【トル団/猫トルペ】かたこと 今日のトルペは、団長の家でひとりお留守番であった。
普段の練習には連れて行ってもらえることも増えたのだが、今日のお仕事は次の演奏会に向けて交渉したり計算したりで難しいのだそうだ。大好きな団長に「夕方まで、いい子でお留守番できるかい」と優しく問われれば、トルペも内心しょげつつも首を縦に振らない訳にいかなかった。
団長の家は、一匹だけでも決して退屈な空間ではなかった。遊び道具は豊富に揃えられているし、悪戯しないという約束でピアノの蓋も開けられ自由に弾くことができた。おやつも一日分がお皿に用意され、猫用の隠し扉を使えば外に散歩にだって行ける。
けど、やはり団長がいるかいないかの一点は、トルペにとって大事だった。昼時が過ぎた頃にはもう、お気に入りのクッションの上にころりと横になって、つまらなさそうに欠伸をしていた。
(一人だった頃は、ピアノを鳴らしているだけで一日なんてすぐ過ぎたものだけどなぁ)
トルペはぼんやりと考えた。彼は団長に保護される以前は、森の中の廃屋で置き捨てられたピアノを相手に日々を過ごしていた。その頃と比べたら随分たくさんの楽しみと、それから不自由を知ってしまったものである。そしてそれらはすべからく、トルペにとっての幸福に違いなかった。
(団長さん、今何をしてるんだろう……)
トルペは体を丸め、目を閉じた。指揮台の上の団長は、いつも背筋がしゃんとしてかっこいい。頭のいい人だから、他の仕事でもきっと活躍しているだろう。いつか自分も大きく立派になって、彼の側でかっこよく働けたら……などとほわほわ想像して、トルペの顔は幸せそうに緩んだ。
(……そうだ、言葉の練習をしようかな。団長さんがいない時こそ、よく勉強しておくべきだ)
トルペはぴょこりと起き上がり、自分用の本棚の隅っこから、一冊のノートを取り出した。ソファに座ってそれを開けば、へろへろと下手くそな字が一面に広がっている。トルペが肉球付きの前足で一生懸命ペンを執った、『覚えるべき人間の言葉』のメモであった。
猫のトルペは、人間の言葉を習得しようとしていた。以前団長から「君は人に似た声を出すことがあるね」と言われたのがきっかけであるが、この町は動物に親切な人が多かったし、彼らと自由に意思疎通する事に、元々憧れはあったのである。
トルペはにゃあにゃあと軽く鳴いて喉を整えてから、ノートを目の前に構え直した。何回か深呼吸して、冒頭の一文を読み上げる。
「ぼくの、なまえは、とるぺ……です」
辿々しいが、はっきりとした言葉がトルペの口から出てきた。
「ぼくは、ぴあのができます。ぴあのが、とくいです。にゃー……そら。つき。ほし……ほしが、すきです。にゃあ」
時々鳴き声が混じってしまうが、トルペは休みもせずノートを読み上げた。言葉を出すのにも少しずつ慣れてきて、長い文章でもあまり疲れない。ページをめくる速度も随分上がった気がして、トルペは次第に得意になってどんどんと読み進めた。
比較事例はめったにないが、実際のところ、トルペの言葉の習得速度はそれなりに早いらしかった。この前はリスの姉妹から「本当に人間が話してるみたいですわ!」と太鼓判を押してもらい、そろそろ団長さんとも話せるかもしれない、と思っているくらいであった。
やがてノートの最後の見開きまで辿り着くと、トルペは一旦読むのを止めた。このページは、彼にとって特に大事な言葉を集めた、特別なものだった。えへんと咳払いをしてから、小さな肉球でぽんぽんとノートの表面を整えて、ようやく読み始めるのだった。
「……だんちょうさん」
少し、緊張の混じった声だった。
「だんちょうさんは、いいひとです。ぼくは、だんちょうさんの、ふえがすきです。なでなでがすきです。こえと、めが、すきです……」
読みながら、尻尾がもじもじと揺れた。団長にこれを伝える日が来たとして、それはいつになるだろう。緊張しいの自分のことだし、果たして上手く言えるだろうか。きちんと聞いてもらえるだろうか。あんなに揚々と読み上げていたのが、考えてる内に声も勢いも萎んでいく。最後の一文を残して読み終えた時には、口の中でもごもごと言葉を咀嚼するだけになってしまった。
(こんなのじゃあ、団長さんに笑われてしまうかも……)
トルペはすっかり自信を失くしてしまい、耳をへたりと下げてノートを閉じた。ぼんぼんと鐘を打つ壁時計の音に顔を上げると、大きな窓から見える空が、水色から綺麗な桃色になり始めていた。
(そろそろ帰ってくるかなぁ。はやく会いたいなぁ、団長さん……)
トルペはノートを放り出し、再びそこへ伸びてしまった。そしてもごもごと、ほとんど無意識に、特別大事な最後の一文を呟いた。
「……ぼくは、だんちょうさんが、だいすきです……」
にゃあ、と終わりにひと鳴き聞こえて、部屋はそれきり静かになってしまった。
◆
団長が自宅に着いたのは、空がすっかり赤くなって、通りのガス灯がぽつぽつと光りはじめた頃だった。
(やれやれ、思ったよりも遅くなってしまったな。あの子も待ちくたびれていないといいけれど)
捌いてきた仕事の数々を思い出し、流石にちょっと疲労の影を目元に浮かべながら、団長は家の扉を開いた。
「ただいま」
夕方の薄暗い玄関に声が響く。一瞬置いて、パタパタと急いた足音がこちらへ向かってくるのが聞こえ、団長の口元が緩んだ。しゃがんで両腕を差し伸べれば、小さな金色の塊が、一直線にその中へと飛び込んできた。トルペであった。
「ただいま、トルペ君。遅くなってしまってごめんよ、不自由は無かったかい」
受け止められた腕の中で、トルペはにゃあにゃあと元気よく鳴きながら、団長に思い切りすり寄った。団長もその柔らかい毛並みに頬擦りをすれば、仕事の疲れもどこかへ吹き飛ぶ心地である。
「よしよし、無事お留守番を遂行した君に報酬を与えよう。ほら、いつもより大きめの魚を買ってきたから、夕食にそれを焼いてあげる。もういい時間だし、用意するから待っていたまえ」
食いしんぼうのトルペはパッと瞳を輝かせ、身を伸ばして買物袋を覗こうとしたが、団長の手がその首根っこをやんわり掴み、そのまま床へと降ろされた。団長がコートを脱いで廊下を進んでいく間も、トルペが恋しそうに足にまとわりつくので、それを避けて歩くのが少し大変であった。
トルペと団長の夜は、いつものように穏やかに過ぎていった。
美味しい食事を摂った後、団長は食後のお茶を、トルペはミルクを楽しみながら談笑し、その後風呂で体を丸ごと清潔にしてもらえば、もう夜も更けていく頃であった。
トルペは風呂上がりにふわふわのタオルで拭かれた辺りから、大分眠たくなっていた。団長が寝室のソファで寝酒を傾ける隣で、温かいランプの光に揺られて、もううとうとと船を漕いでいるのだった。
「眠たそうだね。先に寝ていてもいいんだよ」
団長の声が優しく眠りへ誘うが、トルペはふるふると首を振って、団長の膝の上へもそりもそりと身を登らせた。団長は苦笑して、グラスに入った赤褐色の甘さをくいと飲み干すと、温かいトルペの毛並みをゆっくりと撫でてやった。ごろごろ、気持ちよさそうな喉の音がする。
「ごらん、トルペ君。今日も随分と星が綺麗だ」
団長はトルペを抱き上げると、窓の側へと寄った。トルペが糸みたいに細めた目を少し開き、寝ぼけて小さな手を星に向かってちょいちょいと伸ばすのを、団長は微笑んで見守っていた。
「君は星が好きだね。そんなに手を伸ばして、星座にでも憧れているのかい……」
言ってから、団長は重たく口をつぐんだ。トルペの潤んで眠たげな目には、空の星屑がそのままに映っている。この綺麗な生き物が、今にも星に包まれて天に昇ってしまう気がして、団長は金色の頭を隠すようにしてそっと撫でた。
「そろそろ、ベッドに行こうか」
団長は低く呟くとカーテンを引いて、星空をすっかり覆い隠してしまった。
夢心地のトルペは、満天の星がいつの間にか消えてしまったのが不思議で、ふみゃと間の抜けた声を出した。そんな疑問も束の間、柔らかいベッドに下ろされると喉をますますごろごろさせて、隣に身を横たえた団長にぴったりと身をくっつかせた。
「おやすみ、トルペ君」
ランプの光が落とされると、暗い中で互いの感触がよく分かる。
団長の体温と匂いは、トルペの中にある母猫のかすかな記憶をどうにもくすぐった。トルペがほとんど赤ん坊と同じ気持ちでみいみい甘えた声を出すのを、団長もまた母に似た心で愛おしく撫でながら、静かに目を閉じた。
「……だんちょーさん、すき……」
眠りに落ちる寸前で、小さな小さな誰かの声を聞いて、団長の長い睫毛が緩く持ち上がった。
「……? トルペ君?」
傍らの猫は、すやすやと寝息を立てている。辺りを見回すが、カーテンの隙間から星明かりが漏れている以外は、穏やかな夜の暗闇が広がるだけだった。
団長は黙って布団に身を沈め直すと、小さな金色の頭にひとつ、キスを落とした。
「私も好きだよ、トルペ君」
その密かな言葉は、トルペの見ている夢をどのように彩ったのだろうか。それを明かす者のないまま誰もが眠りへ降りていき、夜はまた深くなっていくのだった。