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    numata

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    身内向けのねこるぺネタ。団長との出会いから一緒に住むまでの話。途中出てくる街猫の兄弟はカイトとかがみねのつもり。みくさんはどこでもみくさんです

    【トル団/猫トルペ】幸福の一頁 森にある水車小屋の廃墟には、そこを住処にする一匹の猫が居た。
     この小さな金色の猫は、廃屋に置き捨てられたおんぼろのピアノを相手に暮らしていた。前足を使ってぽろぽろ、時には鍵盤にそのまま乗っかってぽろんぽろんと、気ままに音を奏でては、他の動物に聞かせる毎日だった。
     ある日、そんな彼の元を訪ねる者があった。
     春の夕焼け空が、廃屋の割れた窓を色濃く染め上げる頃だった。いつものようにぽろんぽろんとピアノの響く部屋へ、ギイと古いドアを開けて入ってきたのは、背の高い人間の紳士であった。
     猫は夢中でピアノを弾いていたので、紳士の登場にしばらく気が付かなかった。ようやく一曲弾き終わり、満足してピアノ椅子へと下りたその時、部屋の真ん中に佇む彼に初めて目を向けた。
    「初めまして、猫くん。私は街のしがない音楽家です」
     紳士は優雅に帽子を持ち上げた。薄紫の髪に黒いコートを纏った、大人びて素敵な人だった。真冬の一等星みたいに澄んだ檸檬色の瞳が、猫の大きな目にきらりきらりと焼き付いた。
    「お化けピアノの噂の正体が、こんなに小さなピアニストだったとは。とても巧みな演奏でした。もう一曲弾いていただいても?」
     問いかけながら、紳士は帽子を胸に当てて微笑んだ。その優しそうな物腰に、猫はしばらく見とれていた。けれど彼が親しげにこちらへ一歩踏み出した瞬間、元来の人見知りが急に湧き上がってきて、猫は部屋の隅にあるタンスの後ろへ、わっと一目散に潜り込んでしまった。
    「あっ……驚かせてしまったかな」
     紳士は困った顔で、タンスの隙間を覗き込んで呼びかけた。
    「おおい、君をいじめるつもりはないよ。不躾だったのは謝るから、出てきてピアノを弾いておくれ」
     猫は隙間の奥で震えながら、ちらりと紳士に目をやった。窓から差す夕日が照り返して、彼の整った眉目を温かく染めている。きらきらと澄んだその眼差しでじっと見られているのが、つい反射的に逃げてしまった猫には一層恥ずかしくて、ますます体を丸めて奥へ引っ込んでしまうのだった。
    「……残念。あんなに素敵な音を出すのだから、仲良くなりたかったのだけれど」
     紳士はため息をつくと、手に持った鞄から一枚の紙を取り出した。
    「私は大抵ここに居るから、君が大丈夫ならいつでもおいで。うちの音楽は、きっと気に入ってもらえると思うよ」
     紳士はその紙を床に置いて、そのまま静かに立ち去ってしまった。
     誰もいなくなった後、猫は用心深く耳を立てて、隙間からそろりと顔を覗かせた。置きざりにされた紙には、いくつかの楽器の絵が描かれているようだ。それを見て、猫の目が輝いた。猫はピアノに限らず音楽が大好きだった。
     猫がタンスの後ろから抜け出したその時、割れた窓から一部始終を見ていたらしい子リスの姉妹が、ちょろちょろっと猫の両脇へ走り寄って、動物の言葉で喋り出した。
    「ピアニストさん、大丈夫ですの?!」
    「人間がここにくるなんて、とってもびっくりでしたわ! 何もされていなくて?」
    「何だよ、心配性だなぁ……大丈夫、ちゃんとした人だったみたい。ほら見て、街の楽団の人だって」
     猫はチラシを示した。そこには、音楽好きな動物達の間では、結構有名な楽団の名前が書いてあった。街では特に由緒正しい楽団で、コンサートとなるとこっそり聞きに行く動物も多かったし、この猫も、何度かホールの外から耳を立てて演奏を聞いていたことがあるくらいだった。
    「僕、こんなにすごい所にお呼ばれされちゃった。明日にでも行ってみようかなぁ」
    「でもでも、本当は怖い人かもしれませんわ」
     妹リスが、ぶるりと身を震わせて言った。
    「お母様が、人間の大人には特に気をつけるように言っていましたの。賢くて力もあるから、私たちなんかすぐ獲って食べられちゃうんですって」
    「しかもあの人、大きな体に黒い服、帽子まで被っていましたわ。めちゃくちゃに悪そうですわ。きっと怖いですわ!」
    「……そうかなあ、いい人に見えたけどなぁ」
     そう言うが、猫もだんだん不安になってきた。あの街の人は大抵動物に親切だが、それでも渡り鳥などの物知りな動物から、意地悪な人間の話はいくらでも聞き及んでいた。
     とはいえ、彼のあの優しそうな笑みを忘れる事もできず、結局行くだけ行ってみることに決めてしまった。細心の注意を払うと姉妹には約束して、次の日の朝、猫は廃屋を抜け出して街へと向かうのだった。



     猫は人見知りながら、音楽のあふれるこの街は好きだった。朝働きの人達の口笛や、早起きの奥さんの鼻歌を聞きながら、目立たぬように道の隅を通って、ひとまず街の中心を目指した。
     住宅の並ぶ道に入っていくと、そこでよく知った顔の街猫に出会った。彼は青い毛並みをした、弟妹思いの親切なお兄さん猫だった。
    「おはよう、森のピアニストさん。コンサートの時期でもないのにどうしたんだい?」
    「おはよう、猫のお兄さん。街の楽団にお呼ばれしたんだけど、ここからあとどれくらいかかるか分かるかな」
     猫は懐から小さく折り畳んだチラシを取り出して、街猫の兄に見せた。
    「へぇ、いい所に呼ばれたね。ここをもう少し行くと噴水のある中央広場に出るから、そこから商店街とは逆の、静かな道を進んでいけばその内辿り着くよ」
    「そっか、ありがとう……あの、そこの人たちって怖くはないかな」
    「僕もこの楽団には兄弟を連れて遊びに行くことがあるけど、怖い目に遭ったことはないな。どんな人に呼ばれたのかな?」
     聞かれた猫は、身振り手振りも交えて紳士の姿を伝えた。背が高く、黒いコートに薄紫の髪。優しく澄んだ瞳の、謎めいた人。それを聞いて、兄猫は何故だか感慨深そうに腕を組んだ。
    「じゃあ、是非もう一度会うといいよ。きっと忘れられない人になるんじゃないかな」
    「そうなの? 怖い人?」
    「ある意味では。……いやいや、怯えなくても大丈夫。いい人だけど、でも失礼のないようにはしておいた方がいいかな。僕から言えるのはそれくらいだよ」
     それから兄猫は、早くから歩き通しでお腹が空いただろうと猫を餌場まで案内して、猫好きの人が置いていくという缶詰を少し分けてくれた。猫はお礼を言って、今度この街猫の兄弟のためにピアノを弾いてあげる事を約束するのだった。


     次第に活気付く街の様子を横目にうろうろ進んでいると、ようやく目当てと思われる建物を見つけた。チラシと看板を見比べて同じ文字が書かれているのを確認すると、猫は意を決して大きな鉄門をくぐっていった。
     入ると、手入れの行き届いた庭が猫を出迎えた。緑豊かで、いくつもある花壇には春の花が色とりどりに咲いている。猫は少しほっとした。大事に使われている場所には、心根も綺麗な人が集まるものだと仲のいい羊から聞いたことがあった。
    (あの人はどこに居るんだろう……)
     猫は周りをきょろきょろと見渡した。正面に白い立派な建物と、そこから渡り廊下で繋がった小さな建物がある。どうやら思ったよりも広い場所のようで、目的地に着いたはずがすっかり迷い猫になってしまった彼は、ふにゃあと途方に暮れた鳴き声を上げた。
     そんな彼の耳に、風に乗ってかすかに美しい音が届いた。ハッとした猫は背筋と耳をぴんと伸ばしてその音に聞き入った。自然の音ではない、楽器の音がいくつも重なった、見事なハーモニーである。
    (きれいな音……あっちの建物からだ)
     猫は小さい建物の方へと走った。両脇を花壇に囲まれた入り口には、「練習場」と書かれた札が掛けられている。猫はドキドキした。まさに今、楽団のあの素晴らしい演奏がこの中で形作られている真っ最中なのだ。
     流石に中へお邪魔する勇気はなく、とはいえもっと聞きたい気持ちを抑えられない猫は、音がよくする方を探って建物を回り込んだ。日当たりのよい窓の下まで来ると、その部屋で練習をしているものか、音がすぐそこに聞こえるまでになった。猫はそれだけでは飽き足らずによじよじと壁を登って、何度かずり落ちながらもようやく窓の縁へと爪を引っ掛けた。
     窓枠の出っ張りになんとか足を乗せて、ぺたりと文字通り窓に張り付くと、漏れ聞こえる音楽へ存分に耳を傾ける。防音のためかぶ厚いカーテンが引かれて中は見えないが、次第に盛り上がっていく美しいハーモニーがはっきりと聞き取れた。猫は耳をしっかり立てて、音符の一つも聞き逃すまいと集中した。
     聞くほどに心が弾むような演奏だった。形式ばったオーケストラではなく、アコーディオンやハーモニカなどの、街の人達にも馴染み深いであろう楽器がいくつも聞き取れた。あの紳士ももしかして、この中で何か楽器を演奏しているのだろうか。そんな事を頭の片隅で思いながら、猫は耳をぴこぴこ、尻尾をゆらゆらさせてじっと聞き入っていた。
     曲が華やかに終わりを迎えると、ふっと体の周りから音の波が引いていくのが分かった。余韻という感覚もここまで鮮明なのは初めてだったので、猫は感動に体をぷるりと震わせた。
    「──うん、随分纏まったね。今の感覚を忘れないように。それじゃあ朝早くからお疲れ様。午前中はこれで解散」
     部屋の奥から穏やかな声が聞こえて、おや? と猫は首を傾げた。どこかで聞いた声だったが、考えている内に中ががやがやと騒がしい雰囲気になって、思考に雑音が混じってしまう。
    (あれ。なんだ、練習おわっちゃったんだ……)
     猫がしょんぼりしていると、内側から「換気換気〜♪」というかわいらしい声が聞こえて、あれと思う間にジャッと勢いよくカーテンが開けられた。ガラス越しに、窓に張り付いたままぽかんとする猫の目と、両手にカーテンとタンバリンを握った女の子の桃色の目が、しっかりと合ってしまう。
    「──わあっ! かわいいねこちゃん!!」
     女の子の大きな声に猫はびっくり仰天して、冗談でなく窓枠からすっ飛んだ。落下した猫はそのままドテンと格好悪く着地すると、たんこぶをさすりながら慌てて隠れられる場所を探した。そして窓の向かいに大きな花壇を見つけて、こんもりと茂る花々の中へと急いで逃げ込んだのだった。
    「ねこちゃん怖くないよ、出ておいで〜!」
     バン! と窓を開け放つ音に続き、スタッとこちらはスマートな着地音が聞こえた。なんと女の子は、室内から窓枠を飛び越えてそのままこちらにやってきたのだ。猫は驚愕と怯えを顔に貼り付けて、花の中で身を縮こませた。そんな猫の様子もなんのその、女の子は手に持ったタンバリンを鳴らしながら、相変わらず猫を呼び続けている。こういう元気すぎる子に捕まったら最後、頭の上から尻尾の先までもみくちゃにされてしまうであろう事は想像に難くない。
    「ちょっと、そんなに勢いよく迫ったらかわいそうでしょ、もう……」
     猫はぴくりと耳を動かした。落ち着いた声の持ち主が、向こうから小走りでやってくる。花の隙間から窺うと、少しくすんだ若草色の髪の少女が、タンバリンの女の子をたしなめていた。どうやらこの子は行儀よく、建物の出入り口を通ってここにやってきたようだった。
    「う〜ん、でもこの子、窓にベターン! ってくっついてたよ。きっと音楽が好きなんだし、仲良くなれるよ!」
    「まぁ、ちょっと変な猫ではあるかな……この辺じゃ見ない子だけど、どこから来たんだろ」
    「みんなで楽器鳴らしたら出てきてくれないかなぁ。ねぇ団長さん、団長さんもそう思わない?」
    (だ、団長さんだって!?)
     女の子の呼びかける方を見ると、向こうから背の高い影が歩いてくるらしいのが見えて、猫は恐ろしさに総毛立った。団長というのはつまり、この楽団で一番偉くて、一番逆らってはいけない人なのだ。きっとずんぐりむっくりとクマのように大きくて、いかめしくヒゲを生やしたおっかない人に違いない。猫は花壇の土の上に突っ伏してきゅうきゅうと情けない泣き声を上げた。頭の中では、鞭で叩かれて追い出されたり、あるいは檻に入れられたり、果ては大鍋で煮られて食べられたりする自分の姿が浮かんでは消えていき、体がガタガタと震えた。
    「……おや、その金色の毛並みは、もしやピアノの猫くんかな?」
     怯えていた所に優しい声が掛けられて、猫は涙の溜まった目をきょとりと開いた。おそるおそる見上げれば、揺れる花影の向こうに澄んだ一等星がきらりきらりと覗いている。間違いなく、昨日猫の元を訪れた紳士だった。
    (あの人だ!)
     見知った顔を見つけたのが嬉しくなり、猫は尻尾を振りつつ、花をかき分けてその間からぴょこりと顔を出した。
    「あれ? ねこちゃん出てきたよ!」
    「えっなに団長、猫と知り合いなわけ……?」
    「うん。昨日森の廃屋まで寄り道して、そこで出会ったんだ。あそこ、お化けピアノの噂があっただろう。驚くことにその正体はこの子だったんだよ」
    「そうなの? ピアノできるってこと?! すごーい!」
     女の子が拍手をすると、タンバリンがシャンシャン鳴って賑やかだ。猫は花に囲まれたまま、どうやら自分は褒められているらしいことを感じてにこにこした。
     だが少し考えて、はたと気付いてしまう。若草色の少女は今、この紳士のことを何と呼んだ? 自分が先程まで怯えていたおっかない人は、どこに消えてしまったのだ? 猫はきょろきょろしたが、目の前の三人以外には誰もいない。
    「ていうか団長、気になるとは言ってたけどあんなとこ、本当に行くなんて」
    「一人だとちょっと怖かったけどね。でも、聞こえてきた彼のピアノには敵わなかったよ……ねぇ? 猫くん。君は確かに森の小さなピアニストだ。街の楽団へようこそ。団長として、歓迎するよ」
     はっきり団長と名乗った紳士が、驚きで目をまん丸くする猫の前に屈み込んで目線を合わせた。昨日と少しも変わらない、優しい優しい微笑みだ。猫は、丸い目でまじまじと団長を見つめた。ああ、街猫の「失礼のないようにした方がいい」というのは、つまりこういう事だったのだ。今更照れと緊張が込み上げて、猫は顔を赤くしてモジモジと花の中で身じろぎをした。
    「そういえば団長、この子名前ないの? 仲いいみたいだし、猫くんだとちょっとそっけなくない?」
    「そうだよ!『おちかづきのしるし』に、団長印のかわいい名前つけてあげようよ!」
    「ふむ、そうかい? 猫くんが嫌でなければ……」
     団長は猫を見つめた。花壇から顔だけ見せてじっとこちらを見つめ返す猫は、その毛並みに花をそこかしこに引っ付けているようだ。頭の上には、小さな帽子のように赤いチューリップの花びらをちょこんと乗せていて、さらに見れば、彼の尻尾は後ろの方でも、チューリップの花の群れと一緒にゆらゆらと揺れている。物語の小人か妖精のような、思わず口元が綻んでしまう愛らしさだった。
    「……トルペ君、でいいんじゃないかな」
     猫の目がパッと輝いて、この時から、この猫の名前はトルペということになったのだった。


     楽団に来て早々であるが、トルペは、練習場のピアノの前で早速ピンチを迎えることになった。
     花壇から団長に抱き上げられて、練習場へ案内されたのまでは良かった。外でのやりとりの間に団員はほとんど出払って、室内ががらんと静かになっていたのも別に問題ない。ただ一人、部屋に残っていた青髪の女の子が、一部始終をタンバリンの子から聞いて、
    「ミクもトルペ君の演奏聞きたーい!」
     と言い出したのが問題だった。
     トルペは始め、得意なピアノを改めて楽団の人に聞いてもらえるというのに勇み立った。ミクというらしい団員に向かってにゃあと返事をすると、ぴょんと団長の腕を抜け出して、自分からピアノ椅子の上まで走っていった。
    「よし、気合い十分だね。ではトルペ君、君の好きなように弾いてくれたまえ。気を張らず、昨日のように自然に弾いてくれればいいよ」
     団長が言って、ピアノの蓋を開けてその鍵盤を示した。トルペは気が付かなかったが、この時団長の隣に立った若草色の少女が、ぽそりと団長に耳打ちをした。
    「ねぇ団長、なんかオーディションみたいな雰囲気になってるけど、結果次第でこの猫入れるとかじゃないよね?」
    「うーん……ダメかい?」
    「いや、流石に難しいんじゃない? 猫だし」
    「何、この楽団においては演奏が成り立てば問題ないとも。そうでなければ、ミク君の宙返りしながらのハーモニカ演奏なんて許していないのだからね」
     さて、二人がそんな会話をしているとも知らないトルペは、意気揚々とピアノに飛び乗ろうとした。そして、ここで困ったことになってしまったのだった。
    (……あれ。体がうまく動かないぞ)
     弾こうと思い立った瞬間に、トルペの小さな体はピアノ椅子の上で糊付けされたように固まってしまった。踏ん張っても足が上がらず、トルペはふにゃふにゃと困った鳴き声を上げた。
    「あれれ? どうしちゃったのかな」
    「カチコチになっちゃってるよ〜?」
     周りから心配そうな視線を受けて、トルペは冷や汗をかいてさらに体を縮めた。
    (お、おかしいな。こんなハズじゃないのに、どうしたんだろう……)
     トルペの緊張を察したのか、団長が進み出て、小さな頭を撫でてくれた。人に触られるのは苦手なトルペだったが、彼の手は大きくて、心地よくて、不思議と自然に身に受けることができた。
    「大丈夫、君の音に点数を付けようという訳じゃない。リラックスして。さあ、鍵盤に乗るまでは手伝ってあげよう」
     団長は、手の温かさに少し緩んだトルペの体を抱え上げて、つやつやした鍵盤の上にそっと乗せてくれた。猫の重さに白黒の足場が沈み込んで、ぼろろろん、と不協和音が鳴ってしまう。乗せてもらったトルペは、弾き慣れたピアノよりもよっぽど立派な様相のそれにますます身がすくんで、ふるふると震えるばかりだった。
    「ふぅむ……最初に会った時の感じからしても、どうやらトルペ君は随分な緊張しいのようだね。人前で弾いてもらうのは難しそうだ」
     団長の言葉に、その場にいた団員らは残念そうにため息をつき、トルペもまたしょんぼりと項垂れた。せっかく団長に招かれたのに、肝心のピアノを聞かせてあげられないのでは面目ないことこの上ない。情けなさに今すぐ逃げ出してしまいたい気持ちになったが、団長の立場を思えばそれも不誠実なことだ。どうしようもなくなってしまった猫の目に、じわりと涙が浮かんでくる。
     トルペは団長を申し訳なさそうに見上げた。きっと失望されていると思ったが、しかし、彼は視線の先で、にこりと明るい笑みを浮かべた。そして部屋の隅に置かれた黒いケースを開けたかと思うと、そこから古めかしいフルートを一本、取り出してみせた。
    「では今回は、私の方からトルペ君に演奏を贈ることにしようか。むしろその方が自然なことだ。楽団の人間は、来てくれた人を音楽で迎えるのも仕事だからね」
     団長の言葉に、団員達の方からわっと声が上がった。
    「ええっ! 団長さん、笛吹いてくれるのっ?」
    「久しぶりだと思うけど大丈夫……?」
    「これでも音楽家を名乗っているからね、毎日練習は欠かしていないとも。それでは何を吹こうかな、トルペ君が分かるようなのがいいと思うけれど……」
     団長はフルートを構えて、音の確認のために、まずは自由にそれを吹き鳴らした。トルペはピアノの上に乗っかったまま、早速耳をぴこりと動かした。次々滑り出てくる音色は感情と色彩に満ちて、音楽を心から愛している人の音だとすぐに分かった。
     鳴らしている内に、ピンと思い付いたものがあったらしい。団長は一呼吸置くと、かわいらしくも流麗な、不思議なメロディを吹き始めた。途端、トルペの顔がぽっと赤くなった。昨日彼が廃屋で心のままに奏でていた曲に、即興でアレンジを加えたものであった。
     いつの間にか、そこに女の子の軽快なタンバリンが加わり、ミクがポケットから取り出したハーモニカも愉快に音を添えた。若草色の少女だけは恥じらっているのか、少し後ろの方に佇んでいたが、それでも楽しそうに音に合わせて手拍子を打っている。次第に賑やかになる音楽にトルペの体がむずむずしてきたのを、檸檬色の瞳は見逃さなかった。
    (さあ、君も一緒に)
     ぱちり、とさりげなく送られたウインクに、金色の体がまだ少しぎこちなく、けれど大層幸せそうに鍵盤の上で動き出す。ぽろんぽろんと響くピアノでもって、この小さなピアニストへの歓迎は最高に楽しい音楽となって完成したのだった。



     トルペは楽団へ行って以来、森の廃墟と街の楽団を往復する日々を送った。相変わらず、何故か人前では演奏できないトルペだったが、それでも楽団は楽しく、学ぶことは大変多かった。そして新しく知ったメロディを廃屋のピアノで奏でて、森の動物達の耳をますます楽しませるのだった。
     ある日、トルペは街猫の兄弟を招いて、かねての約束通り彼らのためにささやかな演奏会を開いた。その晩は、演奏にとてもよい明るい月夜だった。窓から注ぐ月の光にピアノの音がキラキラと浮かんでは消えていって、部屋の中は小さな星空のようになった。
     一通り弾き終わったトルペは、この前の兄猫に加えて、弟妹猫の拍手を受けながらピアノから下りた。二匹は黄色い毛並みの、いつも元気いっぱいの双子の子猫だった。
    「ピアニストさん、すごーい!」
    「前よりもっと上手になってるね!」
    「うん……まあ、大したことないよ。楽団の人達はもっとすごいから、毎日行っても勉強することばっかりさ」
     そう言いながらも、トルペは少し誇らしげに胸を張っている。それを見て兄猫は、にこにこと嬉しそうに笑った。
    「それにしても、楽団に上手く馴染めた上、素敵な名前までもらったんだから良かったよ。あそこの団長、いい人だったろう」
    「あ……うん、とっても優しい人だよ。というか、お兄さんもいじわるだなぁ。団長さんのこと知ってたなら教えてくれてよかったのに」
    「あはは。でも教えたら、君はおっかなくなってその場から動けなくなっちゃうかもと思ってさ」
     身に覚えのあるトルペは、赤くなって頭を掻いた。双子がそれを見てけらけら笑うので、ムッとしたトルペが二匹の頭を肉球でぺこぺこ叩くのを、兄猫は苦笑して宥めてやるのだった。
    「そういえば、あの楽団の団長……彼はね、実は街猫の間でも有名だよ。僕らの集会に、たまにやってくるんだ」
    「団長さんが? 人間なのに?」
    「うん。僕らも音楽には憧れがあるから皆で集まるとにゃあにゃあ合唱なんてするんけど、そうしているといつの間にかやってきて側でそれを聞いているんだ。気づいた仲間が逃げ出そうとすると、『構わず続けてくれたまえ。聞く以外には何もしないからね』って笑うんだよ。何もしないと言う割にはお礼と言って差し入れもくれるし、いい人だけど、変わり者さ」
    「集会って、そんなに人が来やすい場所でやるのかい?」
    「まさか。人通りのない裏路地や、空き家の軒下や、そうでなければ屋根の上だよ。でもあの人はどこにでもやって来て、自然と僕らに溶け込んでいるんだ。彼、前世で猫だった事があるんじゃないかなぁ……なんて、たまに思ったりするよ」
     トルペは団長の話を興味深く聞きつつ、いつの間にか耳がへたりと垂れていた。団長にとっては自分のピアノだけが特別だと思っていたのが、どうやらそうでもないらしいと知って悲しくなってしまうのだった。
    「ピアニストさん、がっかりしないで。彼から楽団に招かれるなんて名誉を受けたのは、正真正銘、君だけなんだからね。楽団に行ったということはピアノも聞かせてあげたんだろう。喜ばれたんじゃないかい」
    「うう、それなんだけど……」
     トルペは、耳に続いてしっぽもしょんぼりさせた。
    「なんか、楽団の人の前だと上手く弾けないんだ。いつも通りにすればいいのに、見られてると体が固まっちゃうというか、ロクに鍵盤にも乗れなくって……」
    「あっ、それボクちょっとわかるかも!」
     弟猫が、小さな手をちょこりと上げた。
    「人間の目って、見られてるとなんかソワソワするんだよね。なんなんだろう、あれ」
     それを聞いた兄猫が、顎に手を当てて考える。
    「うーん、不思議だね。彼らは対面でのやり取りがとても繊細な生き物らしいし、表情や視線の使い方も僕らとは全く違うのかもしれないな。けど弱点がはっきり分かっているならむしろ強いよ。頑張れば克服も難しくないさ」
    「そうだよー! きっと大丈夫だよ、元気だして!」
    「元気だしてー!」
     そう言いながら、双子がトルペの両側からぎゅっとくっついてきた。兄猫も便乗して、背中を押すようにしてすりすりと擦り寄ってくれた。素直でないトルペはまだむっつりとしていたが、彼らの励ましが本当は嬉しくて、自然とごろごろ喉が鳴り、耳や尻尾も持ち上がってくるのだった。
    (……なんか、寄り添ってもらうだけで心まであったかくなって、幸せだな。僕は一匹暮らしだけど、この兄弟みたいに家族がいると、不安なことがあってもこうやって支え合えるのかな。ちょっと羨ましいかも。僕も誰かを幸せにしたり、支えてあげたりしたいなぁ……)
     しょぼくれていた金色の毛並みが少しずつふわふわと元気になって、ぱちりと明るく目を開いた。
    「じゃあ、僕はいつか団長さん達にもピアノを弾いてあげられるよう努力しなくちゃ。人の視線なんか気にならなくなるように、今はいっぱいピアノを弾くよ」
     トルペはそう言うと、猫が寄り集まって毛玉団子のようになった中からぴょこんと飛び出した。ピアノ椅子に登って、決意を込めた手でおんぼろの鍵盤をぱんと強く押し付ける。ぽろんといつも通りの綺麗な音を期待したが、しかし、塗装のはげた白黒は、沈んだ拍子にカコンと固い音を響かせた。
    「あれっ?」
     トルペは聞き慣れない音にびっくりして、改めて鍵盤を押してみるが、相変わらずガコガコと変に鳴るだけだった。焦ったトルペは鍵盤に乗って、高い音から低い音まで全部押してみたが、ピアノはもう眠ってしまったように、少しも前のような音を出さなかった。
    「どうしよう、音がしなくなっちゃった……」
    「えーっ? ちっとも鳴らないの?」
    「まだ聞き足りないよー」
    「こらこら、僕たちはもう十分聞かせてもらったんだから我儘はいけないよ。でも、鳴らないのは心配だね。直し方は分かるのかい?」
     兄猫の質問に、トルペは答えることができなかった。彼はピアノが弾けても、その仕組みはさっぱり分かっていなかった。彼にとってピアノは鍵盤を押せば音が鳴る魔法の道具であり、だから突然それが沈黙してしまった事実は、悲しさよりも魔法が解けてしまったような寂寥感をより強くトルペに与えていた。
    「……だ、大丈夫。今までもちょっと音が狂ったり、悪くなったりすることはあったし、きっとその内戻るよ。でも、今日は無理……かな。ごめん、少し一人で考えさせて……」
     トルペは俯いて、前足で鍵盤をぐりぐりとにじった。街猫の兄弟は心配そうにピアニストを見ていたが、兄猫が促すと、そっと廃屋から出て月夜の道を帰っていった。
     トルペはその晩、ずっとピアノから離れなかった。こいつはきっと具合が良くないのだと思って、ピアノを慰めたり、励ましたり、撫でてあげたりした。それでも鳴らないから、今度は怒鳴ったり、喚いたり、叩いたり引っ掻いたりした。必死な彼を嗤うように、鍵盤からガコンガコンと固く冷たい音が響いてはピアニストの耳を苛んだ。
     空が明るくなる頃には疲れと空しさが募って、トルペはへたへたと自分の寝床に潜って丸くなってしまった。少しずつ鳴き出す小鳥の声を聞きながら、街猫の兄弟を挨拶もなしに帰してしまったことに今更後悔を覚えつつ、そのまま寂しく眠りについた。


     次の日、トルペは寝床から少しも動けないでいた。目が覚めたのは日が昇って随分経った頃だったが、音のしなくなったピアノを目に入れたくなくて、ころころ寝返りを打ちつつぬるい眠りに浮いたり沈んだりを繰り返していた。トルペは夢でもピアノを弾いていたが、夢の中では美しい音を奏でるそれは、目覚めの度に彼の心をますます惨めにくしゃくしゃにした。
     子リスの姉妹ほどではないが、猫の噂というのはそれなりに足が速かった。トルペは部屋のタンスの下から二段目を寝床にしていたが、そこへ何匹か親しい動物が顔を出しては、慰めの言葉と見舞いの品をぽとぽと落としていった。昼が過ぎた頃には、寝床はトルペ以外にも木の実や果物がころころと転がっているような有様になっていた。
    (……ピアノ、そろそろ直ってないかなぁ。うう、もしこのまま直らなかったらどうしよう。人間のお金なんてないから新しく買うこともできないし、これが直らなきゃ、もうどうしようもないよ)
     トルペは嘆息すると、流石に空腹を覚えてへろへろと起き上がった。身を起こした拍子に、ピアノが視界の端を掠める。ピアノは見慣れたままのおんぼろな様子で、部屋の隅に沈黙していた。鳴らなくなってしまったのが嘘みたいにいつも通りの光景だったが、トルペはやはり触れる気にはなれずに目を逸らした。
     トルペはたまたま手元にあった木の実を、とりあえず口に運んでみた。リスの姉妹が持ってきてくれた大粒のクルミだったが、気持ちのせいかあまり味はしない。続いて渡り鳥の運んでくれたさくらんぼと、羊のお土産らしいすももを口に詰め込む。やはりあまり美味しく感じなかったが、お腹が満たされ喉も潤うと、体の方は少しだけ元気が出てきた。
    (陽も傾いてきたし、楽団の練習は終わっちゃったかなぁ。でも、明日からどうしよう。人前でピアノができなくて、自分のピアノも鳴らないんだったら、僕の音楽的な存在意義なんて無いみたいなものじゃないか。団長さんだって、今度こそ僕に失望してしまうかも……)
     そこまで考えた時、こんこんこん、とドアが軽く叩かれた。ノックなんて事は今まで経験のなかったトルペは、驚きのあまり小さく跳ねてそのまま寝床に隠れてしまう。ギイと扉が開かれて現れたのは、今しがた考えていたばかりの、黒いコートの紳士であった。
    「こんにちは。トルペ君は居るかな」
     優しい声がして、トルペはほっとしておずおずと寝床から顔を出した。あの日ぶりに団長が訪ねてくれたのは嬉しかったが、状況が状況なので、みゃあ、と小さく鳴き声を上げるだけにとどめた。
    「ああ、いたいた。今日は来なかったから心配していたんだよ。随分元気が無いけれど、体の具合がよくないのかい」
     団長はトルペの元までやってきて、顔を覗き込むようにかがんで頭を撫でてくれた。トルペはそれだけで安心して、耳をぺたんとさせて目を細める。気遣わしげな手の下で、金色の癖毛がふわふわと夕陽に光った。団長の姿もまた、出会った時と同じように夕陽に照らされて、温かな幻想の一部のようになっていた。
    「トルペ君、私と君は音楽で繋がった友なのだから、困ったことがあるなら頼りなさい。君を助けるために、私が協力できる事はあるだろうか」
     団長の言葉を聞いて、トルペはパッと閃いた。そうだ、何故思いつかなかったのだろう。楽団には楽器がいっぱいあるのだから、そこの団長さんならば直し方だってきっと分かるはずなのだ。トルペは寝床を飛び出して、にゃあにゃあと鳴きながらピアノを団長に示した。そんなトルペを見て団長は不思議そうに立ち上がり、促されるまま鍵盤に手を置いた。ことん、と虚しく沈んだ鍵盤に、ハッとしてトルペを見下ろす。
    「そうか、君のピアノは鳴らなくなってしまったんだね。それは辛かろう……そうだね、どこが悪いか見るだけ見てみようか。随分古いし、あまり自信はないがね……」
     団長はガタゴトとピアノの屋根の蓋を開けると、舞い上がる埃にけほけほ咳をした。ピアノの中は暗く、団長は鞄の中から小さなランプを取り出し、火を灯して注意深く中を照らした。トルペはドキドキしながら、炎の陰影に揺れる団長の顔を見守っていた。彼の険しい表情に状態があまり良くないことを察するが、もう後がないトルペはざわざわする胸中をぐっと押し留めて我慢していた。
     やがて団長は顔を上げると、ゆっくりと首を振った。
    「残念だけれど、もういけないね。内部の部品が一つ残らず朽ちるか、錆びるかしている。今まで弾くことができたのが不思議なくらいだ。オーバーホールしようにも外側も大分傷んでいるし、これ自体がしっかり直ることはないだろう……」
     団長の言葉を聞いて、トルペはとうとう泣き出した。最後の希望も絶たれ、生まれて初めての絶望感にぽろぽろと涙が溢れて止まらない。夕暮れの赤い部屋に、小さく無力な猫の泣き声がこだました。
     団長は、ランプを置くと泣き続けるトルペを抱き上げた。そしてピアノ椅子に座って、清潔なハンカチで目元を押さえてやりながら、腕の中の猫を何度も撫でてやった。
    「力になれなくてごめんよ」
     彼の言葉を、トルペは否定したくて首をぶんぶん振った。大粒の涙がはらはらと散って、団長の白い手を春の雨水のように温かく濡らした。
     それから、トルペはハンカチがぐしゃぐしゃになるまでずっと泣いていた。ようやく落ち着いた頃には日が沈んで、薄暗くなった部屋には、ピアノの上に置かれたランプの火がひとつ浮かんでいた。団長を見上げると、炎に照らされた瞳が優しい光を含んでトルペを見下ろしていた。
    「沢山泣くことができて、偉いね。私もこれが鳴らなくなってしまったのは残念だ。なかなか味のある狂い方をしていたからね……調律の話だよ。音階あってのピアノだが、秩序ばかりが音楽ではないんだ」
     語るように団長は言うと、長い指でトルペのひたひたになった目蓋をそっと撫でた。泣き疲れたトルペは、団長の腕の中でみゃあと弱く鳴いてその胸に縋った。彼の側はなんだかいい匂いがして、安心する。ぽっかり穴の空いた心は、誰かの体温を欲して仕方がなかった。もうこの優しい人から離れたくなくて、みいみい、トルペは母猫を呼ぶ子猫のように鳴いた。団長はそれを軽く抱きしめてから、少し迷った様子で口を開いた。
    「……トルペ君。こんな時に何だが、私の家に来ないかい」
     ぴゃ、と驚いたトルペから変な鳴き声が上がった。突然の誘いに目を丸めて固まるトルペに、団長が軽く咳払いをする。
    「今日わざわざここに来たのは、この話をするためでね。まあ、これにも理由がある。私の親戚が引っ越しと一緒にピアノを新調したというので、元あった物を私が引き取ったんだ。けれど楽団の方にピアノは十分あるし、小型だから自分の部屋に置いたものの、正直持て余していてね。その、君がよければ使ってもらえるといいかな、と思って。それに……」
     団長の説明が、何故だかだんだん歯切れ悪くなってくる。
    「それに数年前、ずっと仕えてくれていた使用人が老年だからと暇を出したのだが、一人暮らしをしてみると、なかなかこれが……寂しくてね。君とは気が合いそうだし、家族に、なってもらえないかと……」
     団長が気恥ずかしそうに頬を掻いてトルペを見た。今やトルペの目は丸いだけでなく、くりくりと大きく見開かれていた。ランプの光を映して、潤んだ瞳が星のように輝いてはぱちんぱちんと瞬いている。
    「……うん。もちろん君が嫌なら辞退するよ。家に来ずともピアノだけ君に譲ってもいいし、君が元のピアノにどうしても愛着があるならそれだって断ってくれても……うわっ!」
     今度は団長が驚いて声を上げた。感極まったトルペに、思い切り襟元まで飛びつかれたのだった。また自分のピアノが弾けるのも、新しい家族ができるのも、トルペにとって思いがけない神様からの贈り物だった。にゃあにゃあ鳴き、団長の顔にすり付いて、全身で肯定の意を発した。
    「おやおや、そんなに嬉しがってくれるならなによりだ。私の家はここからあまり遠くないし、早速行ってみるかい。あんなに泣いたのだから喉も渇いているだろう。実は気持ちが早るあまりキャットフードやミルクはもう買っていて……いや、なんでもないよ」
     団長は誤魔化すように手を振って立ち上がると、トルペをピアノ椅子に下ろして手早く荷物をまとめた。くしゃくしゃのハンカチを別のハンカチに包んで鞄に入れ、置いてあったランプを仕舞い、ピアノの屋根も丁寧に元に戻した。
    「君は、何か持っていく物はあるかい」
     トルペはにゃあと鳴いて首を振った。この猫には元より、ピアノ以外に何も無かった。団長はそんな彼を見てどこか寂しげに微笑み、最後に古いピアノを優しく撫でて呟いた。
    「この子の側に居てくれて、ありがとう」
     団長は、トルペを再び抱き上げて廃屋の扉を開いた。青い夜空には月が昇りだして、その光が開かれた扉から部屋の中を照らす。トルペは団長の肩越しに、もう二度と鳴ることはないピアノへ向かって小さく手を振った。ピアノは月の光を浴びて、猫の門出を見守るように、ただ静かにそこにあった。



     カーテンの隙間から夜明けの朝日が差すのを感じて、トルペは布団からひょこりと顔を出した。
     くあ、と大きな欠伸をして、隣で眠る団長にすりすりと頬擦りをする。いつもならばすぐに起こしてしまうのだが、今日は休日だからゆっくり眠らせてあげたくて、ごろんごろんと甘えるだけにしておくのだ。布団に潜って彼の大きな手にすり寄り、良い香りのする髪にぐいぐい鼻先を埋め、安らかに上下する胸に乗って綺麗な寝顔を見守る。大切な人が側にいるだけで、トルペはこんなにも幸せだった。
    「……ぅ、ん、トルペくん……?」
     うみゃっ、とトルペは驚いた。もっと寝かせてあげるつもりだったのに、団長はもう長い睫毛をゆるゆる持ち上げて、とろりと甘そうな檸檬色の瞳でこちらを見つめていた。
    「おはよう、トルペ君……ふふ、そんなにごろごろ甘えられたんじゃあ、私だって起きてしまうよ。君、意外と重たいしね……構わないよ。ほら、もう少しこうしておいで」
     団長は布団を持ち上げて、胸に乗ったトルペに掛けて、軽く抱きしめるように手を添えた。団長の眠りは深い分、どうしても寝覚めが悪い。完全に覚醒するまで、ふわふわと微睡んでいる時間が少し必要なのだった。
    「今日は一日お休みだから、なにをしようかな……ご飯を食べて、散歩に行って、そうしたら一緒に、新しい楽譜でも見てみようか……午後になったら、君の友達が訪ねてくるかな? 私は別室で本でも読んでいるから、たくさん弾いてあげなさい。私の部屋まで届くくらい、一生懸命ね。ふふふ……」
     トルペは頭を撫でられて、ごろごろと喉を鳴らした。と同時に、ぎゅう、とお腹まで鳴ってしまい、恥ずかしさに真っ赤になって布団に隠れてしまう。団長は笑うと、すっかり目が覚めたのか、トルペを抱いてゆっくりと身を起こした。
    「そういえば、君を家に迎えてから今日で1ヶ月か。なかなか上手くやれていると思わないかい。これならもう一匹くらい家族を増やしても……はは、冗談だよ。私には君だけさ。さあ、身支度をして、ご飯にしようか」
     にゃあにゃあ、トルペが元気な鳴き声を上げる。カーテンが開けられて、朝日と共に幸せな一日はまたひとつ重ねられるのだった。
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    Replies from the creator

    numata

    DOODLE楽団のモブ視点のトル団。トが楽団に入るまでの両片思い話。モブは見守り系ではなく、がっつり二人に関わってきます。序盤の感じが最後まで続きます。団長がちょっとやんちゃかもしれない
    (モブの要素→楽団のベテラン/既婚者子持ち/ノリが適当/世話焼き/団長の友人)
    【トル団】ある弦奏家の言うことには 俺はしがないバイオリン弾きだ。ある町の楽団でそれなりに活躍して、それなりに楽しく、またそれなりにつまらない生活を送っている。
     ところが、平凡な人生の中にも、流れ星みたいにきらっとして、でもちょっとやっかいな出来事というのは降ってくるものだ。
     これから話すものが面白いかどうかは人によると思うが、例のピアノ弾きにまつわる話だと言ったなら、少しは興味もそそられてくれようか。



    (人形みたいな奴だ)
     オーディション会場にあいつが入ってきた時、俺が最初に思ったのがこうだった。ちょっと癖のある金髪、不安そうに伏せた睫毛も金色。ガチガチに緊張した表情は、その柔らかそうな童顔をむしろ無機物っぽく見せている。
     長机に着いている団員らの方も見ずに部屋の真ん中まで進み出たそいつは、ぺこん、とぎこちなく一礼をした。粗末なシャツから、痩せた鎖骨が覗いている。果たして音楽をやる余裕があるほど食えてるのか? 思わず隣に座る団員と顔を見合わせた。
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