなると噛み付く。おお怖ェとおどけた男を軽く睨みつけながら日本酒を喉の奥に押し込んだ。カルデアに縁を結んでから初めて味わうこの酒は、部屋の主が好きに飲み進めてよいと貯蔵の中からすっかり出したものだった。嗜む程度だから遠慮しないでくださいと言った彼の口調にもやはり面影を得る。それほどに飢えていて、渇いていた。
自分を見ていて――しかしその姿のままに見ていない視線の意味に気付かないような人だとは思えなかった。枯渇を浮かべた瞳を、その奥にある焔の存在を知っていてなお、だんだら模様の羽織を着た男は堅苦しさも荒々しさもない微笑みで受け止め、決して𠮟り付けることもなく嫌がる素振りを露わにもしない。出来た人だと言われるのは、ああいう類だろう。それに引き換え我が身はどうだとアキレウスは嘲笑を己に吹き付ける。その様子もまた酒の肴であると言わんばかりにクー・フーリンはかっかと笑った。
「いやだねえ~! これだから神代に係る生き物ってえのは」
「そりゃお前もだろうが!」
「あ? 俺はいいんだよ、神も仏も知ったことか。だがお前さんはそうはいかねえ、何故ならお前さんが慕って焦がれる相手はまさに、間違うこともできないくらい原初に近い神の子だからだ」
だがしかし、と赤い眼を輝かせて男は言葉を繋ぐ。その爛々とした瞳と朗々語る口調からして、何を言いたがっているのかアキレウスは薄々察していた。
「お前さんが閉じ込めたくて仕方ないお師匠さんは実に神らしさがねえ。神ならではの専横、神ならではの暴虐、神ならではの理不尽など一切なく、人に寄り添う大賢者とくるもんだ。本当におたくらの内の神様かい?」
「おい槍兵、酔ってはいても俺が文脈と空気を読める男でよかったな? 場合に依っては戦車につないで曳き回すかもしれねえぞ」
ああ忌々しい! そう叫ぶ代わりに再び酒を煽る。水のように喉を滑り落ちていく酒が少しずつ理知を剥しているのを、まるで他人事のように眺めていた。シナプス前細胞がまだ大丈夫だというのを受け取るだけのシナプス後細胞。傍目には隙間なくべったりとくっついたそれらの隙間〇・〇〇〇〇二ミリメートルに介入できる理性は泥のように溶けていたことに気付ける物質や事象は、残念ながらどこにも何もなかった。普段なら諫める人がいたし、そもそもこんな馬鹿みたいな飲み方をしないのだから気付く術もないと言える。
こうして、掴めるだけ分厚い後悔をまた積み重ねる。向けられない顔ばかりが作られていく。好きなだけ自己嫌悪ができることに気付くのは、酔いの醒めた最低な気分の中で萌芽する自我の仕事だ。酒宴の深まる中で打ち捨てられたそれは、アキレウスの思考の海の奥底で今はまだ揺蕩い微睡んでいた。
「お前さんの師匠はお前の世界の全知全能の神の兄弟らしいな」
「そうだがそれがどうした」
忌々しいあの神の父神。思うところがないと言えばしっかり嘘にはなるが、母に善処を施したあの全能の神と、三叉戟を持って海統べる荒神、そして昏き冥府に秩序を与える王とも血を分けた男……それが先生、我が師ケイローン。そんな当たり前の事を今更ながら確認するクー・フーリンの思惑を読むのは面倒だった。つまるところ全て詳らかに言えと促せば、おかしな事だと男はやはり笑う。
「父である大神の奔放な愛憎劇を反面教師にしたとみえるだけでなく、身勝手で一方的な寵愛を得意とするゼウスに習う事もなかったのだろうと窺える。それがどれほど稀有な存在か、余所者の俺でも思うもんさね」
「稀有で当たり前だ。先生は特別なんだよ」
「で、あるからこそだ。誰かを愛することを一等大切にしたが故、伽藍堂になるものがあるとも思えねえか?」
空になった徳利に酒瓶から酒を注ぎつつクー・フーリンは言う。その言葉は酔いと共にあった頭痛を加速させ、しかし惑いを振り払うには充分過ぎるほどの威力でアキレウスの頭を殴った。
ケイローン本人からも聞いた彼の出自と彼の求める唯一の絆。空いた隙間はケルトの槍兵が言うように伽藍堂であると想像するのは確かに容易く、しかしそれを埋めるものを求める素振りを決して見せることもなければ口にして語ることもない理由。言葉にして口に出すほど音が何重にも響いて渡るのを知っているのだろう、洞窟のように空っぽで、大きくて、虚脱が広がるからこそ口を噤む。ならば反響する音を聞かないために微笑みの裏に隠し、足音も立てずにその存在を隠していても不思議はない。
背負わなくてもいい荷物、軽く飛び越えて避けられる水溜まり、気付いてはいても気には留めない程度のもの。相手にそう思わせるような素振りを心がけている、という事を悟らせもしない空気をも作り出す。――俄然、あり得る話だった。疑義を呈するのもばかばかしいくらい現実味のある仮説であり、やりかねないどころか既にやっていてもおかしくないと首を縦に振るしか他にない。
「それを埋めたいと、大事にするものを共に支えたいと思うのは傲慢か?」
さてね、とアキレウスの問いかけにクー・フーリンは肩を竦める。
「万人が美しいと思うものを美しいと思えず、人の世の愛でるべきものを愛でられん哀れな野郎がいてな」
そう語る口に白い猪口をくいと傾げる。ゆったりと瞬きをした裏から見えた赤は、母を失った乳飲子を憐れむかのような寂然が伺えた。
「何の恩讐、どこの因果か知らんが、敬虔な神の信徒はどういう訳か心が汚泥に埋められたらしくてな」
――だから俺は神も仏もないと思う。 クー・フーリンの繰り出した言葉はやはり、隠しきれない寂しさが色を孕んでいた。
それに比べて、と努めて明るくクー・フーリンは犬歯が見えるほどにっかりと笑ってみせる。
「お前のお師匠さんには心がある。神としては珍しく人のために砕き、憂い、嘆き、尊ぶだけの神慮がある。与えるばかりのそこを埋めたいと思うのは傲慢だとしても止められまい? それが人間の業としてあるべきじゃあないか」
世に聞こえた大英雄が足を止めて悩むには些事がすぎる。クー・フーリンのその主張は、アキレウスの諦観の雲をはらう赫赫たる一声だった。
オーーーーーーーーワラネエエエエエエエエ