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    numata

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    秋とトル団とリップクリ─ム。この二人は付き合ってます
    (12/17 完成しました)

    【トル団】その蒼白に口付けを 滅びゆく景色が好きなのだと、団長は言った。
     トルペは最初、彼が何を言っているのかよく分からなかった。話題はたしか、季節の話であったはずだ。晩秋の昼下がり、穴場のベンチに並んで座って、もう秋も深いですね、とありきたりな言葉を青年が漏らした、その流れであった。訪れた沈黙の中で、足元の枯れ葉がゆるい風にはらりと音を立てた。
    「少し、感傷的に過ぎるかい」
     首を傾げるトルペに、団長が苦笑を漏らす。
    「なんと言えばいいかな、このくらいの頃の、もの寂しい景色が、好きでね」
    「好きなんですか?」
    「うん……」
     団長は、少し言いにくそうに口籠もる。恋人になってから分かった事だが、人の機微には聡いのに、自分の心情を言い表すのは少し苦手なようだった。トルペは陽光の中、団長の物思わしげな目の縁で、長い睫毛が硝子のように透き通っているのを、ただ見つめていた。
    「秋と言っても、例えば紅葉の燃えるような色や、実りのイメージの鮮やかな部分ではなくて……温かくも青褪めた、冬の眠りへ向かう光景が好きなんだ。いや、好きというのも少し違うな、心惹かれると言った方が正しい。やれやれ、年を取ると物事を面倒に捉えてしまって、よくないね」
     トルペは小さく首を振った。団長の不思議な物言いはしばしばトルペを戸惑わせたが、しかし頭で分からずとも、胃の腑の底で共鳴するような、奇妙な理解を必ず覚えるのだった。
    「ところで君は、どんな季節が好きなんだい」
    「僕ですか?」
     問われたトルペはまた小首を傾げて、考えた。
    「寒すぎると手が悴んでピアノが弾けないし、暑くても虫が煩いですが、過ごしやすければどの季節も好きです。冬は星が綺麗だし、春は花の匂いがするし、夏は動物達が元気です。秋も……ええと、食べ物が美味しいから、好きです」
     それを聞いた団長は、にっこりと慈しみ深い笑みを浮かべた。大変素敵な笑顔だが、それを向けられたトルペは複雑そうに小さく唸った。というのも、これはトルペの事を「子供っぽくてかわいい」と思っている時の顔で、常に団長と対等にありたいと願うトルペにはあまり有り難くない表情なのだった。年相応の食欲を見せてしまったのは、ちょっと失敗だったかもしれない。
     そんな事を思っていると、不意に、さあっと音を立てて強めの風が通り過ぎていった。午後の光の中で落ち葉が侘しく舞い散っていく光景に、トルペは顔を上げて、しばし目を見張っていた。団長の言う滅びゆく景色とは、例えばこういうものなのだろうか? ちらと彼の方を窺い見たが、しかし目の前のそれ自体にはあまり心を動かされなかったらしく、代わりに何かを気にした様子で、唇に指を当てていた。
    「失礼」
     そう言って、団長はコートのポケットから小さな何かを取り出した。片手にすっぽり収まる、丸く平たい容器だった。慣れた様子で蓋が開けられると、そこには滑らかな、クリーム色の軟膏のようなものが入っている。団長は右の薬指で中身を掬い取ると、自らの唇に置いて、ゆっくりとなぞるようにしてそれを引いた。
     トルペは、じっとその様子を見ていた。団長の薄い唇が、白い指の通ったところから艶を帯びて、見た目にも柔らかくなっているのが分かった。トルペの喉がごくりと鳴る。彼のそれがまるで、瑞々しい果実のように見えたのだ。食い入るような視線を感じたのか、団長が少し困ったように笑った。
    「気になるかい。人前ですまないね」
     そう言われてしまい、トルペは夢中で見てしまっていた事を恥じて、さっと目を逸らした。が、やはり団長の唇が気になって、ちらちらと窺ってしまうのだった。
    「いえ、あの、別にいいんです……僕、化粧品はよく分からなくて、珍しいんです。それは、なんですか?」
    「リップバームだよ。この季節は乾燥するからね、少し気をつけているんだ」
     団長は容器の蓋を閉めると、トルペにそれをよく見せてくれた。すべすべした蓋に、金色で何かのロゴらしきものが流麗に施されている。見た目だけで、良いものだと分かる代物だった。
    「君はこういう物は使わないかな」
    「はい……全然、気にしたことがなくて。女の子が持ってるのは見たことありますが」
    「そうかい。試しに一つ、自分でも何か持ってみるといい。唇は言葉が最後に通る場所だからね。大事にしておけば、善い言葉も喜んで出てくるというものだ」
     トルペは少しかさつき始めた自身の唇を撫でながら、こくこくと頷いた。体と心を一貫させる考え方は、分かりやすくて好きだった。
     しかし化粧品を売っている場所というのは、それと縁遠かった青年にとってはなかなか近付きにくい。似たような物なら雑貨屋に安い物があったと思うし、それでいいかな、などとさっそく低い見積もりで考えていると、団長がすっとトルペの顔を覗き込んできた。急に近くなった綺麗な顔に、青年の胸がキュッと跳ねる。
    「君、財布は持っているだろう。これから買いに行ってみるかい」
    「え……いいんですか?」
    「うん。君の身体に触れる物だから、なるだけ良いものを選んでほしいよ。安物も、無いよりはマシだがね」
     トルペは釈然としない顔で頭を掻いた。団長は自身の心情には疎いのに、こっちの事は大抵なんでもお見通しなのだ。
    「ここから少し歩くけれど、いい店を知っているから、折角だし教えておこう。君が使いやすい物もあると思うよ。……それまでは、これで我慢してくれるかい」
     団長の手がトルペの頬を包み、優しく目と目が合わせられる。驚いて身を引く暇もなく、唇同士が重ねられた。──柔らかい。しっとりした団長の唇がトルペのそれを押し包み、じっくりと食むようにして、塗られた物を馴染ませられる。互いの体温で温まったそこから、バームの香りだろうか、仄かにレモンに似た匂いがした。あまり時間もかけずに唇は離されたが、それだけでトルペはぼうっと意識を蕩かして、熟れた林檎みたいに頬を真っ赤にしていた。
    「本当にかわいいね、君は……さあ、案内してあげるからおいで。日も短くなってきたし、事を起こすならすぐの方がよかろう」
     団長は微笑むと、染まった目元もそのままに、するりとベンチを立って歩き始めてしまった。いっそ冷淡とも取れる切り替えの早さだが、秋の小道を行くその背中は、トルペの目を覚まし、すぐに追いかけさせるのに十分な寂しさを湛えているのだった。



     その店は、人通りの少ない路地にぽつんと存在していた。
     チリン、とドアベルを鳴らして足を踏み入れると、落ち着いたハーブの香りが鼻腔へと届く。時間帯の問題か、それとも場所のせいなのか、あまり広くない店内に他の客はいないようだ。だがいかにも団長が好みそうな、落ち着いた雰囲気の店だった。金の縁取りがされたショーケースに行儀良く商品が並べられている様は、珍しい舶来品の展示のようである。品揃えを見るに、ブランド物の化粧品を取り扱うセレクトショップらしい。
     カウンターには上品な初老の女性店員がおり、団長とほんの一言、だが慕わしげに挨拶を交わした。なんとなく大人っぽいやり取りに、トルペも小さく頭を下げながら、早くも団長の影に隠れてしまった。そんなトルペを振り返り、団長はいつも通りに話しかけた。
    「リップバームと一口に言っても、種類は色々だ。使い心地や香りは個人の好みがあるだろうからね。君はどんな物がお望みかな」
    「さっきのと同じ物がいいです」
     トルペは即答した。先程の口付けの感触を思い出したのか、目元を少しうっとりさせて、団長のコートを甘えるようにくいと掴んでいた。
    「僕、団長さんとお揃いがいいです。いい匂いだったし、心地よかったです」
    「おやおや……あれは私も気に入っているが、君にはお勧めできないな」
    「どうしてですか?」
    「成分や機能が、若者が使う程のものではなくてね。私のようなおじさん向けなんだ」
     トルペは少しムッとした。彼は団長と対等でありたいと思う故に、子供扱いされるのは好きではなかった。おじさんというのも団長の自称には似つかわしくなくて、ついムキで頑なな心が覗いてしまう。
    「でも僕、あれの匂いも感触もちゃんと好きでしたよ。団長さん向きの物かもしれませんが、要はただの軟膏なんだし、例えば今度やる曲の一番難しい小節よりも、扱いにくいなんてことはないでしょう。きっとそうです。僕にだって、使えないことはないはずです」
     なかなか無理のある理屈で食い下がるトルペをぽんぽん撫でながら、団長は笑った。
    「よしよし、ではまずそれを見てみようか。物を選ぶに当たって、後悔のないようにするのが一番大事だからね」
     そう言うと団長はカウンターに寄り、店員に何やら二言三言伝えた。トルペには聞き慣れない発音が聞こえたが、あのバームはどうやら外国のブランドであるらしい。
     カウンターに備え付けられたスツールに着くよう店員に促されると、トルペは座面の高いそれにもぞもぞとよじ登るようにして座り、その隣で団長は猫のように軽い身のこなしで席に着いた。すると店員があのデザインと同じ容器をいくつか取り出し、トルペの目の前に並べて置いた。複数香りがあるらしく、団長はその中の『Verbena』と書かれたラベルの物を手に取った。
    「これがさっきと同じ物だよ。試しに塗ってもらいなさい」
     店員は軽く会釈し、「失礼します」と声を掛けてから、トルペの顔に手を添えて、唇をガーゼで優しく拭ってくれた。
    (あっ……)
     誠実に仕事をしているだけであろう彼女には申し訳ないことに、トルペは団長の付けてくれたそれを拭われた瞬間、とても悲しくなってしまった。他人に触れられたことで、団長の口付けの事実が薄れてしまったような、そんな気持ちになったのだ。
     彼女はスパチュラを使い、手際よくトルペの唇へそれを引き直してくれた。そうしながら、保湿成分がどうとか、香りの効能はどうとかの説明を丁寧にしてくれたが、空虚な胸はその意味をきちんと拾ってくれない。何かしら察したらしい団長が、宥めるような声音で言った。
    「どうかな。ちゃんと付けてみると、また少し感じが違うだろう」
     その言葉にトルペは弱く頷きながら、自分の唇に触れてみた。具合は、とてもいいと思う。かさつきが全然気にならなくなったし、この手の物にありがちなベタベタ感もない。香りもさっきよりずっと強く爽やかに感じられ、心に涼しい風が通ったような快さがあった。
    (でもやっぱり、さっきのほうがよかったな……)
     トルペは、どうしても物足りない気持ちを抑えられないでいた。団長の柔らかい唇で潤いを分け与えられる感覚が、そして彼の匂いに混じった香気が、トルペにとって一番素晴らしく感じられたのだった。さらに言えば、それとは別に、先程からひとつ引っかかっている事があった。
    「あの……これ、お値段はいかほどでしょう……」
     きちんと使う事で分かったが、これは確かに〝良いもの〟だった。理想とは違えど、付けた時に独特の心地よさというか、幸福感があった。この感覚は今までに何度か経験があった。例えば、団長から貰った有名店のお菓子をそうと知らずに食べた時であるとか、団長が淹れてくれたお高いお茶をやっぱり知らずに飲んだ時だとか、そういう時に感じた物と同質の感覚だった。
     トルペの問いに、店員は小さなパンフレットを取り出し、その中の商品のページを示した(先程からやけに物静かだが、元々口数が少ないタイプらしい)。トルペはそこを覗き込み──団長と一旦顔を見合わせて、もう一度、とくと該当部分を見つめた。
    「あのう、団長さん」
    「何かな」
    「これ桁が間違っていませんか」
    「合っているよ。まあ、機能に対して相応の値段ではあるだろうね。言っただろう、私みたいなおじさん向けなんだ」
     トルペは唸った。正直、高い。こんなちょっとの量なのに、自分が今履いている、これでも持っている中ではとっておきのつもりの靴と、同じくらいするのではないだろうか。それでも、団長の口付けと同じ心地になれたならば多少の無理をしても手を伸ばしたかもしれないが、そうでもないと判明してしまった以上、躊躇いはあまりに大きかった。
    「別のものを試してみるかい」
    「……はい、もう少し、その、易しめなものがいいです……」
     団長が、また「子供っぽくてかわいい」の笑みを浮かべた。店員もなんだか微笑ましげな表情をしていて、トルペは恥ずかしくなって俯いてしまう。ああ、余裕のある大人ってなんかずるい……などと、ぶつけどころのない思いをもにゃもにゃと口の中で転がしながら。
    「では、もう少し若者向けの物を選ぼうか。そういえば君はピアノを弾くし、指に取るよりもスティックタイプの物が使いやすいだろうね。他には何か、希望はあるかい」
    「あ……あの、あまり、ベタベタしない方がいいです。香りは、さっきみたいな、ちょっとふんわり香るくらいで……」
    「なるほど。では肌馴染みのよい、柔らかいテクスチャの物がいいかな。香りも天然に近いものにしようか。例えば──」
     団長は、一つ二つブランドの候補を出しながら、店員と相談を始めた。横で聞いていて、いずれもさっきのよりは耳に残る名前だったが、やっぱり響きが小難しい。何故気取った物というのはとかく分かりにくく出来ているのだろう……きっと自分なんかじゃ及びもつかない、頭のいい人に向けたものだからだ。そんな結論を出して、悩める青年はまた勝手に落ち込んでしまうのだった。
     しばらくすると、店員がまた別の商品を目の前に置いてくれた。小さい円筒形のスティックがずらりと一列に並んでおり、親切な事に、今度は値札も一緒に置かれている。
    「このシリーズは、値段が抑えめの割に良い物だと思うよ。好みの香りがあったら、試してみるといい」
     団長が微笑みかける。値札を見ると、流石に雑貨屋の安物よりは多少高いものの、ずっと手に取りやすいお値段であった。10種類ほど並んでいるのを眺めつつ、甘ったるい香りよりは、さっき試したような爽やかなものが使いやすいだろうか、などと考えていると、ふと一つの表示が目に留まった。
     ──『Violet』
     バイオレット。隣に座る想い人を、どうにも彷彿とさせる響きだった。この場において、その名前ほど心惹かれる物はなく、トルペは吸い寄せられるようにそれを手に取った。蓋を開けると、ふわふわと安心感のある、春の花の香りが漂った。
    「おや、随分可愛らしい香りを選ぶね」
    「はい……あの、これ、試したいです。いいですか」
     店員がまた軽く会釈をして、トルペの唇を拭い、新しくそれを塗ってくれた。唇に乗せると案外サラサラしていて、使用感だけなら先程の物と遜色ないように思える。むぐむぐと唇を動かして馴染ませれば、そこから優しい香りが立って、心が温かく包まれる心地がした。
    「僕、これ好きです。これにします」
    「即決だね。運命を感じたかな」
    「はい……とても」
     店員が商品を包んでくれる間、トルペは隣に座る団長をじっと見つめていた。柔らかな紫の、野に咲く花を思わせる髪色。上質な香水の奥に、かすかに漂う彼自身の甘い香り。思えば思うほど、この香りのイメージにぴったりと重なった。
    「バイオレット──ニオイスミレか。古くから人に馴染みのある花だね。香りは緊張を解してくれると聞くから、その点で君とは相性がいい。お守り代わりに身につけておくのもいいだろうね」
     団長の説明を聞きながら、トルペは顔を綻ばせた。ああ、運命的だ。会計が終わり、小さな紙袋に入れられたそれを、青年は大事そうに胸に抱くのだった。



     トルペの下宿の窓辺には、休日はいつもそうであるように、ピアノの音が穏やかに流れている。
     いつもならば、彼の友人である動物達もピアノを聞きにやってくるのだが、彼らはもう冬籠りの支度に忙しいか、気の早い者は既に温かい寝床に潜ってしまったらしい。誰もいない庭を、いずれ降る雪にも似たピアノの音がきらきらと漂うばかりだった。
     そんな中へ、背の高い人影がひとつ、ヘリオトロープの咲く花壇を横切って、音もなく入ってきた。黒いコートに中折れ帽の、団長だった。
     彼は陽当たりの良い窓の向こうにトルペの金髪を認めると、枯れ蔦の絡まる庭木の幹にその長身を静かに寄せた。ごつごつと黒い木肌のそれは、生き物の気配のない枝を高い蒼穹へとおびただしく突き立てている。団長はそれを見上げると、緩く細いため息をついた。何も知らないピアノの音は、その息づかいすら揺らして光る。
     団長は秋風に色褪せた瞳を、トルペの横顔へと注いだ。彼は、例の〝滅びゆく景色〟を、すがれた蔦の這うトルペの窓辺に見ていた。枯れ葉の匂いは思考を錆びつかせ、もうほとんど古いフィルムのようになった視界の中で、熱心に演奏をするピアニストの姿だけが尚も眩く映った。
     流れる旋律はやがて、あくまで穏やかに佳境を迎える。団長は青年の輝かしい姿を虚ろな目に焼き付けてから、静かに目蓋を閉じた。後は音ばかりが冷たい空気を染め上げる。曲が少しずつ緩やかになり、やがて終わりを迎える頃には、団長はすっかり音の波に陶酔し、木の幹に体を預けて微睡みさえしているのだった。

     曲が終わると、トルペはピアノの前で大きく伸びをした。長い間鍵盤に向かっていたから、随分体が固くなってしまっていた。うぅん、と小さく声を漏らして存分に体を伸ばしていると、すっと頬を撫でる乾いた風に気がつく。秋風を入れるために、窓を少しだけ開けていたのだった。
     トルペはちょっと考えて、ポケットから小さな円筒形の物を取り出した。この前買ったリップバームだった。
     蓋を開け、しばらく香りを楽しんでから、それを自らの唇へぐりぐりと塗りつける。多少大雑把な使い方だが、トルペはこれを結構気に入っていた。こうしていると、少しは団長みたいな素敵な大人に近づいた気持ちになれるのだった。それに恋人と触れ合う際にも、唇をケアしていればキスの時も困らないし、乾いた唇で愛撫をして、相手にくすぐったい思いをさせる事もないのだ。そこまで考えて、トルペは自分の想像に真っ赤になってしまい、いそいそとバームをしまった。
     ほてった顔を冷まそうと窓を一杯に開けると、薄くオレンジがかった秋日が、涼しい風と一緒に部屋へと流れ込んできた。眩しさに目を細めて秋の庭を見やると、庭木の翳りに、何者かの影が佇んでいるのを見つけた。
    (んん……?)
     時期的にも大きさ的にも、常連の動物ではなかった。トルペは目を擦り、もう一度そこを見た。黒い庭木の根元には、風で花壇から種が溢れたものか、ぽつりとヘリオトロープが咲いている。その香りに足元を浸すようにして、ぼやけた瞳の団長がそこに立っていた。
    「だ、っ……??」
     団長さん、と声もなく叫ぶという器用な真似をしたトルペは、転がるようにして部屋を飛び出ると、あっという間に裏口の扉から団長の元まで走っていった。すごい勢いで目の前に馳せ参じた彼に団長も微睡から覚めたらしく、ぱちりと戸惑いを含んで瞬きをした。
    「団長さん! いらっしゃったなら言ってくださいよ!」
    「おやおや、こんにちはトルペ君。もうピアノはいいのかい」
    「お望みでしたら弾きますけど……というか、あの、こんな所になにかご用ですか? もしかして最近の練習が何か不味いとか……?」
    「まさか。君のピアノが聞こえたからね、ただそれに誘われてきたのさ」
     団長は微笑んで、海月のような白い手で、トルペの頭をふわふわと撫でた。こうして撫でられるのにも慣れてきたトルペは、上目で団長をじっと見つめた。トルペは団長を見つけた時から、彼の姿にやはり寂しさを感じていた。団長は秋が好きだと言うが、秋の中に居る団長は何故こんなに不安定で、青褪めているのだろう。髪を撫でる手もどこか弱々しいように思えて、トルペは掛けるべき言葉を探して視線を落とした。森からの風が、二人の足元を冷たく吹き抜けていった。
    「君から、春の匂いがするね」
     ゆるりと、トルペの顔を団長が覗き込んだ。曇りを帯びて尚鮮やかな檸檬色の瞳は、光を透かした古いステンドグラスを彷彿とさせて美しかった。
    「この前のバイオレットかい」
    「あ、はい……あの、とても気に入っています。いい香りで……」
    「それはよかった。私も、その香りは君によく似合っていると思うよ」
     団長は微笑んだ。トルペは、春の匂いと言われ、胸の奥にひとつの温かさが芽吹くのを感じた。団長を寂しくさせる秋は、それでもいつかは春になる。冬に全てが眠りについても、大地のぬくもりは確かに己の友人達を生かしている事を、自分は知っているのだ。それに思い至ったトルペは両手を団長へと伸ばし、互いの唇を寄せた。
    (今は、どうかこれで)
     トルペのキスを、団長は黙って受け入れた。春風をそのまま口に含ませられるような、優しい口付けだった。ちゅ、と団長が軽く唇を吸って応えると、トルペは途端に夢中になってキスを深めた。胸の内の温もりを分け与えたい一心で、団長の体を庭木に押し付け、口付けを深く深くしていく。恥じらいからか、団長の手が庭木の枝から下がる枯れ蔦を引き寄せると、二人睦み合う姿はすっかり影になって、微かにその気配が聞こえるだけになった。
    「は、ぁ……、トルペくん……」
     とうとう深みに嵌まるその手前で、長い指がそっと彼の金髪を引いて制した。
    「これ以上は駄目だよ、今はね……。はは、心配してくれるようだけれど、別に寂しくはないんだよ。だからそんな顔しないでくれ」
     ふぅと甘い吐息をついて、団長はトルペの濡れた唇を軽くついばんだ。その手が不安そうなトルペの頬を宥めて、そのまま胸に抱き締める。またもや見透かされてしまったトルペは、おとなしく団長の胸に顔を埋めた。このまま団長の顔を見たなら、きっとあの慈しむような、素敵な笑みを浮かべているに決まっている。こういうやり取りにおいては、トルペは彼に敵わないのだ。
     トルペがむぐむぐ唸っていると、ぽつりと呟くようにして団長が言った。
    「私が秋に滅びを見るようになったのは、君と同じくらいの歳の頃だった。あの頃は少し薄暗かったのを思い出してね、ほら、その翳りがこうして出てきてしまうだけで、大したことではないんだよ」
     団長は、とん、と指を指して、いつもより虚ろな目元を示してみせた。トルペは納得いったのかどうなのか、しばらくその目を見上げていた。団長は過去を話すことを好まない。だからこれ以上を問うてもきっとはぐらかされてしまうし、過去よりも何よりも、トルペは今自分の事を見ていてほしかった。
     青年の少し高めの体温が、懇願を込めて団長の手を包んだ。
    「あの……団長さん。ここには、僕のピアノ聞きに来たんですよね」
    「そうだよ」
    「じゃあ是非部屋に来てください。僕好きなだけ弾きますから。その前にお茶も淹れさせてくれませんか。熱いの淹れてあげます。それで、今度の曲の事もいっぱい話したいです」
    「おやおや、身に余るお誘いだ」
     団長が笑って手を握り返せは、それは了承の合図だ。トルペは喜んで、愛しい指先に柔らかい唇を軽く押し付けた。

     団長はトルペに手を引かれながら、庭木に寄り添うヘリオトロープをちらと振り返った。澄んだ陽光が、枝の翳りを通ってその紫色に燦々と降り注いでいた。
     団長は先程口付けられた、春の香りの残る唇に触れた。蒼白の秋の中で、自らの色を忘れないためにはそれで十分だった。
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    numata

    DOODLE楽団のモブ視点のトル団。トが楽団に入るまでの両片思い話。モブは見守り系ではなく、がっつり二人に関わってきます。序盤の感じが最後まで続きます。団長がちょっとやんちゃかもしれない
    (モブの要素→楽団のベテラン/既婚者子持ち/ノリが適当/世話焼き/団長の友人)
    【トル団】ある弦奏家の言うことには 俺はしがないバイオリン弾きだ。ある町の楽団でそれなりに活躍して、それなりに楽しく、またそれなりにつまらない生活を送っている。
     ところが、平凡な人生の中にも、流れ星みたいにきらっとして、でもちょっとやっかいな出来事というのは降ってくるものだ。
     これから話すものが面白いかどうかは人によると思うが、例のピアノ弾きにまつわる話だと言ったなら、少しは興味もそそられてくれようか。



    (人形みたいな奴だ)
     オーディション会場にあいつが入ってきた時、俺が最初に思ったのがこうだった。ちょっと癖のある金髪、不安そうに伏せた睫毛も金色。ガチガチに緊張した表情は、その柔らかそうな童顔をむしろ無機物っぽく見せている。
     長机に着いている団員らの方も見ずに部屋の真ん中まで進み出たそいつは、ぺこん、とぎこちなく一礼をした。粗末なシャツから、痩せた鎖骨が覗いている。果たして音楽をやる余裕があるほど食えてるのか? 思わず隣に座る団員と顔を見合わせた。
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